幻想小説三題話作品: 海 花びら スローモーション)

七百七年ノ嘘  by 暁焰

 
 月が祝っている。
 波が悦んでいる。
 白砂に打ち寄せては砕ける泡が蒼白に光る。
 手にした銃の先、照星越しに見える細い背中。
 変わらない。変わっていない。
「お待ちしておりました。兄様」
 振り返る白い頬、柔らかく響く声。
 僕は戻ってきた。
 数百年に及ぶ生の中で唯一人愛した人——妹を殺める為に。


「見つかったのでございますか?」
「見つかりはした。じゃが、効くかどうか迄はわからぬ」
 問いかける彼女の口調は遥か古のもの。応じる自分の言葉も同じ調子を取り戻している。
 他に使う者も絶え果てた口調さえ、止まった儘の二人の時を象徴しているかに思えた。
「正直な御返事でございます。兄様もそんな所だけは変わってはおられませぬな」
「そなたに嘘はつけぬ、アヤ」
 鈴を転がす様な笑い声が潮騒の響きに混じる。
 無邪気な笑顔の前、僕は首を横に振る。
 変わらない、否、変われない。僕も彼女も。
「よろしゅうございます。効くにせよ、効かぬにせよ…。どちらでも構いませぬ。此度は長うございましたから…。兄様、もし効かぬのであれば…。次はもう旅に出ず、一緒にいてくださいませ。今年で七百と七年でございまする。刻限まで…後、百年も残ってはおりませぬ故…」
「それはできぬ、と何度も言うておるであろう?」
 伝説が確かならば、二人は八百年の寿命を得た事になる。
 アヤの言う刻限、とはそれだ。
 だが、伝説はあくまで伝説。それが正しい根拠など何処にも無い。
 仮に正しいとしても——。
 僕達は余りに長く生き過ぎている。


 不老不死。それが僕とアヤにかけられた呪いだ。
 老いもしない。死ぬ事もない。
 永劫に続く人外の『化生』——『人』として生き続けているアヤは違うが、少なくとも僕はそうだ——としての生を終わらせる為。
 刃で貫かれても死ぬ事がない躰を、どれほどの時を経ても老いる事のない呪いを。
 殺す為の、解く為の。
 その術を探し続けて、僕は世界を巡ってきた。
 一カ月、一年、十年、五十年。始まり、終わり、戻り、そしてまた始まる度に、旅は長くなった。
 それでも。
 僕とアヤは生きている。
 生き続けて、この砂浜に立っている。
 全ての始まりの場所。兄妹が不死の運命を得たこの場所に。


 七百と七年前の庚申の夜。
 海へと漁に出た父の行方が分からなくなった。
 一緒に漁に出た者達は、夕暮れ、村へと戻ろうとする時には父の船だけが消えていた、と言う。
 誰もが気づかぬ内、船ぐるみ波に飲まれたか。
 深更になっても戻らぬ父を案じ、浜には村の者達が集まっていた。
 暗い水面を見守る視線の先に、父の操る小舟が姿を現した。
——夕刻になって、村へ戻ろうと思ったら、周りが霧に包まれた。
 何があったのかと問う村人達に、父は答えた。
——舵も効かねえ。漕いでも漕いでも動かねえ。それなのに…。
 風もないのに船は勝手に進み、見た事のない島へと辿り着いた。島では、父が来ることが分かっていたかの様に宴の支度がされていた。
 島民なのだろうか、大勢の人々に迎えられ、大きな屋敷の広間で酒と食い物を振る舞われた、と言う。
——そこまでは良かったんだ。けどな…。
 語る言葉を区切り手にした笹の葉の包みを差し出す父の目には、忌まわしい色が浮かんでいた。
——宴が終わる間際に厠に立った。その時に、台所を通りかかって覗いたら。
——人魚を捌いていやがった。その後にこいつを土産に、って持たされたんだ。
——人魚の肉なんぞ、いらねえ。
——誰か欲しいもんがいたらやる。 
 父の言葉に手を上げる者は一人もいなかった。
 竜宮——年寄り達はそう言った——へと迎えられ、父が歓待を受けた事を祝う為。父への土産に、と命を失った人魚を弔う為。
 笹の葉で包まれた「土産」は、夜が明けてから村の竜神様へと捧げられる事になった。
 村の者達が散じ、僕達も父と共に家に帰った後。家族が皆寝静まった頃に、僕とアヤは起き出した。
——食ってみてえ。
——一口かじるくれえなら、わからねえ。
 村の子供言葉で囁き合った後、二人は床の間へと入り込み、竜宮からの『土産』を口にした。
 その時から、僕とアヤの時は止まった。
 十七と十六の兄妹の儘で。


「月は変わりませぬな。我等と同じで…。いつまでも」
 寄せる波に足首までを浸して、アヤが空をふり仰ぐ。
「此処へ来ると村の皆を思い出しまする。兄様もそうでございましょう?」
「殺めた事は覚えておる。生きておった頃の事は…忘れた。思い出しとうもない」
「それでよいのです、兄様。兄様の代わりに我が覚えておれば、それで…」
 アヤは全て覚えているのだろう。
 村の者達だけではない。数百年の間、彼女の前を通り過ぎて行った人達の死と生を、全て。
 人魚の肉を口にして不老不死となっても、彼女は人として生き続ける事を願った。
 僕は。
 己の意志で、人として在る事を絶った。


 どれだけの歳月が経っても姿形が変わらない兄妹。
 二人に向けられる視線が奇異と畏怖から、忌避を含んだ物へと変わる迄、時間はかからなかった。
 父と母、他の兄妹達、家族は全て先に逝った。二人だけが残された家を、ある夜、村の男達が襲った。
 歳もとらない。死ぬ事もない。
 そんな者は人間ではない。化け物だ。
 男達は鍬や鉈を僕に振るった。
 アヤは男達に嬲り者にされ続けていた。
 家に火を放たれたのはその後の事だ。


 死に至る程の傷をどれほどに受けても。
 灼熱の焔に総身を焼かれても。
 僕とアヤは死ななかった、否、死ねなかった。
 穿たれ、削られた肉も、焦げていく皮膚もすぐに再生した。
 死期が近づく度、自らを焔に包み生まれ変わる不死の鳥の様に。
 僕もまた、二人を包む紅蓮の業火の中で生まれ変わった。
 人である事を己の意志で捨てた人外の化生へと。
 死ぬ事がない此の身を人でないと、化け物だと呼ぶのなら。
 それでいい。それに相応しい生き方をしてやろう。
 焼け跡から焔を纏って現れた僕を見ただけで、男達は戦意を失った。身が焼かれ続ける痛みに耐えながらでも、恐怖に駆られた彼等を屠る事は容易かった。
 男達を皆殺しにした後、僕は村の家々を回り、残る村人達も手にかけた。
 流した血と家々が燃える焔。
 全てが朱く染まった夜の中、アヤは唯泣き続けていた


 村を後にした僕達は互いに真逆の生を選んだ。
 人として生きる事を捨てた僕は、人を憎み、その最期を与える道を。
 人として在る事を望み続けたアヤは、人を愛し、その最期を看取る道を。
 いつの時代にも、平和な場所とそうでない場所があった。
 アヤは前者を僕は後者を。
 それぞれが選んだ場所で、僕は侍となり、アヤは比丘尼となった。
 戦場を転々とし人々を殺め続ける修羅の如き男。
 訪れる者の最期の想いを受け止めては看取り続ける菩薩の様な少女。
 異なる場所で異なる生を送りながら、僕達は幾つもの生と死を見続けた。


 もう会う事もないと決め、袂を分かってから二百年が過ぎた頃、アヤから文が届いた。
——会って、話したい事がある。
 招きに応じ、訪れた場所は山国の小さな寺だった。
 庭の竹林が風に揺れ、葉擦れの音が響く庵の一室。墨染めの衣を纏ったアヤは「八百比丘尼」と呼ばれた娘の伝説を語った。


 若狭の国で人魚の肉を口にした後、八百年の歳月を生きた娘がいた。
 彼女はアヤと同じ様に比丘尼として生き、多くの人達の最期を受け止めた後に、生まれ故郷の若狭の浜で入定した。その跡には白い椿の花が咲くようになった。
 そんな物語だった。


 八百比丘尼の物語が真実なら。
 我等も八百年を待てば死ぬ事が出来る。
 ならば、その最期の時は兄様と一緒に迎えたい。


 共に生きてくださりませ。
 同じ過ちを犯して。
 同じ呪いを受けて。
 それでも、人として死ぬ事が叶うなら。
 我も兄様と共に、生れた場所の海へと還りとうございます。
 二人、海へと還り、波に散る花になりとうございます。


 竹の葉のざわめきに混じって。
 開け放たれた縁先から吹き込む夏の風に乗って。
 語られる妹の願いに、僕は首を横に振った。


 共には生きられぬ。
 同じ過ちを犯して。
 同じ呪いを受けて。
 それでも、人として死ぬ事が叶った者がおるのであれば。
 我は、そなたを生れた場所への海へと還してやろう。
 一人、海へと還り、波に散る花へと変わったそなたを見届ける者になろう。


 八百年も待つ必要はない。
 呪いを受けても人としての寿命を迎える事ができるのなら、それを終わらせる術もあるのかも知れない。
 寿命を待つしかないにしても、いずれ六百年は時がある。ならば、待つ間にその術を探す。
——この国には無くとも、他の国の何処かにはあるやも知れぬ。
 気が付けば夕暮れが訪れていた。
 茜に染まる庵室で、アヤは悲しげに微笑んだ。


 その夜、僕はアヤと身体を重ねた。
 幾度も幾度も愛を交わした後に迎えた暁。
 裸の胸に白い頬を委ねたアヤが囁く。
——兄様、一つ…。お尋ねしてもよろしゅうございますか?
——何をじゃ?
——初めに…。父様の『土産』を食いたいと言うたのは、我と兄様、どちらだったのでございましょう?
——覚えておらぬ。我だったのやも知れぬ。そなただったのやも知れぬ。じゃが、今となっては…。どちらであったとしても、我に取っては詮無き事じゃ。何故その様な事を訊く?
 抱き締める腕の中、アヤが白い身体を起こし、甘える様に唇を強請った。
——兄様…。もし、人魚の肉を食いたい、と言うたのが我であったなら…。兄様は我を憎みまするか?呪いまするか?
——憎まぬ。呪いもせぬ。我は最早『人』ではない。修羅じゃ。戦場では鬼とも魔とも呼ばれた。『人』ならぬ我が憎み、呪うのは『人』だけじゃ。そなたは…。
——『人』ではありませぬか?
 答える代わりに僕はアヤの唇を吸い、暁闇の中でもう一度彼女を求めた。
 二人抱き合って落ちた眠りに落ちた後、僕は夢を見た。
 茜色の庵室で、悲しい微笑を湛えたアヤが「己は人ではないのか」と問い、「人でありたい」と涙を零す。
 そんな夢だった。


「此度はどちらまで赴かれたのです?兄様?」
 潮騒の小さなさざめきの中、月を仰いでいたアヤの視線が僕に向けられる。
「西の国じゃ。海を渡り…。その後は十も国は越えたかの?」
「それはまた…。永い旅でございましたなあ」
 微笑するアヤの瞳の中、銀色の銃身が映っている。
 月光を映じて光る銃は、この国よりも更に緑が濃い山岳と、峻厳な峡谷ばかりの西の国の果てで手に入れた物だ。
 「只の短筒ではない。異国の神の祝福を受けた物での…。人の生血を啜って不死の力を得ておった魔物…」
 「兄さん、短筒ではなくピストル、その魔物は吸血鬼、と言うのでしょう?それくらいの言葉は私も知っているんですから」
 手にした銃の由来を語る言葉を遮り、アヤが声を立てて笑う。
 からかっているのだろう。兄様、と呼んでいた口調をいきなり現代のものに切り替えて見せた頬には、悪戯っぽい色が浮かんでいた。
「わかってるさ。ただ…昔の言葉の方が話しやすくてね」
 幾つもの時代が過ぎていく中、僕もアヤもその折々に相応しい振る舞いや言葉使いを身に着けて来た。
 振る舞いや言葉だけではない。纏う衣服も、アヤは慣れ親しんだ僧衣ではなく薄水色のサマードレス。僕は黒いシャツにデニムを着ている。
「吸血鬼なんてものが本当にいるのね。お話の中だけかと思ってたけど」
「世界は広いからな。色んな化け物を見てきたよ。それに、お話の中だけの存在って言うなら、僕達も変わらないと思うが?」
 そうね、と頷いた後、アヤの頬に浮かぶ笑みが寂寞とした色を帯びた。
「色んな物を見つけてきてくれたわね。その度に、兄さんは見なくて良い物を見てきた」 見なくていい物、とは化け物の事だけを指しているのではないのだろう。
 手にした銃を腰のベルトへと戻し、波打ち際へと近づく。
 照らす月の蒼い光の為か。記憶に残る物よりも更に色が薄れた様に見える細く白い肩へと、両腕を回して抱き寄せる。
 「同じ事じゃ。見なくとも良い物を見てきた…。それはそなたもであろう?」
 旅の中、異国の地で人ならぬ物の噂を聞き拾い、真実かどうかも分からぬ話を追う間にも、僕は人を殺し続けた。
 「変わりませぬ。兄様が旅に出ている間…。また時も移ろいました。今は、比丘尼の装束等纏うておる方が人の目に付きまする故、このような姿をしてはおりますが…」
 僕を待つ間、姿を比丘尼から市井の少女へと変えても、アヤの生き方は変わらなかったのだろう。
 人と交わり、人を愛し、その最期を見届け続ける。同じ事だ。生き続ける限り、僕とアヤの目の前を、幾つもの死が通り過ぎていく。
 それが憎む相手か、愛しい相手かの違いはあっても。


「…この短筒はの。吸血鬼の王、と呼ばれる男を殺して奪ってきた物じゃ」
 アヤを抱いた儘、再び口調を慣れ親しんだ物に切り替える。
 人の血を糧に生きる不死の魔物。銃はその始祖と呼ばれる男の許にあった。
 並の…と言う呼称が適切かどうかはわからないが、只の吸血鬼であれば、銀の弾丸が弱点となる。御馴染みの白木の杭と同様、心臓へと打ち込めば命を奪う事ができるのだ。
 だが、不死者の王、始祖とも呼ばれる存在にはその手段は通じない。呪われた魔王を滅す為には、神に祝福された聖なる銃で銀の弾丸を放たねばならない。
 自身の命を奪う為に作られた銃を手元に置いたのは、敵の手に渡る事を恐れた故か。
 訪れた廃城の奥、嘗ては玉間だったであろう広い空間は崩れ落ちた瓦礫と、血の匂いに満ちていた。
——待っていたぞ。
——いつか、来ると分かっていた。お前の様な男がな。
 玉座らしき場所から黒衣を纏った男が立ち上がる。外見から見て取れる歳の頃は、人で言えば、壮年、と言った所か。西洋人特有の彫の深い顔立ちに、崩れた天上から降る月光が濃い陰翳を刻んでいた。
——お前が探しているものはこれだろう?
 男の手が胸元へと差し込まれ、銀色に光る銃を取り出す。
——そうだ。悪いが、貴方を殺してでも貰っていく。
 大人しく渡してくれるとは考えていなかった。どのような形であれ、一戦交える事は避けられないだろうと。
 片手に剣、片手に白木の杭を構えて身構える僕に、男が近づく。
 ゆっくりと、足元まで届くマントの裾を揺らして刻まれる歩みが、石畳の上で冷めたく、乾いた音を響かせる。一個の影と化したかの様な滑らかな挙措で歩み寄る男からは、予想に反して敵意も戦意も感じられなかった。
——持って行くがいい。
 差し出れる銃も銃口ではなく、銃把を僕に向けている。どうやら、最初から戦う気はなかったらしい。
——だが…。一つ、頼みがある。この銃で私を殺してくれ。
——どういうつもりだ?
 自ら死を望むなら、自身で引き金を引けばいい。手許にあったのは、敵の手に渡る事を恐れての事ではないのか?
 銃を受け取りつつも戸惑いを隠せない僕に、男は答えた。
 銃を手許に置いていたのは、命を狙う者の手に渡る事を恐れたからではない。
 いつか、己と同じ過ちを犯した者へ、呪われた生を終わらせる為の救いとして委ねる。
 その為に、自分は今日までを生き続けてきた、と。
——死ぬ事ができぬのは辛いものだ。それはお前も良く知っているだろう?
——私は愛する者と永久に時を過ごしたかった。だから不死を願った。我ながら、愚かな願いを持ったものだ。
 瓦礫の山、血の匂い、そして、月光を透かしてでも見える死の気配。
 男が大仰に手を広げ、深紅に光る双眸を天に向ける。
——高すぎる代償だった。私に残された物は今、此処にある物が全てだ。
 哄笑する男の口許には、白く光る鋭い牙があった。
——東洋の男よ。聞かせてくれ。お前も私と同じか?愛する者の為に不死を得たのか?
 答える代わりに僕は数歩の距離を取った。
 毀たれた天井に空いた大穴から降り注ぐ月光が、両手を広げた男のシルエットを石の床へと落としている。
 男が恐れた十字架の形に。
 両腕を広げた儘、差し出される胸に向けられる銃口。引き金にかけた指先に僅かに力を込める。
 闇に閃く銃火の先、放たれた弾丸は過たず男の胸を貫いた。
 自身が石の床へと落とした十字の影へと重なる様に崩れ落ちた男の前で、膝を付き、礼を落とす。
——不死を得たのは、誰の為でもない。何の理由もない…。只の過ちだ。だから…僕はきっと、貴方よりも愚かだ。
 灰へと散じていく亡骸へと手向ける祈りの言葉はなく、唯、旅の間に習い覚えた作法で十字を切った。


 不死者の王を殺した聖なる銃は、今、僕の腰に挿されている。
 左腕でアヤの身体を抱き締めた儘、右手が銃把を掴む。
 告げる言葉を探しても、胸の中に映るのは何処までも広がる空虚な闇。
 無造作に引き抜いた銃の先端を妹の胸に押し当て、口付けを交わす。
 互いが瞳を閉じた刹那、指先が引き金を引き絞る。
 潮騒に銃声が響いても、重ねた唇は其の儘に。
 軈て、鼻腔を付く硝煙が潮の香へと変わり、銃声の残響が波のさざめきに消える頃。
 重ね合った胸が温かな雫で濡れていくのを感じた。
 絡み合う舌先が温かな鉄の味に包まれる。
 七百と七年。
 愛しい者が重ね続けた生が終わる。
 込み上げる歓喜と安堵を感じるよりも先に、膝から力が抜けるアヤの身体を両の腕に抱き留めた。
 水際に付いた膝を、寄せる波が冷たく、流れる血潮が温かく濡らしていく。
「すまぬ…」
「何を謝られるのです?兄様?」
 五百年前。初めて妹を愛した夜。
 僕はアヤに嘘をついていた。
「あの夜…。父様の『土産』を…。人魚の肉を食おう、と初めに言うたのは…我じゃ。我がそなたを誘うたのじゃ」
「覚えておられました…か…」
 微笑を浮かべるアヤの口元から朱い糸が一筋、波へと落ちる。
 忘れられる筈がない。
 妹を無限の呪いへと引き込んだ罪を。
 逃げられる筈がない。
 愛する者へと永劫の生を与えた罰から。
「兄様は…矢張り、嘘の付けぬ人でございます…。それでも…こうして、約束通り、アヤを殺してくださいました…」
「違う。我は逃げただけじゃ。そなたと共に生きる事を恐れた。それだけじゃ」
 八百年の寿命が尽きるまで共に生きたい。
 願う言葉を、哀切な色を浮かべた瞳を、僕は恐れた。
 共に生き続ける限り、傍にいる限り。
 呪いが始まった夜に自身が犯した過ちを、僕は唯見続けて生きる事になる。
 とても耐えられるとは思えなかった。
 だから僕は逃げた。
 僕が始めた罪から目を背ける為の旅へと。
 だから僕は探し続けた。
 僕がかけたに等しい呪いを贖う為の術を。


「兄様…。我も嘘をついておりました」
「…何を言う?」
「我も…わかっておりました。…兄様と同じ様に、この身が『人』ではない事を…」
銃弾に貫かれた胸からは命の紅が流れ続けている。アヤの唇が苦しそうな音が立てた。
「もう良い。もう…何も話さずとも…」
「いいえ…。聞いておいてほしい。『人』ではないとわかっても…我は『人』でいたかった。だから…『人』で在るふりをしたのでございます。『人』でなくなれば…。兄様を…許すことが叶わぬ様になりそうで…」
「…そなたも…覚えておったのか?」
「…覚えておりました。それでも…お慕いしておりたかったのです。兄様だけを…ずっと…。あの夜から…。我が人を愛したのは…。人の最期を見届け続けたのは…。全て己が『人』であるふりをする為の……。兄様だけを愛する為の……。嘘でございました。それも…今宵で終わりでございます。兄様が…我を『人』に戻してくださいました」
 銃傷から零れる鮮血が、唇から吹き出した血の塊が、白い喉許と胸を染めていく。
 細く薄い胸を彩る深紅。
 七百と七年の生を種に、五百と七年の嘘を水にして、月下に咲いた紅い罪の華。
 双の手で支える細い背をもう一度抱き締め、血に濡れた唇を求めた。
「兄様?」
「なんじゃ?」
「名を…呼んでくださりませ。昔の様に…彩、と」
「彩……」
「ありがとう…兄様…」
 華奢な腕が震えながら伸ばされる。
 小さな唇が最期の言葉を呟いた後、波と血に濡れた指先が頬を撫で、白砂へと落ち、軽い音を立てた。


 月が呪っている。
 波が嘲笑っている。
 戻る事ができた僕を。
 七百年に及ぶ生の中、唯一人、愛した妹を殺めた僕を。


 息絶え、熱を失っていく躰を抱いた儘。
 僕は天を仰ぎ、慟哭を放った。


 彩の亡骸は、浜の片隅へと葬った。
 墓碑はなく、傍らに百日紅の苗を植えた。
 まだ若木である為か、夏が来ても花は咲かない。
 僕は夏が来る度に夢を見る。
 大樹へと育った百日紅の下に彩が立っている。海へと吹く風に散る満開の白い花が、波間へと運ばれては散っていく。
 微笑を浮かべた彩の唇が動く。
 まるで、スローモーションの様にゆっくりと。
——お慕いしております。
 息絶える前に残された最期の言葉が繰り返し響く中、風に乗る白い花が一斉に紅に変わる。
 最期の夜、彩の胸に咲いた華と同じ深紅に。
 僕は待ち続ける。
 残された刻限の時迄。
 或いは、不死者の王から託された銃を、同じ過ちを犯した者へと託す時が来る迄。
 百日紅の若木もその頃までには花を付けるだろう。七百と七年の生と五百と七年の嘘の証の花びらは、愛した者の願いの白か。それとも、二人が刻んだ罪の紅か。
 銀色の銃を護りながら、夏が来る度に訪れる夢を見ながら。
 僕は海へと還る花を見届ける者となろう——。









© freedesignfile.com