小説(三題話作品:神 とり 大統領)

三角パンティがはけない by 勇智真澄

~~もうすぐお風呂が沸きます。
キッチンの壁のリモコンが、やさしくあまい声でアナウンスする。
はいはい。会話をするでもないアナウンス嬢に返事をし、太田亜希子は脱衣所へ行き、綺麗にたたんだ着替えの上にスマホを置いた。長風呂の亜希子は、浴室にミネラルウォーターと本を持ち込む。いつもは文庫版なのだが今日持ち込んだのは、[かんたん年賀状素材集]。付録のCD-ROMは濡れないよう抜いてきた。
12月半ばだというのに、まだ年賀状ができていない。毎年恒例のギリギリ投函になりそうで、亜希子は少し焦っていた。ペラペラめくっていくと、リアルな鶏でも可愛すぎるひよこのイラストでもない、さっぱりとした好みの飛翔するとりの絵柄が見つかった。
来年は年女、36歳になる。これにしよう、と決めて本を閉じたと同時にスマホの着信音が聞こえた。
 
「太田……、亜希子さん、ですか?」
「はあ……??」
 携帯電話に番号が登録されていれば、かけてきた人の名前が出るはずなのに、名前表示のない番号だけの着信。亜希子は不審に思いながら電話をとり、再び湯船に浸かる。
「私、イクミです。ヨツヤユキオの……」
「あ~、お久しぶりです」
村上郁美。ビリヤード研究会で一緒だった。研究会とはいうものの、大学のサークルで定期的に集まり、ビリヤードでもダーツでも好きな方をやる、飲みたい人は飲むという、半合コン的なゆるいものだった。
郁美は、誰かがブランド品のバックを持っていると数日して自分もブランド品を持ってくる。あの人素敵と誰かが言うと、早速話しかけて人気をとる。なんでも人のものを欲しがる女だったことを思い出す。
亜希子は郁美に、懐かしさよりも不快な記憶を呼び起こされたが、覚えてますよ感を出して明るい声を返した。
 
かつて亜希子は研究会で一緒の四家幸雄から交際を申し込まれ、嬉しさのあまりつい郁美に、私も彼が好みなのと思いを伝えてしまった。それまで幸雄に関心のなかった郁美に、幸雄を意識させてしまうという愚かな失態を犯してしまった。亜希子の不覚だった。郁美は酔ったふりをして体を張るという卑怯な手で亜希子から幸雄を横取りし、そして結婚に至った。
二人が結婚すると知った時には怒りも沸いた。しばらくは、傷ついた自分が情けなくてみじめで耐えられなかった。悔し涙に暮れた日も過ごした。それでも亜希子は、執着が苦痛を生むのだと気づき、執着心を捨てるように努めた。
不本意ながらも研究会仲間と結婚式にも参加した。傷心したときの亜希子が神も仏もありゃしないと毒づいた、その神の前で二人は愛を誓い合っていた。式の途中で抜け出すのもしゃくで、この茶番が早く終わることを願っていた。亜希子は退屈しのぎに、なぜ式の最後に「おかあさん、生んでくれてありがとう」とは言うけれど、「おとうさん、作ってくれてありがとう」とは言わないのだろうと、そんな事を考えて気を紛らわせていた。
 
「突然電話してごめんなさい。荷物の整理をしていたら年賀状に番号があったので……」
亜希子は当時、落胆していたにもかかわらず何故か年賀状を出していた。もしかしたら、どこかで繋がっていたいという気持ちがあったのかもしれない。だがそれは年々、意味を持たなくなり、筆ぐるめの中のリストにある印刷機能を押すだけの、感情のない年に一度の行事になっていた。
「亜希子さんはご結婚なさったの?」
(あなたには聞かれたくもないわ)
 郁美の不躾な質問に、亜希子は不機嫌な口調になるのをこらえる。
「いいえ」
(そんなこと、関係ないでしょ)
 亜希子は余計なお世話だと思った。
「じゃあ、ばりばり働いてらっしゃるのね。うらやましい」
「ええまあ……。ばりばりではないですけど」
 郁美は世間話をしにわざわざ掛けてきたのか、と亜希子は疎んじた。
「実は……。私たち別れてしまって、ユキオが今どこにいるのか知らないんです。携帯電話も変えたみたいで連絡がとれなくて……。」
(ふ~ん)
 幸雄たちに宛てた辰年の年賀状が転居先不明で戻ってきていたのだから、それ以前の年賀状のことだろう。ということは、4、5年前から不仲だったのだろうか。亜希子の住所録の、四家幸雄の行は二重線で消されたままになっている。
「え~! そうでしたか……。それは、また……。大変ですね」
 亜希子は、心配そうに同情を込めた声で慰めるふりをした。人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだ。私はこんなに性格の悪い女だったのか、亜希子はそう反省しながらも内心ウキウキしていた。
「あの……。ユキオの連絡先ご存じではないですか?」
「?……ないですけど」
(なんで?)
幸雄は、いつか、四ツ[谷]駅を四ツ[家]駅に変えてやる、が口癖だった。そんなこと、総理大臣とか大統領とか国のトップにでもならない限りできやしないのに、夢の大きい人だった。亜希子は幸雄との初めてのキスを思い出した。郁美に阻まれた、一度だけのキスで終わった、あまずっぱい恋。忘れていた亜希子の古傷がずきずきとうずいた。
 
「こんなこと恥ずかしくて、言いたくはないんです。でも彼がいくら稼いで、どう使っていたのか私は全然しらなくて。私は毎月決まったお金を渡されていただけなんです」
 幸雄は学生時代、個人輸入代行の手伝いをしていた。その時のつてで、卒業後は貿易会社で働いていたらしいが、正社員なのかどうかもわからないという。ただ、一時は結構な生活費はあったらしい。余裕のある金額が渡されていたようだ。
郁美は貿易会社にも電話をしてみたが、現在使われておりませんとテープ音が流れているだけだった、と。
「はあ」
(そんなことを私に話してなんになるの)
亜希子は気のない相槌を打つ。
「決して贅沢をしたわけでもないし、高い物だって買ってないんです……」
(ほんとかいな? だからなに)
郁美の話は長々続きそうだし、そろそろのぼせても来た。蜜の味も食べ過ぎると飽きてくる。できれば早々に切り上げたい。
「私に連絡はないし、知りませんが……」
 亜希子にとっては、どっちがどうでもいい事だった。それよりも長時間スマホで押さえつけられたた耳の痛さの方が気になる。
「あの……。急に電話してずうずうしいのですが……。お金貸してもらえないでしょうか」
「はあ?」
(やっぱりそうきたか)
 亜希子は、電話の途中から不信感をもっていた。何年も連絡のない人からの、それも大した知人でもない人からの突然の電話は、だいたいが宗教や選挙がらみ、もしくは借金依頼のことの方が多い。郁美もそのくちだった。
たぶんあちこちの神様仏様、そして赤の他人様と拝み倒しているのだろう。私にまで頼ってくるのだから、藁にもすがるほど切羽詰まっていることと亜希子は想像した。
「支払いができなければ、首をくくらなければいけない……」
 郁美は涙声になっていた。
「で、いくらくらいなんですか?」
 関わりたくない女だったが、断って自殺でもされたら嫌だと思い、亜希子は少しくらいなら都合してもいいかなと、甘い考えを起こして聞いてみた。
「とりあえず今月の支払いは150万で……」
(へっ?)
 金額を聞いて亜希子は驚いた。とてもそんな金額は出せない。せいぜい10万くらいなら何とかしようとも思ったが、そんなあまい金額ではない。万が一、無理して都合したとしても、今月の支払い以外にもまだあるということだ。返済のめどなどないのだ。
お金を貸すときは返ってこないと思いなさい。貸すならあげるつもりで貸しなさい。よく母が言っていた。余裕がなければ貸すなということだ。
「ごめんなさい。そんな大金無理だわ」
(なんで私が謝らなきゃいけないの)
中堅どころの銀行で働く亜希子には、カフェを開くという夢があった。夢を現実にするための毎日は充実していて楽しい。その資金のために貯金はしている。その定期預金を崩してまで、信頼も信用も義理もない人に貸す金額ではなかった。亜希子は、甘い考えをもったことに少しの後悔を覚え、冷ややかに断った。
「そうですよね。急に電話して貸してくれなんて虫が良すぎますよね」
(そのとおり。わかってるじゃない)
 亜希子の断りを聞くと、郁美の声は普通に戻っていた。舌の根も乾かぬうちに、もう涙は乾いたらしい。世間話で巧みに相手の経済状態を聞き、あちこち頼み込んでいるうちに得た演技力なのか、もともと持ち合わせた図太さなのかは知る由もない。泣き落としに負けるほど世間も私もあまくない、と亜希子は思った。
 疫病神で敵をとる、亜希子の脳裏にことわざが浮かんだ。自分から手を下さなくても、意外な好機が訪れて、こちらは何もしなくても仇討ちができる、ということわざ。亜希子がそう思ったということは、もしかしたらまだ恋敵であった郁美に、そして幸雄に何らかの未練が過ぎていなかったのかもしれない。それも、この一件ですっきりとした気分になったことは確かだった。
 
 亜希子は長電話でふやけた体を入念に洗い、浴室の鏡に全身を映した。すらりと伸びた足、プリンと盛り上がった尻、脂肪のない腹、そしてたわわに実るココナツのような張りのある乳房。どこをとっても非の打ち所がなかったはずの、自慢の肉体はそこにはなかった。
幸雄とそうなってもいいと、その時のためにと買っていた黒いレースのランジェリーセットを、一度も使ってないからもったいないとしまっていた。亜希子はそれを思い出し、そのパンティを穿いてみた。だが、とてもじゃないが痛々しい。それはポッコリ突き出たお腹の臍下でまるまってしまい、尻は半分までしか隠れずおさまりが悪く、どうも穿き心地がよくない。ブラジャーは背中と腋の肉が盛り上がってしまいきゅうきゅうだ。最近は臍がすっぽり隠れるものを穿いているから、体が楽な方へと一人歩きしている。
体つきも思考も変化していく。もう小さな三角パンティは穿けないんだな。月日が経つということは、そんなもの。
 何が仕合せなのかなんて分からない。いつが仕合せだったのかなんて過ぎてしまわなければ分からない。仕合せの良し悪しは、運命的なものだから。その時々のめぐり合せは神様の思召しなのだ。亜希子は自分にとって、これからが良い仕合せならそれでいいと思った。