エッセイ三題話作品: 海 花びら スローモーション)

ごく偶に  by 暁焰

 怖い話、不思議な話、面妖な話、奇々怪々な話。 
 恐怖譚、神霊譚、妖怪譚、幻想譚。
 どれも全て子供の頃から大好きで、自分でもそんな話ばかり書いている。


 ところが、僕自身はいわゆる「霊感が〜」という語る人の枠には一切入らない。自分では寧ろ、その手の事に関しては「『零』感人間」等と、話しているくらいである。
 一度、真夜中にベランダへ煙草を吸いに出た折、近くに立つ電柱の上に、白い服を着た女性の姿を見つけたことがある。驚いたものの、「仮にも僧籍にある者がこんな事でたじろいではいかん」と下腹に力を入れて、お経を唱えながら成仏を祈ること暫し——。何の変化も起こらないので、ベランダの端までできるだけ近づいて良く見てみたら、何の事はない。夜だったのと、眼鏡をかけていなかったのとで、電柱の上部に付いている変圧器がそんな風に見えていた、という間抜けぶりだ。
 「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」とは言うが、枯れ尾花ならともかく、「幽霊の正体見たり、変圧器」では下手な川柳にもならない。
 この件以外では、以前にも何処かで書いたが、真夜中に怪談を執筆している時に限って、電話が鳴る。どれだけ電話の近くにいて、受話器を取ろうとしても一度も取れない。普段はそんな事は起こらず、怪談を書いている時だけなので、はてさて、どなたか「物語に登場させろ」とご希望の方がかけてくるのだろうか、なんて事を想像する、という経験くらいしか思い当たらない。


 世間でいう心霊経験に関しては、まだ妻の方が経験している。
 交際を始める前、一人暮らしをしていた頃に「寝てて苦しくて目が覚めたら、おばあさんが胸の上に乗ってた」(本人は、幽霊ではなく泥棒だ、と思ったらしいが)とか、結婚後、街中を車で走ってていたら、突然「わっ」と驚くので、何かと聞けば、「今道歩いてた人、首に犬が巻き付いてた」なんて事を言い出したり。
 もっとも、妻も日常的にそんなものを見ている訳ではなく、ごく偶に、という程度。
妻以外に、話のタネを求めて「何か怖い経験、不思議な経験はないか?」と色んな方に御話を伺ってみても、この「ごく偶に」という頻度が、一般の皆様が怪異に遭遇する機会の大多数を占めている様に思える。
 「何か怖い経験を…」と質問すると、最初に返ってくる言葉は「うーん…。そう言われてもなあ…。思い当たらないなあ…」というものが一番多い。そこを更に突っ込んで「どんな事でもいいから」等と掘り下げてみると、「ああ、そう言えば…」と、御話を伺える。その「そう言えば…」の頻度が、大体「まあ、普通に生活してると『ごく偶に』そんなこともあるよね」という感覚が一番しっくり来るものに思えるのである。
 ただし、この感覚はあくまでアマチュア作家の「暁焔リサーチ」に寄る物。日常的に霊やら何やら妖しいモノを見る、感じると言う方も少数おられるし、その逆に、「そんなモノとは全くご縁がありません」と言い切られる方もおられる。様々な方に取材をしておられるであろうプロの作家さん達、特に最近流行している実話系怪談をものしている方々等は、僕とはまた違う感覚を持たれているのかも知れない。


 世間で怪異に遭遇する頻度がどの程度なのかは分からないが、日常的にその手の経験をされる方は、ご家族も皆そうだ、と言う方が多い。
「お母さんの方が良く見る」
「兄さんはもっとすごい怖い目にあっている」
  アマチュア作家である僕でも、こんな風に語る方には何度かお会いした事がある。してみると、どうやら、怪異を日常的に見たり、感じたりする能力(という表現が適切かどうかはわからないが)は、体質と同じ様に、遺伝するものなのかもしれない。
 では、僕が「『零』感人間」であるのは、親族が皆「『零』感」だからなのか、となるのだが…。
 おかしな事に、親族はそうでもないのである。父や母、祖父母に叔父は色々と妖しいモノを見たり、聞いたりしている。中でも、母方の祖父は先に記した「ごく偶に」に当てはまらない、様々な不思議に遭遇する人だったらしい。
 真夜中や明け方近くに突然起きだし、「ちょっと墓行ってくる」等と言い出す。
何をしに行くのか、と尋ねると「夢枕に、こないだ亡くなった誰それが出てきよった。『水が欲しい』言うとったで、行ってくるわ」等と返事をして出かけていく。
 家人が「怖くはないのか」と尋ねると
「生きとった時は知り合いやったもんを、死んだから言うてなんで怖がらんならんのや(怖がらなくてはならないのだ)。水欲しい、酒欲しい言うとんのやったら、やったらええ」
と、平然と答える。そんな事が何回もあったそうだ。


 僕の生まれ育った地域では「女の子は父親に、男の子は母親に似る」と言われている。祖父→母→僕の関係がまさにそれで、僕は母に顔立ちや体質(髪質や肌の色合い等)が良く似ている。で、その母は祖父と良く似ている為、結果、僕も祖父と似ている、という具合。
 容姿や体質が似ているなら、祖父の様に「様々な怪異」に遭遇する才も受けついでいればいいようなものを、どうやらそれだけは母にも僕にも受け継がれなかったらしい。 
 とはいえ、僕自身が「『零』感体質」であり、実際に霊やらお化けやらに出くわした事がないのをそれほど残念だとは思わない。
 これまで会って話を聞いた人の中で、「よく霊を見る」と言う方は、多分に怖い思いもしていらっしゃる様である。なので、祖父の持っていた才や体質が受け継がれなかった事は、怪談書きとしては少々残念ではあるもの、一人の人間としてはまあ、良かった、というのが正直な感想だ。


 ところが。
 先日、遂に才能(?)が遅咲きに花開いたのか。件の母方の祖父の話を彷彿とさせるような経験をしたので、今回はその御話を書いておきたい。


 僕の生家には、母の趣味で様々な花が植えられている。
 その中の一本にカラタチの木があり、初夏になると毎年白い花を咲かせる。
 十数年前、祖母が亡くなってから、そのカラタチの木に毎年揚羽蝶が来る様になった。 丁度、祖母の命日である五月の初旬に、である。
 人が近づいても逃げる事はなく、白い花びらに止まっては、それと見なければ分からない程の動きで、羽根を上下に震わせている。
 そんな揚羽を見る度に、母は「今年もおばあちゃんが帰って来た」と言う。
 亡き祖母の魂が蝶に変じて戻ってきている。母はそう考えているのだ。


 さて、この原稿を書いている数週間前の事である。
 夢枕に亡くなった祖母が立った。
「この前、こんなお菓子を貰った。食べてみたら美味しかったので、今度生家に来る時には買ってきてほしい」
 夢に現れた祖母はそんな事を言いながら、クッキーを差し出した。
 色は濃い茶色だったので、恐らくチョコレートクッキーなのだろう。
「わかった。次の週末は実家に帰るから、買っていくよ」
 そう答えた所で目が覚めた。


 これまで祖母が夢に出てきた事は殆どなかった。さて、不思議な夢を見た。ともあれ、週末、実家に戻る時には、お供えにクッキーを買っていこう、等と考えてから数日後の日曜日。
「今日実家行くんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、ほら。この前言ってたお供えに…。クッキー買っていかないと」
「ああ、そうだったね。じゃあ、行く前に…」
 朝、出かける準備をしながらそんな話をしていると、突然妻が驚いた顔をした。
 「見て!揚羽!」
 指差す窓の先には、実家のカラタチの木にやってくるのと同じ揚羽蝶が舞っていた。
 揚羽蝶くらい、どこでもいるだろう、と思われるかも知れない。
 けれど、拙宅である自宅マンションは、海へと歩いて数分の距離の場所にある。その為、初夏から秋にかけては海からの強い風が吹き付ける。恐らくその風を嫌うのだろう。飛ぶ虫は蚊ぐらいしか出てこない。
 同じ場所に住んで十年程になるが、揚羽はおろか、蝶を見た覚えがないのである。
 更に、僕と家内が暮らす部屋はマンションの高層階にあり、海風がなかったとしても、ベランダに虫が飛んでくるような高さではないのだ。
「このマンションの周りで、揚羽蝶見るのは初めてねえ」
「そうだなあ。こりゃ、やっぱりばあちゃんかなあ?」
 実家の母が、からたちの木に縁り付く揚羽を祖母の魂だと思っている事は、妻も知っている。
 「きっとそうでしょ。お供え、忘れずに買っていってね」
 先に家を出る妻を見送った後、僕はお昼前に実家へと向かった。
 行く途中、駅で買い求めたクッキーの詰め合わせを手渡し、こんなことがあって…と話した所、母もやっぱり「ああ、揚羽が来たなら、そりゃ、おばあちゃんだねえ」と笑っていた。


 生家の庭のカラタチに、祖母の死後から揚羽蝶が来る様になった。
 その揚羽の来る時期が祖母の命日の時期に重なる。
 僕が祖母の夢を見た。
 実家へと戻る日の朝に、揚羽蝶がマンションのベランダに現れた。 
 どれも偶然の事、で説明はつくし、実際、偶然なのだろう。
 それでも、こんな「ごく偶に」の偶然の重なりに、何か怪異や不思議の影を垣間見ようとする辺りにこそ、僕が妖しい話を好み、また自分でも書いてしまう由縁が象徴的に現れている様にも思う。
 もっとも——。いくら好きだ、と言っても、亡くなった祖父の様に日常的に「怪異に出会う」のはやはり遠慮しておきたい。
 でも、もしも、祖父に備わっていた怪異に出会う才が今から花開いてしまうのだとしたら?
 できれば、そのペースはゆっくりがいい。ゆっくり、ゆっくり。スローモーションの様な速さで、少しずつ。
 そう、丁度、庭のカラタチの花に止まった揚羽が羽を震わせるくらいの速さで。
 いきなりこれまでの「『零』感」から「霊感」になってしまうと、それはそれで、色々と困りそうだから。
 そんな自分勝手な御願いを胸に抱きつつ、僕はクッキーの詰め合わせが備えられた仏壇の前で、「ばあちゃん。母さんとこのじいちゃんにもおすそ分けしてやってな」と祈りながら、御念仏を唱えてきた次第である。