「謎は深まるばかりなり」を先にお読みください。
「そろそろ起きる頃かしら」
同室にいるあなたは、体をモゾモゾし始めていた。
私の使命は、あなたから記憶の一部を消し去ること。正確には、その記憶を思い出させないことにある。
部屋の中は、森林浴のアロマオイルの香りで満たされていた。
「きっと、あなたは山の中の小屋にでもいると思ってくれるはず、、、」
しかし、窓の外には小高い丘が見えているものの、その向こうには大海原が広がっている。そう、ここは海辺の街なのである。
あなたは不思議に思うことでしょう、自分の記憶がないことを。
重要な部分の記憶は完全に消した、それは間違いないわ。ただ、人間の脳というものは厄介なもので、記憶につながりがないと、勝手に辻褄が合うように修復してしまう機能があるようね。
夜見る夢なども、脳が勝手に作り出した産物なの。
しかし、夢を見ている最中は、それがどんなに荒唐無稽なストーリーであろうと、妙にリアリティがあるものなの。そう、香りを感じることだってあるわ。
この森林浴のアロマオイルの中で目覚めるあなたは、ここは山の中としか思えないことでしょう。
さあ、そろそろ目覚めたようね。
『ん? どこだ』
あなたの目の前には丸太で作られた壁が見えているはず。それに、この香り。
『まるでログハウスだな』
状況から、あなたがそう判断するのも無理はない。すべては計画通りなの。
『それにしても、、、』
あなたは、自分が何者で、どこにいるのかわからないわね。
『あら、あなた。目が覚めたの』
そうよ、あなたには状況がわからないはず。ここでの刷り込みが重要なの。
『俺はどうした?』
そう、あなたには今の状況が理解できない。そして、いつもの癖で情報収集をするのよ。
『まだ、お疲れなのね。今回は大変でしたものね』
そう、これでいい。私も具体的なことは何も言わない。
あなたがどういう風に空白の記憶を補うかは自由。わたしの役目は、真実を暴かれないこと。違った記憶に修復してくれるなら、それはどんな記憶でも良い。
あなたが、自らの手で捏造してくれた記憶なら、それこそが真の記憶として残される。その手助けをすることこそ、私の役目。
『ああ、少しばかり疲れたな』
何に疲れているかは、わからないわね。
『あなたもいい年なんだから、あまり無茶しちゃダメよ』
私も適当に話を合わせる。
『そうは言っても、俺がやらなければ誰がやるんだ』
もちろん、何をやるのかわかっちゃいないでしょうけど、何をやったかもわからないでしょうけど、ここは話を続けるためにも、そう答えるところなのでしょうね。
『そうねえ。あなたがやらなければ、』
『俺がやらなければ、』
『・・・』
ずいぶん、記憶を修復できてきたんじゃないかしら。
あなたは、重要なシークレットミッションを遂行してきた。それを成し遂げるためには、年のわりにかなり無茶なこともしなければならなかったらしい。いいわよ、その調子よ。
『まあ、誰かがやるだけの話だな』
いいえ、なかなかやる勇気のある人はいないわよ。
『あなたじゃなきゃ、ダメね。あなたにしかできないわ。もともと、あなたがやらなきゃ意味がないもの』
そう、誰もやりたがらなかったのよ。
『おまえ、俺をかいかぶりすぎてるんじゃないか?』
『何言ってるのよ。あなたのことは、私が一番良く知ってるわよ』
そうよ。あなたのことは私が一番良く知っているの。だって、ずっと一緒にやって来たのよ。
だから、いずれは一緒になろうと誓い合った仲じゃない。
でも、この仕事をやると決めてからのあなたは、もう諦めていたわね。自分の人生を諦めたの。もちろん、私のことも。仕方がないわね。
でも、私は諦めきれなかった。どんなことをしても、あなたのそばにいたかったのよ。
『俺は、ずいぶん眠っていたのか』
あなたは任務を終え、約束だった手術を受けたの。看病は、もちろん私が申し出たわ。
『そうねえ。あなたが、じゅかいから戻って来て、もう、丸三日よ』
じゅかいと言っても富士山の樹海じゃないわよ。あなたにはそう聞こえているでしょうけど、授戒の方よ。つまり、あなたの施された手術のことを指しているのよ。
『三日か。我ながら良く眠ったな。お前は、その間ずっと俺を看病しててくれたのか』
『当たり前じゃない。それがパートナーとしての務めよ』
『人生のパートナーか? それとも仕事のパートナーなのか?』
いけないわ。こんなところで、気付かれでもしたら、大変。話題を変えなくちゃ。
『どうしたの、急に。藤さん(フジサン)らしくないわよ』
そう、あなたの名前は藤よ。名前まで忘れてしまったのね。
『もしかすると、俺は何かの病いなのか?』
『病いとは言えないわ。私は立派な個性だと思っているの』
個性、そうよ、あなたの強烈な個性が招いた結果なの。
『でも、普通の奴から見れば、おかしいんだろう』
『ええ、まあ、変わっている方でしょうけど、おかしいわけじゃないわ』
とびっきり変わっているわよ。ただ、理解できないわけではないわ。
『天気はどうなんだ?』
あなたはドアを開け、空を見上げた。大粒の雨が、容赦なくあなたの顔を叩きつけた。もう、髪の毛びっしょりね。
『ダメよ、無理しちゃ』
私の声を打ち消すように、爆音とともに一筋の光が夜空に舞い上がった。
『何だ、何だ。閃光弾か?』
『違うわよ。今日は、打ち上げ花火の日よ。でも、この天候で、どうなるかしらね』
あなたと浴衣姿で見るのが夢だった打ち上げ花火。
ドッカーン!
夜空に大輪の花が開いた。その光が、あなたの胸元を照らした。
『えっ! まさか! これが、俺のからだなのか・・・』
『そうなの。なのに、あなたは俺、俺って言うし、変わっているでしょ』
あなたの胸元には、雨に濡れたTシャツ越しにブラジャーが透けており、そこには豊かな乳房が、、、
でも、あなたは知らない。それは、あなたが極秘任務を遂行するために性転換手術を受けたものであることを。あなたは男から女へと変わったのよ。
そして、あなたはもう一つのことを知らない。
あなたとどうしても一緒になりたかった私が、女から男へと変わる手術を受けたことを。
それは、私だけのひと夏の記憶となった。