小説

仙台坂のボイドタイム(void time) by 勇智イソジーン真澄

つゆ草の花が頭上の太陽を浴びて、しぼみ始めている。
有栖川公園から麻布運動場に続く上り坂の縁石から顔をのぞかせていた。こんな都会にも育つのか。
空の群青を移したような涼しげな夏の花弁をつまみとったら、人差し指と親指の先が青色に染まった。
もう昼になるのだ。集合時間まで一時間ある。見こんで早く家を出てきた。


東京スカイツリーの高さが六三四メートル、「むさし」が愛称だと世間がにぎわい、土産物店や飲食店も続々と六三四にこだわった商品を開発、販売しているという。日本一の高さとなる電波塔が誕生した。
六三四むさしムサシと耳にしているうちに、朝咲いて昼にはしぼむ、つゆ草のような儚い記憶が懐かしくなり、十年ぶりにその場所を訪れてみたくなった。
仙台坂上の交差点を右折し、四の橋方向に坂道を下る。
韓国大使館の前を通り過ぎ、最初の路地を右に、入り組んだ小道を進む。通い慣れた道を忘れてはいなかった。




津軽弁も少し抜け、流行に敏感になり、美容専門学校に通っていた私が彼らに会ったのは十九歳。
日本一のロックバンドになって世界に進出すると言っていた武蔵と佐輔。武蔵はリードギター、佐輔はドラムとボーカル。バンドが活動するライブハウスにほど近い、私がバイトする喫茶店の常連客だった。
武蔵ときたら小次郎だろう、なぜムサシとサスケなのだとからかっていた。
日本人の母、アメリカ人の父を持ち、小柄だがレオナルド・デカプリオのようなかわいい顔立ち。
年子のせいか外見は二卵生の双子のよう。私は、私より五歳年上の兄の武蔵に恋をした。
バンドがステージに立つ時、私は六人のメンバーのヘアーメイクを手伝うようになった。
彼らは良い練習台でもあり、武蔵に会える日が多くなるので嬉しかった。


白金の実家を出て二人は外国人向けの一軒家を借りていた。ここはバンド仲間の溜まり場でもあった。
私も仲間の一員のように、差し入れを持っては頻繁に通った。
深夜まで音楽づくりで白熱した時は食事の準備をして片づけて、そのまま雑魚寝のときもある。
そんな時、私は武蔵の左隣に寝る。武蔵は側にいることを拒否しないが手も出さない。 


しかしこの日は違った。私の頭を右手で布団の中に静かに押しこんだ。
押されるままに移動すると、武蔵の左手がブリーフの隙間から引っ張り出した自らの物を支えている気配がした。
キスさえしたことがないのに驚いた。驚いたが知識だけの耳年増ではある。興味本位で恐る恐る口に含んでみた。
武蔵の掌が毬をつくようにポンポンと頭を誘導する。ぐっーー息ができなくなった。
満足な出来ではなかったのか、しばらくして武蔵の手が離れた。
息苦しくなった私は布団から顔を出し、武蔵の肩に頭を持たせかけた。
私の頭を離れた武蔵の右手が腰のあたりで刻む振動をリズミカルに伝えてきた。武蔵と一体になった気がしていた。
辺りをそっと窺うと、みんな酔いつぶれて無防備に寝ていた。


数日後、私の初キスを奪ったのは弟の佐輔だった。武蔵と仲間が外出し留守中の晴れた昼下がり。
室内にはソフトロックの曲が流れていた。
ソファーに腰かけ、私は試験勉強を、佐輔はタムタム代わりにしたクッションにスティックを打ちつけドラム練習をしていた。
「ウッキー、僕じゃだめかな?」
いつのまにか近くに佐輔がいた。宇記子という名前をもじって、みんな私をウッキーと呼ぶ。
「えっ」と声のする方に顔を向けた途端、唇をふさがれていた。
ドキドキした。これがキス……。キスって身体中の力が抜けるもの……。
拒むことさえ何処かに置き忘れてきたように、ずっと目をつぶってされるままになっていた。
武蔵のお嫁さんになるような、それが自然なような気がしていた。
佐輔とキスをしてからは、会いたいと思うのは佐輔の方だった。
また肩に手をかけたり、キスをして欲しいからなのか、それとも佐輔を好きになったのかわからない。
武蔵はあんなことをしたけれど、ひどくプラトニックで今まで手も握ってこなかった。
二人の間で想いは揺れていた。私が勝手に揺れる想いに浸っている間に、彼らには恋人ができていた。
何とも言えない鬱々とした青春の魔の時間帯、私にとってのボイドタイム。




目的地は様変わりしていた。当時の一軒家は取り壊され、青春の跡地は高級低層マンションに生まれ変わっていた。
身体を与えたら恋人になれると思っていたころ。
女として見られていたのではない。ただ慣れあい、必要とされたのは便利さだけだったのか。
二兎を追うもの一兎を得ず、を体感したころ。
もしかしたら佐輔は「僕じゃ」ではなく「僕にも」と言ったのかもしれない、と後に思ったこと。
彼らのファンを横目に、一緒に帰ることの優越感を味わったこと。
音楽が好きになったこと。楽しかったこと……。 


色々な想い出の詰まった路地を抜けだし、仙台坂上の交差点に戻った。
バボラのラケットバッグが背中に汗を溜め、ノースリーブの腕にも汗が噴き出てくる。ちょうど良い時間だ。


信号が青になり、平坦になった道を愛育病院方面に直進する。
「イッチニィ~サァンシィ~」と野球少年たちの掛け声が大きくなり、左手に麻布運動場のグラウンドが見えてきた。東京ローンテニスクラブの手前を左折して運動場に併設するテニスコートに向かう。
今日はミックスダブルスの試合の日。アマチュアの出場選手たちが集まっている。
私のパートナーもすでに到着していた。試合は先に6ゲームを取った方が勝ちの6ゲーム先取方式。


私たちは順当に勝ち進み、ついに決勝まで来た。だが、そこまでだった。
クレーコートに足を滑らせ、勝ちを意識して焦り、あと2ポイントが取れなかった。
そういえば、出がけに目にしたカレンダーには仏滅の文字があった。
そうか、ついてないのはボイドタイムのせい、仏滅みたいなものか……。 


「うき、次はがんばろうな。あっさり勝つより次への意欲がわくだろ」
落ち込んでいた私に彼は発破をかけた。
この人と、人生のパートナーになるかもしれないと漠然と思った。
「今度スカイツリー行くか」
彼はいつもわくわくする提案を与えてくれる。
私が所属するクリエイト集団と美容室を切り盛りする経営者としても尊敬している。
妻との別居生活も終わりが近いという。信じてみよう。


順調に可もなく不可もなく生きて行くより、紆余曲折しながらも目標を見つけだせればいい。
仙台坂で、つきのない時間帯は過ぎたのだ。
これからは三十路の坂を一歩一歩、地に足をつけて歩んでみよう。
つゆ草が長く花をつけるように一途に愛していこう。
次は勝てる。
白いグリップテープに青い指紋がついていた。