エッセイ(三題話作品: 海 花びら スローモーション)

パリに死したジャポネ  by Miruba

1855年5月、第1回パリ万博が、花々が一斉に咲き乱れるフランス・シャンゼリゼで開かれた。
‘52年に皇帝についたナポレオン3世が開催したこのフランスの一大イベントは、政治的にはクリミア戦争が始まっていたにもかかわらず、その4年前のイギリス万博に対抗し、フランス皇帝の力を示したかったものか、万博は強行されたのだった。


34カ国が参加して出展数は5万点に及び、すべての製品に値段がつけられたのも、賞を取った製品がブランド化されるようになったのも、公式にボルドーワインの格付けが決まったのも、この万博からといわれている。


516万人の来場者を集めたが、ロンドン万博を約88万人も下回り、総計830万フランの赤字に終わったという。


それでも万博を通じて、首都パリの政治や経済と共に、文化的優位性を国際社会に知らしめることが出来、ナポレオン三世の思惑通り、総体的には満足の出来るものであった。
それに気を良くしたか、1867年第2回パリ万博が開かれ、出品者数は6万、入場者数は906万人となり名実ともに大成功を収めた。 


日本が初めて参加した国際博覧会はこの第2回パリ万博である。
1867年、慶応3年、幕府は国内の藩に作品出展を呼びかけたが、大政奉還のあるこの年に政情不安からか、参加要請に応じたのは僅か2藩、薩摩藩と佐賀藩だけで、薩摩藩にいたっては幕府と線をかくし、まるで日本国を代表するかのごとき態度であったという。


佐賀藩も実は参加したくなかったのかもしれない。
藩内には輸出向けの物産は少なく、商売はほとんど輸入であった。
佐賀藩が長崎警備上必要とした巨額の海軍費、軍艦代の支払いは困難を極めていたという。


藩主鍋島直正は熟考の末、オランダのほかに、英米各国との取引をしようとした。
このとき、直正の期待以上の活躍をしたのが野中元右衛門と言う人物である。


野中元右衛門は1812年、野中家分家の久右衛門の長男として生まれ、本家の8代野中源兵衛安貞が幼かったために補佐役として家伝薬「鳥犀圓」(うさいえん)の製造販売に力をいれていたが、他にも、有田焼などの陶器や嬉野茶の販路拡張も計り、オランダや中国との貿易を長崎で行い成功させていた。


そのために、長崎警備上必要な大砲や銃を作る資金不足に困窮していた佐賀藩への財政支援などを行ったとされる。
加えて、野中元右衛門は文人としての才能もあったようで、鍋島直正公の側近で歌人の古川松根らとともに、「小車社」を創設、沢山の自筆の和歌も残している。


交流が深かったゆえに、後の日本赤十字を創設した佐野常民公らとともに、万博に行くように直正に説得されてしまう。
元来 体が弱く55歳になっていた野中元右衛門に、家族は猛反対をするが、
「君命を以って死するも尚辞するべからず、フランス国は仏国というから、かの地で仏とならば、極楽浄土も近からむ」
といいおき、船上の人となった。


明治維新直前の慶応3年3月8日に長崎港を出航、4月5日にシンガポール、4月10日にセイロン(現スリランカ)、4月29日にはカイロを経由し、さらに地中海を通り5月5日にフランスのマルセイユ港に到着した。
海に囲まれて育った元右衛門であったが、海と空を隔てる水平線が行けども行けども終わりがないと、その広さと、日本への思い、フランス国への希望などを「仏国航路記」として書き上げる。


だが、船旅が余程こたえたのだろう。5月12日、パリにて客死する。
パリの地を踏みながら、パリの景色はとうとう見ることが出来なかった。
当時のフランスの新聞にも、可哀想な日本人として野中元右衛門の記事が載ったのだという。


日本の家族の為に、野中元右衛門の遺髪と爪、鍋島直正公から拝領した刀そして日誌が残され、パリの東にあるペール・ラシェーズ墓地の5区に遺体は埋葬された。
まさに花香る5月のパリ。野中元右衛門の遺体の中には沢山の花が入れられ、端正な顔立ちだった野中元右衛門の顔は花びらに埋もれんばかりだったと言う。
言霊とはなんと言う神のいたずらであろう。
仏国は仏の国と書く、そこで仏となれば、極楽浄土が近いといったその言葉通り、浄土に旅立ってしまったのだった。


パリ万博ではジャポニズムがうまれたが、野中元右衛門の紹介した焼き物やお茶なども評判だったとされた。その後1873(明治6)年のウィーン万博に参加し、後に起立工商会社を設立して日本庭園や日本のものを販売することになった佐賀の茶商人松尾儀助が、嬉野茶を長崎で売り出してくれた大恩人である元右衛門の墓参りにパリへ寄ったところ、墓は無残なまでに壊され、草ぼうぼうの中にかすかな残骸があるだけだった。


それは1871年のパリ市民の蜂起により樹立した革命政府パリ・コミューンが瓦解する時、ペールラシェーズ墓地で大規模な戦いがあったためではないかと思われた。
そこで松尾儀助は恩人の墓を大理石で再建したのだという。


2015年6月28日
フランスパリのペール・ラシェーズ墓地において、野中元右衛門の慰霊祭が厳かな神前式で執り行われた。
今や97区画にもなったパリ1大きな墓地の中でも歴史を感じさせる第5区画目にある小さな墓地に、野中元右衛門の子孫、家伝薬「鳥犀圓」13代当主や、墓を建て直した松尾儀助の子孫もアメリカから渡仏参列した。


緑と花に囲まれて、雅楽の音色響く中、フランスで埋葬された初めての日本人野中元右衛門の波乱万丈の人生を思うとき、時の流れをスローモーションで見るように、ゆったりとした歴史の時空間を感じさせたのだった。


添えた菊の花びらが、パラパラと墓石に舞い、墓が美しく彩られた。




参考;
http://www.sueoka-saga.jp/saganmon/nonaka.html
http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1867.html
http://blogs.yahoo.co.jp/hsnm3373/40391726.html
野中鳥犀圓台3代当主野中源一郎挨拶より