怪談

還魂の衝立 by 暁焰

親方、こちらが例の甥子さん?


あら、いやだ。あたしったら。親方の甥子さんに「例の」なんて…。
え?「気にするこたねえ、こいつは自分でもわかってる」って…。
親方、そりゃあんまりじゃありませんか。坊ちゃんもそんなに嬉しそうな顔で頷くんじゃありませんよ。


大体、しっかりした坊ちゃんじゃありませんか。さっきの御挨拶なんてあたしの方が畏まっちまいましたよ。
御顔立ちも凜としてらっしゃるわねえ……。
若い頃の親方に良く似てらっしゃるわ。
え?「叔母様も御綺麗です」って?まあ……嫌ですよ、こんな年寄りを捕まえて。
口の上手い所も親方似かしらね。親方みたいに、女泣かせになっちゃいけませんよ。
あら親方? 御茶なんぞ零して、どうなさったんです?
ま、「余計な事は言うな」なんて……。親方の若い頃の話なんざ、この界隈じゃみんな知ってますよ。
あたしが言わなくたって、どうせもう耳に入ってるでしょう?ねえ?坊ちゃん?
親方が坊ちゃんくらいの年の頃にはもう……あら、いけない。今度は坊ちゃんが困った顔をしちまった。


坊ちゃん、御幾つでした?十六?
そう……そのくらいの歳なら、色恋の話の方に食いついて来るもんですけどねえ。
ええ?はい、はい、親方からお話は伺ってますよ。
「怪談話に目の無い甥っ子がいるんだ」って。
でも、怪談が好きだからって、色恋の話が嫌いってことにはなりませんでしょ?
好いた惚れたには興味はありませんの?坊ちゃん?
あら……あたしったら、また困った顔をさせちまった。いえいえ、そんな無理に言わなくともようございますよ。顔にしっかりと書いてありますから。
親方も、明後日の方向いてても、口がにやにや緩んでますよ。ほんとに人が悪い。
安心してくださいまし、坊ちゃん。
これからあたしがお話するのはれっきとした怪談話です。
ただ……怪談と言うか、不思議な話ではあるんですけども、これが……男と女の話でして。


お話にかかる前に、先程、坊ちゃんから御挨拶頂いた折りにあたしの方が名乗らなかった無調法をまず、お詫びさせて頂きとう存じます。


あたしは春、と申します。四月に生まれたから、お春ちゃん、てな具合に父親が名付けまして。
あら?親方?どうしたんですよ、そんな驚いた顔して。
え?ええ、ええ、ちゃんと聞いてましたよ。
「身内の話なんだったら、話しにくかろう。名前は言わないでもいい」って……。お気遣い、ありがとうございました。
でもね、親方。
あたしも伊達にこの歳まで生きてきた訳じゃありません。
それなりに人は見てきてますからね。
親方とは古い付き合いだから当たり前ですけど……。
坊ちゃんの御顔を見たら、分かりました。
この方なら、万に一つも外に漏れるようなことはありませんでしょう。
ねえ、坊ちゃん?


先走っちまいましたが、これから話すのはあたしの兄の身の上に起こった話でして。
歳の離れた兄で……。あたしがこの歳ですからね。とうにあっちがわにいってるんですが。
それでも、今からの話には兄の男を下げるようなところもあって、亡くなった身内の恥を晒すようで、これまでは死んだ亭主の他には話したことがなかったんです。


ですが……。
なにせ、あたしもいつ兄に呼ばれたっておかしくない歳になってまいりましたし。
一つここらで、誰かに話しときたくって。
そんな時に親方から坊ちゃんのことをうかがったんです。


坊ちゃん、一つお約束を頂けませんか?
あたしの話を、きっと覚えておいて、いつか坊ちゃんのような信頼の出来る方を見つけたら、お伝えして頂く、と。


俺にゃ頼まねえのかって……。
やですよ、親方。親方は坊ちゃんほど先がありませんでしょう?
縁起でもねえって?
ふふ、本当のことでしょうに。
それに……。親方みたいないい男は、遠からずあたしが三途の川を渡って、連れに来ますから。
あらいやだ、そんな慌てないでくださいまし。
ええ、ええ、わかってますよ。そんな粗忽なことをしたら、女将さんに怒られちまう。
親方を連れに来る時には、ちゃんと女将さんと二人で来ますから。


もう……何年になりますかねえ。女将さんが亡くなられてから。
先だっての御法事が二十回忌でしたっけ?
じゃあ、坊ちゃんは女将さんのことはご存知じゃないんですね。
坊ちゃん、亡くなった女将さんはね、親方にとっちゃ恋女房ってやつでねえ…。
あら。親方、また御茶が零れてますよ。
ごめんなさい。話が横に逸れちまいましたね。坊ちゃん?
約束して下さる?
ありがとうございます。それじゃあ、前置きが長くなっちまいましたが……。


あたしは今でこそ、一丁前にこんな言葉遣いをしてますが、元々は田舎の出でしてね。父親が亡くなった後に、こちらの方に縁があって嫁いで来たんです。
こちらの親方とは、亡くなった亭主が親しくさせて頂いてまして。それが切っ掛けであたしも親方と女将さんに随分と良くしてもらったもんです。


あたしがまだ郷里にいた時分、丁度、十七の歳の折の話です。
先にも申しましたが、あたしには七つ歳の離れた兄がおりましてね。母親を早くに亡くしたもので、父親と三人で暮らしておりました。


三人…とは申しましたが、家はその辺りではちょっとは名の知れた表具屋でして。坊ちゃん、表具屋って言って、何だかわかります?
あら……良くご存知ですねえ。
ええ、その通り。掛け軸や襖を仕立てる店でございますね。こちらでは「経師屋」と呼ぶ方が多いようですが。
店の名前は……もうありませんが、あたしの名を使って「春屋」とでもさせていただきましょうか。
え?なんですって、親方?「春屋」が襖を「貼る」んじゃ、下手な駄洒落じゃねえか、ですって?
もう……余計な茶々を入れないでくださいまし。


でも……さっきから、話の所々を先走っちまって、御恥ずかしいんですけども、この話にはもう一つ下手な駄洒落が出てきます。
下手な……でも、あたしには懐かしくって、悲しい駄洒落なんですけどね。


あちこちに話が飛んで、申し訳ございません。なにせ、こうやって他の方にお話するのは随分久しぶりなもんですから。
春屋はあたしの父親が五代目、兄がその跡をついで六代目まで続いた、まあ、それなりに古い店でして。
親子三人、とは申しましたが、職人衆や手代さん、女中さんもいらっしゃいましたから、昼間は賑やかなもんでしたねえ。


身内の自慢をするようで御恥ずかしいですが、父親も兄も腕が良くって。
特に、襖や屏風の絵付けは近在で一番、てな評判でした。
二人とも仕事熱心でしたからね。飯を食うのも忘れるなんてのは、喩えじゃなくってざらにありました。
そんな二人でしたから、店仕舞いをしても、二人して、話し込んだり…。
ええ、もちろん、仕事の話ですよ。二人して屏風や衝立に絵を描いたりしてたこともありましたねえ。
小さい頃から、あたしはそんな二人を見て育ちましたけど、子供の目から見ても、父と兄の絵は見事なものでして。
特に兄の方は……画才があったとも言うんでしょうかねえ。
あたしが十の頃でしたかね。
気難しかった父が「絵はおめえの方が上だ」と兄に言ったとかで、兄がひどく喜んでいたことがあったのを覚えております。


そんな暮らしですからね。
昼間は賑やかでも、店仕舞いをして夜になると、あたし一人が蚊帳の外に感じることもありました。
いっそ、思い切って、父に絵を教えてくれって頼もうかと思ったこともあったくらいで。
その「女一人蚊帳の外」が終わったのは、あたしが十六の時でした。
女一人に男二人の家に、もう一人女が増えたんですよ。
え?ええ、ええ、坊ちゃんの仰るとおり。
兄に添うて下さる方が来て下さいましてねえ。


お藤さん、と仰る、そりゃあ、綺麗な方でした。肌が白くってねえ。
名前の通り、藤色の着物なんか着た日にゃあ、肌と黒い髪が着物に映えて。
女のあたしが見蕩れるくらいでしたもの。
これまた身内の自慢をするようで憚られるんですが、亡くなった兄も若い頃は男前でしてね。いや、男前って言うのとはちょっと違いますねえ。
丁度……そうだ、親方みたいなもんですよ。小粋で男伊達でね。そりゃあ真面目に働きもするんですが、若い頃からちょいちょい浮名も流してたようで…。
あら、親方、また御茶が零れましたわよ。


そんな訳で、悪く言うと、女慣れしてる兄でしたから。
初めてお藤さんに会わせて貰った時には、ちょっと心配になりました。
こんな綺麗な人を泣かせる様なことがあったら…てね。
でもね、そんな心配は兄の様子を見てたら、すぐに吹っ飛んじまいました。
こちらの親方と同じで……親方、もう御茶は零さないでくださいよ。
兄にとっては、お藤さんが恋女房だったんです。
さすがに父親には言いにくかったんでしょう。代わりに、御嫁に来て貰う前から、口を開けばあたしにはお藤さんの話ばっかりで。
馴初めなんざ、耳に胼胝が出来るくらい聞かされました。


あたしの実家では、丁度このくらいの時期に御祭りがありましてね。
町の外れに流れる川辺で花火が上がるんです。
橋の先は一本道で、すぐ山に通じてましたから、そちらには何もありませんでしたけど、逆側……街の方に通じる道には屋台も出てね。


——お藤とは祭りの時に会ったんだ。連れと逸れて困ってるのを俺が助けたんだよ。


この台詞、何回聞かされたことか。今でもまだ……兄の声が聞こえてきますねえ。


友達と一緒に御祭りに来ていたお藤さんは、もし逸れたら、橋の袂の渡し場の前で集まろうって決めてたんですって。
でもね、花火が上がり始めると橋の上はひどい人混みで。
ええ、通り抜けることなんてできやしませんよ。無理してかきわけでもしたら、浴衣も髪も崩れますしねえ。
それでなくても、お藤さんはおっとりした人でしたから。
困り顔でいた所を仲間と通りかかった兄が声をかけた、と。


——あの日のお春ちゃんの兄さんったらね。あたしが訳を話したら、仲間の人達に声をかけて……。先払いさせ始めたのよ。『退いた、退いた!別嬪さんの御通りだ!』ってね。あれには参ったわ。


…と、こちらは嫁いできたお藤さんから聞かされた話でして。ええ、こちらの方も耳に胼胝ができるほど聞かされました。
やっぱり…楽しそうに笑うお藤さんの声がまだ聞こえてきますねえ。


そんな二人でしたからね。
一緒になってからも、そりゃもう、仲が良くって。
店の中でも、こっそり手を繋いだりしてるのを見つけた日には、心配してたのがばかばかしくなったもんです。


でもね、あたしゃ、嬉しかった。
男ばっかりだった家にもう一人、義姉さんが来てくれて。
その義姉さんが飛び切り綺麗な人で。
兄さんと義姉さんがいつも一緒に笑ってて。
二人が「お藤」「あんた」って呼び合ってる声が店でも家の中でも響いててね。
本当にね、家の中に花が咲いたってのはあのことでしょうね。
父は気難しくて、滅多に笑ったりしない人でしたけど………。
やっぱり嬉しかったんでしょうね。兄と義姉さんが二人でいるのを見て、微笑んでたのを見たことがありましたっけ。


家の中に花が咲けば、実もなります。
実の後には種ができるもの。仲のいい夫婦なら尚更ですわね。
四月に嫁いできた義姉さんから、赤ん坊ができたと聞かされたのは、六月のことでした。十月頃にはもうお腹が膨らんで来ましてね。


兄は勿論、あたしも、父も大喜びで。いえ、家の者に限った話じゃありません。店の職人衆も皆喜んでくれました。
あたしはさっきも申し上げた通り、四月生まれでお春ちゃんでしたから。
赤ん坊も四月に生まれるって察しがついた頃から兄と父が騒ぎましてねえ。
春と同じだ、さあ、名前は今度は何にしよう、桜はどうだ。いや、桜は散るのが早え、桃がいい、なんて。
二人で話してたところを、義姉さんに女の子って決まったわけじゃありませんよ、って笑われてましたっけ。


秋、冬と過ぎて、春が来て…。
丁度、あたしの十七の誕生日が来て、すぐでしたね。
生まれたのは女の子でした。ええ、あたしに姪っ子ができたんです。
御産が無事に済んで、赤ん坊を見せてもらった時には、そりゃあ、嬉しかった。
元気な子でねえ。お腹にいる間はあんまり動くもんだから、てっきり男の子だと思ってましたから。
名前は、「春」よりも少し後に生まれた子供だからってんで「八重」になりました。
桜は散るのも早いけど、八重桜なら散る時もきれいだからって、父が付けたんです。


ところがね……。
目出度い、目出度いって言ってられたのは、ここまでの話で。
赤ん坊は元気でも、義姉さんがいけなかったんです。
産婆さんの話だと、相当な難産だったとかで。
御産は軽ければ、その日から起き上がれる人もいるくらいですけどね。


義姉さんは……いえ、もってまわった言い方はよしましょうか。
御産の後、義姉さんは二月ともたなかったんです。
八重が生まれたのが、四月の半ば過ぎで…。その年は、梅雨が早くってね。五月に入ってすぐには、雨ばかりで涼しい日が続いて。
御産で弱っていた身体に、そんな梅雨寒がいけなかったんでしょう。
寝付いたまま風邪にかかって、それを拗らせて……でした。


良く覚えてますよ。
空にはこう……真っ黒な雲がかかってて。
朝から大雨でしたねえ。空の底が抜けちまったみたいに。
あたしはね、風邪が移るといけないからって、八重と一緒の座敷におりました。
座敷の中にね。雨音と…八重の笑い声が響いてました。
母ちゃんが早く治るといいねって、あたしが言ったら、笑ってたんですよ、きゃっきゃってね。


………ごめんなさいね。今でも、やっぱり思い出すと、あたしにはまだつらくって。
あら、何も親方まで泣かなくても。
やっぱり優しい人ですねえ。


ええ……それでね、八重をあやしてたら、障子が開いて。
立ってたのは父でした。
顔見ただけでわかりましたよ。聞きたくないって思ったのに。


——お藤が亡くなった。


それだけ言った後、くるって背中を向けて。
義姉さんが寝てる離れの座敷とは逆……丁度、店の方へと歩いていきました。


あたしは……どうしたらいいかわからなくってね。
でも、八重の前で泣いちゃいけないって思って。
父の後を追うようにして、縁側へ飛び出したんです。
縁側に出た時に、父が店の方へと向った訳がわかりました。
雨のざあざあ言う音に混じって……いえ、その音よりも大きな声で。
兄の泣き声がね。
義姉さんの……亡骸が寝ているはずの座敷から。
あたしも思わず、そっちに背を向けて。
そしたら、見えたんです。少し先を歩いてる父の背中もやっぱり。
小刻みに…ね……震えてましたっけ。
兄さんの鳴き声も、お父っつぁんの震える肩も。
あたしはどっちも見たくなくって。
その場にへたり込んで、やっぱりわんわん泣きました。


父親が知らせてくれたんでしょう。職人衆の奥さんや近所の方がいらしてくださって。職人頭の女将さんが、泣いてるあたしを抱いてくれてね。


——お春ちゃん、あんたがしっかりしなきゃいけないよ。今はどれだけ泣いたっていい。でもね、もう、この家の女はあんただけなんだ。誰があの子の面倒を見るんだい?泣くだけ泣いて、気が済んだら、入っておいで。


そう言って、あたしを置いて座敷に入ってきました。
あたしは、女将さんの言う通り、泣きたいだけ泣いて。
目がしょぼしょぼするくらいになって、しゃくりあげてるのが止まらなくなって、自分の声が出なくなるくらいになるまで泣いて。
その時になって、やっと聞こえたんです。
座敷の中から、八重が泣いてる声がしてました。


—あたしが、しっかりしなきゃ……


立ち上がって、座敷の扉を開けたら、女将さんが八重を抱いてくれてました。


—女将さん、ありがとう。ごめんなさい。


八重を抱っこしようって、手を伸ばしたら、女将さんも泣いてましたよ。


——こちらこそ、ごめんなさいね。お春ちゃん、きついこと言っちまったね。あんたも若女将が大好きだったのに……。
——ううん、いいの。もう大丈夫。なんだか……あれだけ泣いたら、もう涙も出やしないわ。


女将さんの手から八重を受け取りながら、それでもまだしゃくりあげてるのは止まりませんでしたけどね。
それでも、あたしももう十七でしたから。小娘でしたけど、あの頃はそのくらいの歳でも、嫁いで、子供がいる友達だっていない訳じゃなかった。あたしにも、見合いの話があったくらいでしたし。


——あたしがあんたのおっかさんだからね。義姉さんみたいに器量よしじゃなくて、ごめんね。でも、うんと可愛がったげるから。


女将さんの手から八重を受け取った時、思ったんです。
あたしは嫁がなくていい。この子のおっかさんになろうって。嫁いで、子供を授かる代わりに、義姉さんから子供を授かったんだって。
大分後になってから、父に言ったら、うんと怒られましたけどね。


——おめえもあの時は子供だったじゃねえか。子供が子供の面倒見るなんざ、できる訳がねえ。考えの浅いやつだ。


頭から湯気が出るくらいぷりぷりしてから……え、なんですか、親方?
急にしおれたんじゃねえか?って?まあ……なんでわかったんです?
俺でもそうなる、ですって?ふふ、そうねえ……。
親方の言う通りなんですよ。
あたしを叱りつけた後、急に威勢が無くなっちまいましてね。


——おめえにそんな風に思わせたのは俺とあいつだったな。すまねえ。おめえがあの子の面倒を見てくれてたから、随分助かった。


そう言ってね、頭を下げてくれました。
父が言ったあいつってのは……坊ちゃんは聡いからお分かりでしょう?
ええ、そう。恥ずかしながら、兄のことなんですよ。
泣き止んだ後は、義姉さんの前から動こうとしなくってね。
飯も食わないし、声をかけても返事もしない。
あたしが兄さんって呼んでも、父親が声をかけてもね。


——てめえがそんなことでどうする。


業を煮やした父親が八重を抱いてね。
さすがに仏様がいる横で怒鳴りはしませんでしたが。


——この子の親はもうおめえしかいねえんだ。しっかりしろ。


ええ、そうです。
あたしが頭の女将さんから聞かされたのと同じです。


でもね、坊ちゃん。
おんなじように泣くだけ泣いて、おんなじ言葉を聞かされたって。


誰にだって通じる訳じゃないんです。
あたしはね、小娘で、女でした。それが幸いしたんです。


意味が分からない?
そうねえ……。坊ちゃんは先に好いた惚れたは分からないって顔しなさったわね。
あたしが、小娘だったってのはね。坊ちゃんと同じで、恋ってもんを知らなかった。
義姉さんも八重も大好きだったけど、あたしは義姉さんに恋をした訳じゃない。
兄のように惚れて惚れて、惚れ抜いて。
ずっと添い遂げようって思ったわけでもないんです。


親方なら分かるでしょう?
あら、なんですか、その苦い笑いは。


ええ、そうですね。仰る通り。「添い遂げるのと恋をする」てのはまた別物です。
毎日、毎日、顔をつき合わせてりゃ、嫌にもなりますし、喧嘩もしますわね。
それでも、いや、そうなってでも一緒にいるのが夫婦だって、そう仰りたいんでしょ?
分かりますわよ。顔に出ちまってますもの。
坊ちゃん、親方と亡くなった女将さんとの夫婦喧嘩はね、そりゃあ派手で……。あら。いけない。これは余分な話だわね。


とにかく……そうね。恋をするってのは、そうやって頭に血が上っちまうんですよ。


兄さんはね。
義姉さんに恋をして、頭に上った血がまだ下がりきってなかったんですよ。
そりゃあ、そうです。出会って、惚れあって、とんとん拍子に祝言もあげて、子供も授かって。
嬉しいことばっかりでしたからね。
これから、二人して、いえ、授かった八重も入れて、三人して親子になろうって時に義姉さんだけが逝っちまった。
これじゃ、頭に上ったまんまの血の下がりようがありません。


あたしが女だったのが幸いしたってえのは……。ふふ、これは親方にも分からないんじゃありませんか?
女ってのはね、赤子を抱いたら、性根が座るようにできてるんです。
中にはそうじゃないのもいるような話も聞きますけどね。
でも、それだって、ちゃんと周りが支えて、あんたは女なんだよって教えてあげてれば、なんて、あたしなんかは思うんですけどねえ。
とにかく、あたしには「あんたは女なんだよ」って言ってくれた女将さんがいてくれた。それが良かったんですねえ。


でもね、兄さんは、あたしと違って、義姉さんに恋をしたまんまで、男でしたから。
義姉さんが逝く時に、まるで時分の魂まで抜かれちまったみたいになったきりで。


通夜だ葬儀だのは父親や店の人間が手配して、近所の方も手伝ってくれましたからね。
初七日まではなんだかあっと言う間で…。
気がついたら、七日も経ってたのかって、思いましたねえ。
兄はずっと呆けたまんまで。
誰が何を言っても、ああ、とか、うん、とか言うだけでね。
生まれたばかりの八重の傍にいるだけなんですよ。
そうして、二七日が過ぎた辺りでしたね。
急に店の仕事場に降り立って。


——衝立を作るよ。
——誰も手伝わなくていい。俺一人でやるから。


そう言って、大きな衝立を作り始めたんです。
言葉通り、昼も夜も、たった一人で仕事場に立って。
ほとんど休まず、飯もろくに食べようとしませんでした。


——仕事にならなくてすまねえが、堪えてくれ。あいつの気の済むようにさせてやってくれるか。何かしてねえと気が紛れねえんだろうよ。
——いや、旦那、あっしが気にしてるのはそんなことじゃねえ。あれじゃ若旦那の身体に障る。ちったあ、休ませた方がいいですぜ。


そんな風に父と職人頭が話してたのを覚えてます。
父と頭だけじゃありません。
あたしも、店の者も兄がどうかしたんじゃないかって心配でした。


丁度三七日の次の日でした。
あたしの郷里では四十九日が終わるまで、白い布を被せた棚に位牌と御骨の入った箱を祀るんです。
中陰棚って言いましてね。
位牌だけじゃなくって、御水に御線香、花や燭台、燈篭なんかも飾りますから、それなりに広い部屋がいります。
ですから、義姉さんの位牌は庭に面した客間に中陰棚を設けて、其処に祀ってました。
その客間の廊下側、丁度、庭の景色を遮るようにして、兄が衝立を立てたんです。
縁を黒塗りに仕立てた立派な物でしてね。大きさは、縦横五尺はありましたかねえ。
その大きな衝立を、裏表逆に、絵が描かれた方を中陰棚に向けてね。
表に書かれていたのは、溜息が出るくらい綺麗な富士山でした。


——お藤がよく言ってたんだ。
——あたしは『藤』だから。いつか、本物の富士山を拝んでみたいわねえって。
——不味い駄洒落だって、笑っちまったけど……。いつか連れてってやろうと思ってた。本当なら、骨箱抱いてでも連れてって、拝ませてやりてえんだが、今はこれで堪忍してくんな、お藤。


さっき親方が茶々を入れてくれましたわね。
「春屋が表具を貼るんじゃ不味い駄洒落だ」って。
あたしがその時に言った、この話に出てくる、不味い、悲しい、懐かしい駄洒落ってのはこの兄さんの言葉なんですよ。


お藤さんと富士山。


あら、いやだ、親方。そんな、謝らないでくださいな。
分かってますよ。いいんです。もう昔の話でございますから。
実際、不味い駄洒落です。
でもね、あのおっとりとした義姉さんなら言い出しかねないって、その時は思えて。
父もそう思ったんでございましょうね。
それで兄の気持ちが少しでも楽になるのなら、好きにさせてやろうって。


あたしが申し上げる怪談はこの日から始まりました。
兄さんが仏壇の前に衝立を置いたのが三七日の次の日ですから、義姉さんが亡くなった日から二十二日目になりますね。
春屋の店先や家の中で、おかしなことが起こるようになったんです。


最初に気づいたのは出入りの職人衆や、女中さんでした。
誰もいない筈の場所に、人の気配がするって言うんです。
店先や、台所、閉じた座敷の中に、誰かがいるような気がする。
振り返っても、見やっても、戸を開けて覗き込んでも、誰もいない。いえ、その場所にいないってだけじゃない。
座敷の中なら、たった今まで誰かいて、隣の座敷にでも移ったかって思うでしょう?
でもね、そんなわけでもなかった。
周りの場所を探しても、やっぱり誰もいやしないんです。
それなのにね、気配だけは、はっきりと、今まで誰かが其処にいたように残ってて。


え?ええ、ええ。親方、その通りですわね。
仰る通り、家人を亡くした家には、色々なことが起こるもんです。今までいた人が突然いなくなっちまうんですから、いるような気がしたって、そりゃ不思議じゃありません。
最初に女中さんから話を聞いた職人頭の女将さんも、親方と同じ事を言いましたよ。


——気の迷いさ。あたしだってまだ若女将がその辺からひょっこり顔を出すんじゃないかって気がするくらいだ。だからってね、あんまり妙な事は言わない方がいいよ。店の評判にも関わるし、この家には子供もいるんだからね。


そう言って、怖がる女中を宥めてくれてたんです。
ところがねえ……。その当の女将さんが、言い出したんですよ。


——誰かいるって気がするだけじゃない。若女将の香の香りがあちこちで残ってる。


義姉さんは、名前にちなんでか、藤の花の香袋を着けてましてね。
親方も坊ちゃんも、藤の香りはご存知ですか?
ええ、そうですわね。男の方にはちょっと甘ったるすぎるかも知れませんねえ。
あんまり濃いと酔いそうになるようなあの甘い香りも、香袋からうっすらと香る分には、義姉さんのおっとりとした人柄をそのまま香りにしたみたいでねえ。
その香りがね、家の彼方此方に漂い始めた。
もちろん、家や店の中、何処もかしこもって訳じゃありません。
誰かいるような気がして、振り向いても、覗き込んでも、誰もいなくって。
でも、ついさっきまで誰かいたような気配と、香の香りだけ残ってる。
もう、こうなったら、誰も気の迷いだなんて言えやしません。


——若女将、戻ってきたんだねえ。
——若旦那や嬢ちゃんが気になるんだよ。


こんな言葉が店の中や家の中で聞かれるようになりました。


気配を感じたり、香の香りを嗅いだのは店の者だけじゃありません。
あたしも兄もです。


義姉さんの気配や香りは、生前にいた場所……。店先や台所、そして、八重が寝かせてある部屋で取り分けよく感じられるようでした。
あたしはその頃は、八重と同じ部屋で寝てましたが、夜中に八重が目を覚まして泣くと、必ず気配と甘い香りが漂ってきたのを覚えておりますよ。
父は初めの内こそ、気のせいだ、なんて言ってましたが、香の香りが漂うようになってからは何も言わなくなりました。
思うところはあったんでしょうが、兄の様子を見ていると言葉にすることもできなかったんでしょう。


兄は……おわかりかと思いますが、すっかり義姉さんが戻ってきたんだと信じ込んじまって。
幼い八重を抱いて、中陰棚の前に座って、位牌に話しかけるようになりました。
にこにこと笑いながら、ええ、生きていた義姉にそうしていたように。
かと思うと、もう一辺戻ってきてくれ、せめて姿だけでも見せてくれって言って、泣き出すこともあって。


あら?親方、難しい顔をして、どうしたんですよ。
え?ええ、ええ、そうですわね。その通りです。
生きてる者がそんな風にあちら側に渡った者にすがっちゃいけません。
今からお話しますが……それはどちらにとっても良くないことなんです。
どんなに辛くっても、悲しくっても。
あちら側ととこちら側は別ですからね。
兄にはそれがわからなかった……。いえ、今だから偉そうに言えますが、その時にはあたしにだって何がなんだかわかりゃしませんでした。
ただ、義姉さんがまた春屋に戻ってきたんだって、そう思うばっかりでね。
嬉しくもありましたし、兄と同じように、姿も見せてくれたらいいのにって思ったこともありましたよ。


生きてる者が亡くなった者に思いを寄せすぎちゃいけないって、さっき、親方は仰いましたわね。
そのことが分かるようになったのは、四七日、五七日、と日が過ぎて、七七日。四十九日の日のことでございました。


四十九日はご存知の通り、御弔いの一区切りですから、義姉さんの時にも、身内や縁のある方を御招きして、来て頂いたんですが。


——あの仏壇の前の衝立はなんだね。初七日に来た時にはあんなものはなかったと思うが。


法要が終わった後の酒宴の席でね。
集まった親類縁者の内の一人、父の母方の大叔父が切り出したんです。
私の祖母の生家は山深い村でして。
この大叔父も其方の生まれででしたが、あたしたちの住まいの近在に奉公に出たついでにそのまま居を構えたということでした。
父の大叔父に当たる方ですから、当時でもかなりのお歳だったのでしょう。白髪で腰は曲がっておりましたが、まだまだ御元気な方でした。
大叔父の言葉に、その場にいた訳を知る者が事情を話した所、大叔父は、それこそ、先程の親方よりももっと難しい顔をなさいまして。


——そりゃあ、良くない。すぐにその衝立は片付けないといけないよ。


こう言って、父と兄に詰め寄ったのです。


——だが、叔父さん。あの衝立を立ててから、お藤が戻ってきてくれたんだよ。何がいけねえって言うんだい。


言い立てる兄に向って、大叔父は静かに語り始めました。


——嫁さんを亡くしたあんたの気持ちもわからんわけじゃない。
——だがね。こちらではどうか知らんが、儂らの里じゃあ、こんな風に言い伝えられてるんだ。
『亡くなった仏さんは、四十九日が済んだら、山に入って山の神さんになりなさる。それから春になったら、田に降りてきてくださって田の神さんになってくださる。その後、次の年の正月には、屋の棟に宿って家の神さんになってくださる』ってな。
——それを四十九日が済まない内から、山の絵を描いた衝立なんぞ立てるのは良くない。山に向かう仏さんが迷っちまう。
——現に、衝立を立ててから、おかしなことが起こってるって言うじゃないか。そりゃあ、あんたの嫁さんが戻ってきたんじゃない。迷っちまってるんだよ。悪いことは言わない。さっさとあんな衝立は閉まって、成仏させてやることだ。


祖母や大叔父の郷里ではそう言い伝えられている、とのことでしたがが、勿論、そんな話を聞いて兄が納得するはずもありません。
大叔父に食ってかかろうとするのを父が諌め、仏間から連れ出して。
まあ、その場はそれで収まったんですが。


四十九日が過ぎても、春屋は相変わらずで。
ええ、やっぱり義姉さんの気配や香の香りを感じるんです。
それだけじゃありません。
その夜から、八重が真夜中になると決まって泣き出すようになりました。
赤ん坊ですし、それまでも時折夜中に目を覚まして泣くことはありましたが。
この日の晩からは、毎夜、それも決まって真夜中に、です。
泣き声で同じ部屋に寝ているあたしが目を覚ますと、やっぱり義姉さんの気配と香の香りが残ってて。


泣いている八重の傍には必ず兄が座っていました。
兄はその頃は隣の部屋で寝ていましたから、もちろん八重が泣けば目を覚ましはするでしょうが……。
それにしても、あたしが目を覚ますより早くに目を覚まして、八重の傍に来るなんてことが毎日あるとも思えません。
しかも、その兄の様子が……なんとも御恥ずかしい話で御座いますが、身内から見てもとても尋常じゃあなかった。
灯もついてない部屋で、こう……懐手に腕を組んで。
泣いている自分の娘をあやすでもなく、じっと顔を覗き込んでるだけでしてね。
初めて見た時には、あたしゃ、義姉さんとは別口の幽霊でも紛れ込んだのかと思って肝を冷やしたくらいでしたから。


そんな事が何日も続いたある晩。
兄が、泣いている八重を抱き上げて部屋を出て行ったんです。
それまでは、八重がどれだけ泣いててもあやすでもなく、傍に座ってるだけだったんですけどね。
慌てて後を追いかけたら、兄の背中が客間へと消えていくのが見えました。
ええ、そうです。義姉さんの位牌が置かれていた客間ですね。
四十九日は終わってましたから、中陰棚は片付けてありましたけど。
代わりに御仏壇を置いて位牌をお祀りしてたんです。
ええ、兄の作った衝立はそのまま残してありました。
兄は八重を抱いたまま、その衝立の前に座っておりました。
何事か小さな声で話をしているのですが、どうもそれが八重をあやしているのでもない。
あたしは廊下から覗いてるだけでしたけど、「お藤」と義姉さんの名を何度も呼んでいたのが聞こえました。
兄がそのまま八重を返してくれないんじゃないか、どっかに連れてくんじゃないかって、あたしにはそんな気がして。
結局、兄が八重を寝間に戻すまでずっと客間を覗き込んでました。


次の日になって、すぐに前夜にあった事を父に知らせました。前夜の兄の姿はどう見たって正気には思えませんでしたから。
話を聞いた父はすぐに兄を読んで問い質しましたが、兄は何も答えずにただ話をはぐらかすばかりで。


その夜からは、父も、あたしと二人、八重が寝ている部屋に寝るようになりました。
本当は、兄と同じ部屋に布団を敷きたかったらしいのですが、それは兄が頑として拒みまして。
父があたしと同じ部屋で寝起きをするようになっても、やっぱり同じでした。
真夜中になると八重が泣く。
あたしと父が目を覚ますと、兄が八重の傍に座ってて。
ええ、部屋にはやっぱり義姉さんの気配と香の香りがしてましたねえ。


先程申し上げました通り、義姉が亡くなったのは六月の初めでした。
ですから、四十九日が丁度七月の終わり頃でして。
そうこうする内に、八月の……丁度今ぐらいですわねえ。
あの花火の日が巡って来たんですよ。
ええ、そうです。兄と義姉が出会う切っ掛けになった御祭りです。


その日の夕方……。丁度、町がざわめき始めた頃の事でしたでしょうか。
店の者が、兄の姿が見えないことに気がつきました。
兄だけじゃありません。八重の姿も何処にも見当たらなかった。
父はもちろん、店の者や話を聞いた近所の衆が総出で探し回ってくれたんですが…。
なにせ、年に一度の祭りの日です。
赤ん坊を抱いた若い男が目立つと言っても、町中が人で溢れているような始末では、見つけようたって、見つかるもんじゃありせん。


結局、兄が見つかったのは、花火が終わり、町が静まり返った夜半のことでした。
見つけたのは父で……。
兄は、花火が終わった後、誰もいなくなった橋の上で八重を抱いたまま立っていたそうです。


探すのに手を貸してくださった職人さんやご近所の皆様にひとまずは、とお知らせとお詫びに上がった父が戻ってくるまで、また、妙な事をするといけないって言うんで、あたしと職人頭が……まあ、言葉は悪うございますが見張りに付いたような具合で。
兄は仏間の衝立の前で虚ろな目をして座っておりました。
八重は、兄が戻ってきた時にはお腹が空かせて、ひどく泣いてましたが、近所の女将さんからお乳を貰ってからは、ずっと眠ったままでした。


——お春さん、あんたはここにいなくてもいいぜ。若旦那はあっしが見てるから。お八重坊を寝かしてあげたらどうだい。


頭はそう言って気遣ってくださったんですが、あたしも兄の傍を離れる気にはなれませんで。
結局、八重は仏壇の前に座布団を敷いて、夏がけをかけて寝かせまして。
あたしも兄と一緒にいることにしたんです。
仏間に座っているあたしと頭に何を言うでもなく、ただ座ったまま、じっと衝立を見つめている兄の背中が、ひどく小さく見えたことを覚えております。


真夜中になって父が戻ってきて……。
詰めていて下さった頭にお礼を言って、引き取って頂いた後のことです。
父があたしの隣に座りまして。
相変わらず、衝立の方を向いたまんまの兄に向って、きっと眦を上げて。


——おめえ、何をしでかすつもりだった。
——いや、言わなくていい。大方、八重を連れてあっち側にでも行こうってつもりだったんだろう。


いえ、問いかけたんじゃありません。
真っ向から、背中を向けた兄に向って、ぴしり、と決め付けたんです。
静かな声でございましたが、あの時の父の声は、それまで聞いた中で一番怖かった。
父にそう声をかけられて、兄は漸く言葉を発しました
相変わらず、背中を向けたまま、衝立を見たままでしたが。


——四十九日の晩から、夢を見るんだよ。
——花火の夢さ。最後の派手な一発がぱあっと上がって……。その後は真っ暗闇だ。
——その真っ暗闇の中で……誰もいねえ橋の上に、お藤と俺が二人で立ってんだよ。


『お前さん、花火が終わっちまったねえ』
『ああ、帰ろうぜ。皆、待ってる。八重も泣いてるぜ、きっと』


——いつもみてえにあいつの手を取ると……。お藤が、橋の向こうっ側にある山と俺の顔を見比べて。


『ねえ、お前さん、あたしはどっちに行ったらいいんだい?』


——困った顔をして、俺に聞くんだよ。あん時……あいつと初めて会った晩、友達と逸った時としてたのと同じ困った顔で。
——それを聞いたら、途端に言葉が出なくなっちまって、体が動かなくなるんだ。


『何言ってやがる。おめえは俺んとこに帰って来るんだろう』


——そう言ってやりてえのに。手を引いて、連れて帰ってやりてえのに。何にも言えねえ。何にもできねえ。
——黙ってる俺を見て、お藤が困った顔のまんま、笑って……そしたら、八重の泣き声が聞こえて目が覚めて……気がついたら、いつも八重の傍に座ってたんだ。


兄が語り終えるのを聞いた父が、さっきと同じことを兄に問いかけました。


——それで、おめえはどうしようって思ったんだ。


ええ…今度は決め付けたんじゃありません。
問うたんです。
問われた兄は…やっとあたしと父の方を向いて。


——花火が終わった後……誰もいなくなった橋で待ってたら、お藤が来てくれるんじゃねえかって思ったんだ。夢ん中みてえにさ。
——お藤が来たら……八重の顔を見せてやって、一緒に連れて帰ろうって思ってた。
——もし夢ん中みてえに、体が動かなくなっちまうんなら。
——その時は。
——俺と八重がお藤んとこに行ってやりゃいいんだって思ったんだ。
——でも……。
——何時まで待っても、お藤は来てくれなかったよ。


兄の言葉を聞いた父は、いきなり立ち上がると兄の頬を思いきり張り倒しまして。


——てめえってやつはつくづく馬鹿な野郎だな。
——夢ん中でお藤が一言でもてめえに「連れて帰れ」って頼んだか。一言でも「一緒に来てくれ」って頼んだのかよ。
——毎晩、毎晩、お藤がおめえの夢に出たのはなんでだ。八重のとこにまで連れてって泣いてる声を聞かせたのはなんでだ。
——それがなんでかわからねえって言うなら、おめえはもう八重の親じゃねえ。いや、お藤と夫婦だったって言うことも許さねえ。
——一晩、時間をやる。とっくり考えるんだな。明日の朝になっても同じことを言うなら、もうおめえはこの家には置いとけねえ。


八重が泣くのも構わずに、そう怒鳴ると、客間から出て行きました。
あたしは兄が心配でしたけど、父の言葉には有無を言わせぬものがありましたから。
結局、いつものように泣いている八重を寝かしつけてから、その隣で横になりました。


いつもならあたしの隣に床を敷いてた父の姿はなくってね。
あたしと八重二人っきりで。
床には着いたものの、とても眠れるもんじゃありません。
兄さんはどうしてるだろう、お父っつぁんは何処に行ったんだろう。義姉さんが生きてたら、なんて言うんだろう。
そんなことばっかりが頭ん中にぐるぐる巡って。
いっそ、明日の朝が来なけりゃいいって思ったくらいです。


そのうちに、疲れが出たんでしょうねえ。
朝方近くだったと思います。気がついたら、うとうとと眠ってて。


そうしたらね、夢を見たんです。
兄が言ってたのと同じ夢を。


いえ……まったく同じじゃあありませんでしたね。


場所は、兄と義姉さんが出会った橋の上で。
兄が言ったように、誰もいない橋の真ん中に義姉さんと兄が手を繋いで立ってました。
あたしは兄のすぐ横に、八重を抱いたまま立ってて。
花火がね。幾つも上がってましたよ。
兄が見た夢は、花火が終わった後だって言ってましたけどね。
あたしの夢はそうじゃなかった。
赤、黄、青、色んな光がぱあって夜空に咲いて。
藤色の浴衣を着た義姉さんの白い頬が、よく見えました。
不思議だったのは、音がしなかったことですねえ。
花火が幾つも上がってるのに、しんと静まり返ったままで。
真っ暗な橋の上が花火の色の染まる中で、兄が義姉さんの手を離して、深々と頭を下げて言ったんです。


——すまねえな。お藤。俺が悪かった。
——いいんですよ、あんた。頭を上げて下さいな。


義姉さんは笑ってました。
生きてた時と同じ、ちょっと困ったような笑顔でねえ。


——あたしこそ、ずっと一緒にって言ったのに、先に行くことになっちまってごめんなさい。
——いいんだ、先に行っててくんな。後の事は心配しなくていい。八重の事も任せとけ。おめえに似て、器量良しの娘になるぜ、きっと。


胸を張った兄も、義姉さんが生きていた頃の、元気で威勢のいい様子でね。
あたしは夢ん中でも誇らしかった。
兄の言葉に頷いた後、義姉さんはあたしの手を取ってくれました。


——お春ちゃんにも、謝らないとね。あんたみたいな子が義妹になってくれて、あたしゃ本当に嬉しかった。
——きれいな着物を選びに行こう、簪や紅も一緒に買いに行こうって、思ってたんだけどねえ。ごめんね。どれもできないままになっちまったわねえ。


——いいのよ、義姉さん。そんなこと。あたしだって、義姉さんみたいな人が家に来てくれて嬉しかったんだから。


あたしの返事を聞いた義姉さんは、最後に八重の頬を撫でて。


——一遍でいいから、あんたを抱いてやりたかったわねえ。ごめんね。お八重。さみしい思いをさせちまって。おとっつぁんとお春姉ちゃんの言うことをよく聞くんだよ。


そう言ってから、義姉さんはあたし達三人に向って、深々と頭を下げてくれました。


——お別れ…だわねえ。
——心配すんな。俺達もいつかはそっちに行くさ。
——ええ、そうよ、義姉さん。
——ありがとう。それじゃあ……


義姉さんの最後の言葉が途切れかけた時に、八重の声が聞こえて眼が覚めました。
いいえ、泣いてたんじゃありません。
八重は笑ってました。きゃっきゃって。
明け方の薄青い部屋の中には。
やっぱり義姉さんの気配と香の香りが残ってました。


朝になって客間に行くと、衝立は無くなってました。
後で聞いたんですが、夜が明けるのを待って、兄がお寺へと持っていったんだそうです。
お寺から帰ってきてから、兄は次の日の朝まで死んだように眠って。
眼を覚ました後は、あたしと父の前で深々と頭を下げてくれました。
いえ、あたし達だけにじゃありません。
店の者にも、近所の皆さんにも、自分から頭を下げに行って。


ふふ、ここで、人が変わったみたいに立ち直った……って言えりゃ、綺麗に話が終わるんですけどねえ。
ええ、やっぱり時間はかかりました。
人が見てるとこでは、弱音を吐いたりするようなことはなくって、いつもの兄さんみたく振舞ってましたけどね。
夜中に仏間に一人で籠もってることが時々ありました。
あたしも、父も、見ない振りをしてました。
それでいいんだって思いましたからね。


店や家の中で、義姉さんの気配や、香りを感じることはなくなりましたけど……。お盆の時には時々、御線香の香りに混じって、藤の花の香がすることがありましたよ。あたしの気のせいかもしれませんけどね。


あたしの話は大方はこれで終わりですが、ちょっと続きがありましてね。
大分後になってから、兄に聞いたことがあるんです。
あの晩、何があったのかって。
兄は笑うばっかりで、教えてくれませんでしたけど。こう言いましたよ。


——八重がいなかったら、あの衝立に橋と花火とお藤と俺の姿を描き足してたろうよ。


そう言って、笑った時の兄の顔が、一瞬、別の物のように見えて、ぞっとしたことを覚えております。


長くなっちまいましたが、あたしの話はこれで終わりです。
春屋は先に申しました通り、父が亡くなった後、兄が跡を継ぎました。
後添えだけは頑として貰わなかったんで、八重が嫁いだ後は、店は叩んじまいましたけどね。
八重は、義姉さんとそっくりの、別嬪になって、今じゃ商家の女将さんです。子供もおりますねえ。


親方も坊ちゃんもどう思いますね?
春屋で起こった事は……義姉さんの気配や香りがしたのは、やっぱり気の迷いなのかもしれません。
兄の見た夢は、気持ちが弱ってたから。あたしが見た夢も、兄の話を聞いたから。
そうも思えますねえ。


あたしは時々思うんですよ。
あの晩、兄が衝立に絵を描き足してたら、どうなったんだろうって。
二人は今でも衝立の中で、あの花火の夜をさまよってるんじゃないかって……ねえ。
二人に取って、どっちが良かったのかはこの歳になっても、あたしにもわかりません。


春屋に起こった事も、兄とあたしが見た夢も。
今となっちゃあ、嘘か真かわかりゃしません。
兄が衝立に絵を描き足してたら、どうなってたかってのもね。
それでも……一つだけ、あの晩に、兄が八重の親になることを選んだんだってのは、あたしは確かなことだと思ってます。


八重にも、この話はしてありますが…。
え?ええ、ええ。さすが親方ですわねえ。
仰るとおりです。後になって兄が言った絵を描き足す云々だけは、伝えておりません。


さて……坊ちゃん、あたしの話はこれで終わりですけど。
約束してくださいますか?
坊ちゃんの御好きな怪談とはちょっと趣向が違うかもしれませんが…。


夏の花火の夜に出会ったあたしの兄さんと義姉さんの話を、きっと後に伝えて下さいませ。