ダイスストーリー<第1回>

青い闇の向こうに by 暁焰



「昔々、あるところにねえ……」


兄が、携帯に向かって話している。
但し、どこにも繋がらない。そもそも、電源が入っていない。
裸電球のフィラメントが音を立てる。
黄色い光が照らす狭い部屋で、僕は、兄を見ている。
ぎらつく光にも、兄の眼は光らない。
うつろな。くぼんだ。魚の目だ。
二人で、最後に出かけた、水族館。
青い夢の世界。
ゆったりと、大きな水槽の闇の中から、亀と、大きな口の魚が姿を現した。


――お前はどっちがいい?亀と魚なら?


「木が生えてました。大きな木が生えてて……」
携帯に話していた兄が、言葉を区切ると、けらけらと笑う。
あの日の、青い夢の中と同じ声で。


――僕、亀がいいなあ


「木の側には、大きな噴水が…」
兄は語り続けている。誰も聞いていない電話の向こうに向かって。
繰り返し、兄が生きている夢の世界の情景を。


――馬鹿だなあ。魚の方がいいんだぞ?


「噴水の向こうに、石の橋……。海へと流れる川を跨いだ…」


――ええ?どうしてさ?


「…川の流れを遡り……。」


――だって、魚は、水の中で息ができるだろ?深く潜れるぞ?


「橋を越えて…」


――そうかあ…。じゃあ…僕も魚…


「噴水の向こうから…」


――駄目!最初に亀って言ったんだから、亀!!


「あいつが、覗いてる……。噴水の向こうで歪んだ大きな身体で、大きな木を見上げて『こんなものは海には生えていない』って」


――ええ!兄ちゃん、魚?ずるい!!


「あいつが…あいつが……あいつが……」


――あっはっは、僕は魚だ。深くまで潜ってやる。


「あいつが……う……わああああ!うわああああああ!」


――待って、行かないで!兄ちゃん、そっち真っ暗!怖い!!
――ばーか。魚はいつも深い、暗いところにいるだろ?


走る兄の小さな背中が消えていく。
青い夢の暗い闇へ。


携帯を放り投げ、兄が叫び始める。


「海から……う、ああ…。嫌だ…嫌だ…。海…から、覗いてる。
見えるだろ?ほら……その海にも写ってる。海の底から、あいつが……うあああ!」


怯えた兄がベッドに立ち上がる。
背を壁に付けて、後ずさりしながら、指を突きつける。
僕の後ろの壁に貼られたままの、古びた、青い地球のポスター。
そこに写った青い海に向かって。


青い夢の水槽。魚と亀が現れた水槽の暗い闇。
そこに消えた兄が、再び見つかったのは、このポスターの前だった。


――子供がいない?
――探すんだ。灯りを点けろ。


騒ぐ大人たち。
泣いている母さん。
父さんが、歩き回って。
夢の世界に明かりがついて。


裸電球のフィラメント。
黄色い明かりが照らした水槽の裏。


僕が兄を最後に見たその場所で、兄は、ポスターを睨んで、泣いていた。


「あいつが、出てきた。水槽から、大きな魚のお化けが出てきて、この海に消えたんだ」
ポスターに写った、地球の青い海を指差しながら、兄は泣いていた。


その日以来、兄は夢の中に生きている。


海へと続く川を跨ぐ橋。噴水。大きな木。


水族館の前の広場の光景だ。
兄と僕が、最後に見た光の射し込む場所。
兄が繰り返し訪れる夢の場所。


魚はその光の射す夢にも現れる。
橋の下を潜り、噴水の向こうから、大きな木を見つめている。
「こんなものは海にはない」
そう呟きながら。


ベッドに近づくと、泣きながら叫ぶ兄を抱きしめる。


――大丈夫だよ。兄さん。


泣きじゃくる兄に手を貸し、ベッドから降ろして。


――あいつは、もう海に帰ったんだ。


耳元で囁き、震える手を取って。


――ほら、触ってごらん。この海は……


ひび割れた指が、平面の海をなぞる。


――静かだろう?あいつも寝てるんだよ。


兄が、涙を浮かべた顔で、僕を見る。


――だから、兄さんも、もう眠っていいんだよ?明かりを消しても、あいつは出てこない。ずっと、この海を見張ってなくて、いいんだ。


兄の指が10年間、毎夜、触れて確かめた海は、色が擦り切れている。


――なあ。寝る前に聞いてよ?
――なんだい?兄さん?
――僕の弟は、亀になるんだって言ってた。昔々のことだよ?
――そうかい。


明かりを消す一時、兄はもう一度ポスターを眺める。満足そうな笑顔で。


――僕があの海を見張ってたら、弟が亀になって海で泳いでても、大丈夫なんだ。あいつが出てこないからね。
――そうだね。兄さん。ありがとう。
―おやすみ。
―おやすみ。


微笑んで、眠りに落ちた兄の部屋の明かりを消すと、扉に鍵を下ろす。
重い真鍮の光が、裸電球の黄色いフィラメントの光に輝く。


僕は、扉に背を預け、思う。


魚みたいに潜れないほうが良かったかも知れないよ。兄さん。






この作品は第1回ダイスストーリーのお題に基づいて創作されました。
9つのダイスを転がし、偶然出た9つのイラストをすべてつかって、ドリームライブラリ作家陣が作品を作り出します。