小説(さる はいてますよ パクリ)

白い背徳の果て  by  勇智真澄

「おい、カネがふってきたぞ」
遅い昼ご飯を食べ終え、窓辺に置いてあるテレビを見ていた孝雄がソファーから起き上がり大声で言う。
台所に立つ弘子の背中にその声は届いたが、弘子は洗い物の水の音で聞こえないふりをした。そうして流し前の出窓のすりガラスに目をやると、ふわふわと白い影が漂っている。それはもうすぐ、白い線をなして落ちていき、辺り一面を銀世界にすることだろう。早く根雪になればいいのに、と弘子は思った。
 
平日の日中に家に居る夫なんて煩わしい。一日中、一緒にいて楽しいのは恋人時代と新婚からの半年で十分だった。だらしなく居座る夫に、早く出かけないかとイライラする。見たいテレビ番組も好きな本を読む時間も邪魔されている、自分のリズムで生活したい、一人になりたいという気分になる。
同居生活が幾度かの冬ともなると、そんな気持ちがふつふつと湧いてくる。
それも仕事がなくて居るのだから冗談じゃないわ、と余計にそう思う。
 
当時、高校生の孝雄は弘子の一年先輩だった。いつも数人の仲間と連れ立って行動していたが、悪さをする団体ではなく、物真似やコントなどをして笑いの絶えない人気者集団だ。
弘子は彼らのファンであり、特に孝雄に好意を寄せていた。孝雄も好いてくれて、いつしか交際に発展していた。
弘子は決して面食いではない。端正な顔立ちより、どちらかと言えば猿顔が好き。例えばアイドルデュオのKinKi Kidsでいうなら、立ち位置が向って左、背の低い方の堂本剛がいい。孝雄も、そっち系だった。
孝雄はその集団のボス猿的存在で、みんなをまとめていた。
リーダーシップをとる孝雄は頼もしかった。
 
孝雄は高校を卒業すると、大工見習として働き始めた。
弘子は、その翌年、短大に進学した。在学中も、孝雄とはデートを重ねた。
肉体労働の現場で疲れているはずなのに、休みの日には映画を観たり水族館に行ったりもした。孝雄の言動行動のあれこれが、恋愛教本のパクリだと弘子は気づいていたが、嬉しいことに変わりはなかった。
受け売りなのに、さも自分で考えたかのように得意げな孝雄が可愛く見えた。
 
だが、母はずっと孝雄との付き合いに反対していた。
あなたには似合わない。せっかく大学までやったのに、なぜ日雇いの工夫なんだと口うるさく言われた。母にとっては四年制の大学も短大も大層な大学に変わりなく、自慢でしかなかった。弘子は母が自慢するたびに、そうじゃないんだけどな、と気恥ずかしく思った。
 
そう、孝雄は大工といっても会社に属する職人ではなくフリーランスなのだ。
フリーランスといえば聞こえはいいけど、親方からの声がかかってなんぼの世界。その誘いが頼りだった。
大規模な建設現場は工期が長く、収入も安定する。
ただ雪国の現場仕事は働ける周期が短い。雪が降る頃になれば工事は一時ストップする。
そのため孝雄は、冬季は除雪の仕事を請け負うのだが、こちらも稼働した分の日給月給となる。とくに暖冬の年は稼働率が悪い。
現場工事は春まで始まらず、雪が降らないことには収入がない。だから除雪を請け負う人たちは、雪が降るとカネが落ちてきたと喜ぶのだ。
弘子は、この下世話な物言いが性に合わず、孝雄が口にすると嫌な気持ちになる。ありがたいことなのだが……。
 
学生時代はボス猿だった孝雄。それが今は木から落ちた猿みたいに、勝手の違う仕事に就くこともなく途方に暮れている。いまさら会社員にもなれず、手についた職を捨てることもできなかった。
それがケンカとイライラの最たる原因になる。
 
やっぱり親の反対を押し切って、孝雄と結婚したのは間違いだったのではないか。弘子は母に反対された理由が、今になって身に染みてきた。
釣り合いのとれた良い縁談を、と望んでいた母。母の言う良い縁談とは、医師や公務員などで堅実な勤め人のことだった。小さな町の電気店で育った弘子にとっては高望みの部類かもしれないが、娘には金銭で苦労させたくないという親心からだったのだろう。
弘子は、安定した収入を得られることが精神的にも安定すると思い始めていた。
 
明日の早朝には孝雄は出かける。
除雪車は新聞配達のように、皆が目覚める前に動き出す。メイン道路を手始めに、路地や駅前を回り、事務所で暖をとり、また積もった雪を寄せに出動する。
弘子は止むことなく降りしきる雪に心を躍らせた。
孝雄に仕事ができたこと。一日中イライラして孝雄につんけんしなくていいこと。自分の時間が持てること……。重荷になっていた数多のそれらが、ゆったりと退散して行く。弘子の心は、粉雪のように軽くなった。
弘子は幸次に連絡してみようと思った。そろそろ取り立ての免許で、新車を運転してるはずだ。
 
「ひろこ?」
3ヶ月前、弘子は運転免許センターで、すれ違いざまに声をかけられた。
「こうじ?!」
それは中学の同級生、幸次だった。幸次は、すっかりあか抜けてしまい一瞬見間違うほどだが、人懐っこい笑顔は当時のままだ。
進学した高校は別々で、通学途中にたまに顔を合わせるだけになり、幸次は都会で就職したと風のうわさに聞く程度の仲だった。
この日、弘子は免許の更新に、幸次は免許取得のために学科試験を受けに来ていた。
 
時がたっても旧友とは自然に会話が弾む。
幸次は銀行に勤めていて、単身赴任先が地元だった、と。場所柄、交通の便が良くないので、家族が遊びに来るときのために免許を取ろうと思ったということなどを知った。
弘子もまた、自分の近況に少しさくら色を付けて語った。
 
幸次は「男のくせに」と言われるのが嫌で、喫茶店では好きなケーキを頼まないことが多いという。弘子も甘党で、ふたりなら気兼ねせずに話したり食べたりできるね、とたまに会うようになっていた。
弘子は、都会風にセンスのいい幸次に、聞き上手で話し上手の幸次に、ほのかな恋心のようなものを持つようになっていた。それは孝雄とは別の風景を見たいという欲望なのかもしれなかった。
 
「中古からでいいんじゃないの?」
初心者ドライバーは、必ず一度や二度、電柱や石垣などで車の側面を傷つけてしまう。運転に慣れるまで、新車はもったいない。それを心配して、いつもの喫茶店でバニラアイスをつつきながら弘子は忠告した。
「新車の方が大切に、注意して乗るだろ」
幸次もチョコケーキにフォークを刺す。
弘子の意見は聞かずに、幸次は新車を買うことに決めていた。
 
その車の納品が、すでに終わっているはずだ。
弘子は幸次のLINEに{新車はどうですか?}とメッセージを入れた。折り返し幸次から{これからみる?}と返信が届いた。
弘子は、いつ何時、幸次に誘われてもいいように、新調したレースの下着を身につけて出かける様になっていた。今日もおろしたてで家を出た。
 
弘子が駐車場に車を止めていると、白いプリウスがゆっくりと隣に並び窓を開けた。
「乗ってみる?」
運転席の窓から顔を出した幸次が誘う。
「うん」
弘子は助手席側の窓を閉め、乗ってきた赤いデイズのエンジンを切った。
弘子が車を乗り移っている間、幸次は喫茶店の店主に車を置かせて欲しいと頼んでいた。
弘子は助手席に座り幸次を待つ。車内は新車特有の接着剤臭がしていて、走り出してもいないのに酔いそうになる。まるで妄想と現実の狭間の大きな揺れに酔わされているように。
 
パラパラとタピオカのようなあられが、白い路面に沈んでいく。
「ゆき、大丈夫?」
ここまで来たのだから大丈夫だとは思うのだが、慣れていない雪道を幸次は上手く走れるだろうかと弘子は案じた。
「安心してください。はいてますよ」
幸次は足元を指さしてウインクし、スタッドレスタイヤに履き替えた車を、ゆっくりと動かした。
弘子は真剣に聞いているのに冗談を言うなんて、なんて人と怒りたかったが、思わぬギャグにプッと噴出した。
冬の教習所で練習した成果を、幸次は遺憾なく発揮していた。いつか雪道運転の怖さや、慣れてきた頃の気のゆるみの恐ろしさに気づくことになるかもしれないが、いまのところは超安全運転だ。それは幸次の生真面目さが溢れたハンドルさばきだった。
 
弘子は家路への車中、幸次が喫茶店で見せてくれた写真を思い出していた。それは妻と子のスナップ写真だった。満面の笑顔の二人を、弘子は快く見ていた。
そう、私が見たかったのはこの風景だったのだ、と弘子は我に返った。
もともと幸次は、弘子と一線を越える気などないことを弘子は感じ取っていた。
ランドスケープ。エスケープ。
弘子はただ現実とは違う世界への妄想に逃げようとしていただけなのだ。友達の枠からはみ出る妄想、孝雄に嘘をついて笑顔でいる妄想、現実を直視しない理想……。
 
いつだって隣の芝生は青いのだと弘子は思う。
弘子は孝雄を嫌いになったのではない。少しだけ毎日の生活が退屈になり、夢を見たかっただけだ。
いまは日給月給の仕事だけど、稼ぐときには稼ぐのだから、孝雄が悪いのではない。弘子が将来を見据えてキチンとやりくりをすればいいだけなのだ。
親方に見込まれている孝雄の腕は本物になりつつあり、あちこちで重宝されてきている。丁寧で腕のいい孝雄に顧客もついてきた。なんの心配もないではないか。
 
母の背中を見て育ってきたのだ。父の商売がうまくいかない時も、母は明るく笑っていた。ないならないなりに出来ることをして、それでも学校に行かせてくれた。父は頑張って仕事を軌道に乗せていた。家庭の不和など、あったにしろ一度も見たことも感じたこともなく、平和な暮らしだった。そんな両親に育てられ、いい手本を得ているのだから私にもできる、と弘子は自信を持った。
 
これから先の人生の続きは、まだ鮮明ではない。けれど、幸せという丘から見る景色は、孝雄とともに歩む未来への素敵な道に繋がっているに違いない。
弘子の心と体に、新しい命が宿っていた。