夜21時頃、パリからクーシェット(寝台列車)でニースに向かう。
TGVで行けば5時間ちょっとだが、寝ている間に移動できる寝台列車が好きだった。
早朝に、ニースの駅に着く。タクシーに乗ってもいいのだが、夏の朝は気持ちがいいので、トランクを引っ張り海岸のアベニュー・デ・ザングレまで歩く。
まだ街灯がついている。
毎夏来ているので、田舎にたどり着いた気がしてしまう。
海の見渡せるアベニューまで来ると、もうすっかり明るい。
朝刊を広げたりして、ベンチでくつろぐ人の姿も見える。
ベンチで一休みする。
「madameマダム、今年も会いましたね」と声がした。
「Oh lala! Quelle surprise. あらら、驚き、ムッシューピノンお元気でしたか? フリーウェイも元気?」私は老紳士が連れている犬の頭をなでながら挨拶した。
フリーウェイというのは犬の名前で、奥様が好きだったテレビ番組『ハート&ハート』という探偵物語の主人公が飼っている犬の名前を付けたのだという。
そういえばアメリカABCで放送されたロバート・ワグナー、ステファニー・パワーズ主演のその番組は日本でも放映されていたので私も見ていた。同じ話題はムッシューピノンと私を一気に近づけた。
その4年前、同じように朝方海辺のベンチに座っていた私に声をかけてきたのが、ムッシューピノンだったのだ。ニースでは有名な5つ星のホテルネグレスコに毎年夏の間2か月滞在するというお金持ちの老紳士だった。
奥様とも、長年避寒避暑地として、ニースに長期滞在していたらしいのだが、そのさらに半年程前に奥様は病気で他界していた。
私と出会ったときは、奥様の大事にしていた愛犬を連れて、想い出のニースに来ていたのだった。
私に声をかけたのも、人恋しかったのかもしれなかった。
「フリーウェイはもうすっかり慣れましたか?」
「ええ、女房がいないので、仕方なく私の言う事を聞いているようですがね。犬嫌いの私も、仕方がないので面倒を見ていますが、最近ようやく、こいつの行動がなんとなくわかるようになりました。苦労しましたけれどね。今では最愛なるものを無くした<同志>ですよ」
と言ってウインクする。
ムッシューピノンは元来動物が苦手で、犬に触ったこともなかったという。
奥様がどうしても飼いたいと懇願するので犬を買ってきたときは、近くに寄らせないことと言う条件を付けたほど徹底していた。
側に犬が寄ってくると時には足蹴にして近づかせなかったらしい。
フリーウェイの方も、ムッシューピノンを飼い主だとは思っておらず、家に帰ると、狂ったように吠えるのでお互い嫌いだったらしい。
それでも、奥様が亡くなる間際に「あなた、フリーウェイのことくれぐれもお願いね」と頼まれたので、仕方がなく飼い続けているのだと初めて知り合った頃は困っているようだった。
フリーウェイも飼い主である愛する奥様が亡くなると、暫くは散歩も食事もしなかったが、家中どこを探しても奥様はもういないとあきらめたのか、ある日、ムッシューピノンのところに、散歩用のリードを口にくわえ持ってきて、_散歩してくれないかな、行く気があるなら付き合ってやってもいいけど_と言う目を向けたという。
「マダム、朝食はまだなのでしょう? そこのカフェで、コーヒー飲みましょう」
最初に知り合った4年前の朝も誘われたのだが、その時はどんな人かもわからなかったし、それでもどこか寂しそうだったので、偶然バゲットをパン屋さんで買ってあったこともあり、セルフサービスの店でコーヒーだけ買い、ベンチで一緒に海を眺めながらパンとコーヒーで朝食の時を一緒に過ごしたのだった。「日本の海の色はどんな色ですか?」と尋ねられたことが懐かしい。
だが、今回はカフェに付き合うことにする。
オープンカフェにすわり、ムッシューピノンと私は、近況を話しながら再会を楽しんだ。
フリーウェイはテーブルの下におとなしく寝そべる。
ムッシューピノンは、フリーウェイにいつものように角砂糖をひとつあげる。
フランス人は、ヴァカンス先を決めると毎年同じところに行ったりするので、観光客同志、再会することはよくある。
たまにはこうして、お茶を飲んだりもするのだ。
それからも滞在中はアベニュー・デ・ザングレを散歩中、ムッシュピノンとフリーウェイを見かけると一緒にティータイムを楽しんだ。
2週間をニースで過ごしパリに戻る日を2,3日後に控えて、ムッシューピノンとお茶を飲み、「また縁があったら来年会いましょうね」と別れて歩き出してすぐだった。
後ろの方でキキーッという車のブレーキの大きな音がしたので、私はあわててもどった。
ムッシューピノンに何かあったのではと、ピンときたからだった。
ホテルネグレスコ前の道路を横断しようとして、駐車場から不意に出てきた車に、ムッシューピノンが轢かれそうになり、それを助けようとフリーウェイがリードを思い切り引っ張ったようだった。
「大丈夫ですか? ムッシュ!!」
私が慌てて側によると、転んだムッシューピノンが、「ありがとう」と言いながら、私の手に摑まって立ち上がり
「なんて乱暴な運転をするんだ! おまけに人が転んだのに、停まりもしないで逃げて行った。全く腹立たしい」
と憤慨している。
「さ、行くぞフリーウェイ」
だがフリーウェイはムッシューピノンを助けようとしたときに車に接触したものか、或いは強く引っ張られたリードで首をおかしくしたのか、よたよたと歩くのだ。
「どうした、フリーウェイ! こりゃいかん」
ムッシューピノンが、私に「よかったら来てほしい」と頼むので、一緒に滞在先のホテルネグレスコへいった。
コンシェルジュリーに話をして獣医を紹介してもらう。往診をしてくれるという。
部屋に入るか入らないうちに獣医がやってきた。
だが、大した外傷は見当たらないのに、吐いてぐったりした様子から、打ち所が悪かったのだろうという事だった。
注射を打ってくれて、レントゲンを撮るから、1時間後に診療所に来なさいと言って獣医が帰ったあと、フリーウェイの容態が急変した。
「息をしていないわ」タオルなどで体を温めていた私が言うと、ムッシューピノンは、ジンを持ってきてフリーウェイの鼻に近づける。
それでは足りなくて、少し指にジンを付けて、フリーウェイの鼻に付けてやった。
「フリーウェイしっかりしろ! ほら、お前の好きなジンだぞ!」
フリーウェイはかすかに目を開け、クーンとないてムッシューを見たが、それまでだった。
「フリーウェイ、死ぬんじゃない! 私を一人にする気か? 頼む・・・死なないでくれ!」
老紳士はフリーウェイを抱きながら何度も叫び揺すっている。
だが、フリーウェイの目はもう二度と開かなかった。
ムッシューピノンは、同志だった愛犬フリーウェイを抱いていつまでも泣いていた。
背中が悲しさで震えていた。
私はムッシューピノンの背中をさすり、一緒に涙を流してあげることしかできなかった。
最初のころは手放したがっていた奥様の残した「飼い犬」。
それが奥様というお互いに必要としていた愛する人を失った<同志>となるのに長い時間がかかった分、思いは強かったろうと、思った。
フリーウェイはニースの墓地の端に埋められた。13才だったという。人間なら70歳以上だろうか。
その後子供たちと何度もニースには行ったが、それきり、ムッシューピノンはアベニューデザングレには現れなかった。
できたら
新しいフリーウェイとヴァカンスをどこかで過ごしていてくれないかな、と願う。
▶︎【ビールベース】
見た目はビールですが、ジンの香りが引き立ちます。ビールを使ったカクテルの中では度数が強いほう。ドライジンの香りとビールの苦さが一体となって刺激的な口当たりとなり、ビールでは物足りないというときにぴったりです。どちらかと言うと男性的なカクテルと言えるでしょう。
飼い犬にビールを飲まそうとしたが、全く飲まなかったのでジンを足してみた。すると、犬はグラスから鼻を離そうとしなかったというのが、このカクテルの由来です。
▶︎レシピ
ドライジン・・・・・45ml
ビール・・・・・・・適量
グラスにドライジンを注ぎ、よく冷やしたビールをそそぐ。