芳明は高校3年の夏に父を交通事故で亡くした。
病気がちの母と私立中に通う妹の事もあり、高校を中退しようかとも思ったが高校だけは出てほしいと母に説得され、学費を稼ぐ為に学校には内緒で夜アルバイトを始めた。
駅前にあるビルの最上階にあるピアノバーだった。
ステーキなど食事も出すビストロ風だったので、高校生の芳明は厨房の手伝いと皿洗いやホールの掃除をした。
昼勉強、夜仕事の忙しい生活にも若さゆえ直ぐに慣れ、高校を卒業した後もそのままアルバイトを続けていた。
と言うのも、当時は就職難で就職先がなかなか決まらなかったのだ。
いつしか二十歳を過ぎ芳明はカウンターに立つようになっていた。
最初は水割りを作りレモンを切るくらいだったが、そのうちカクテルも作らされるようになった。
就職が決まれば直ぐにも辞めるつもりのアルバイトだったので正直仕方なくやっていたが、お給料がいいので続けていただけで、就職の決まらない世間に失望もしていた。
ある日女性の客が、芳明にカクテルを作ってくれと言った。
一人で来る女性は珍しかったし、若くて綺麗な人だったので、芳明はベテランのふりをしたかった。
まだシェーカーを振るのは不安があったので、習ったばかりのソルティードックを出す。
口に含んだ瞬間、その女性は「ぶっ」と吐き出しそうになった。
ナフキンを口に当てながら、
「なに? このソルトは、つけ過ぎじゃないの。しょっぱくて飲めないわ!
せっかく気分良く飲もうと思ったのに、もう帰る」そう言葉を吐き捨てると、さっさと帰ってしまった。
芳明は恥ずかしさで身の置き所が無かった。
支配人に叱られるかと思ったが、むしろ優しく「あんな客もたまには居るさ、気にするな」
と慰められて、ほっとしたのだった。
しかし次の日もその女性が現れ、芳明の前に座って「ソルティードック作って」と言うのだ。
「他の者に頼みます」と断ると「あなたが作ってよ」との返事。
支配人を見ると、_大丈夫だからやれ_と目配せをするし、仕方なくまた作った。
「これじゃつけすぎよ。何度言ったら判るの?」と文句を言う。
_何度言ったらって、2回目じゃないか_と芳明は心の中で反発したが、もちろん声には出さなかった。
その後もその女性は週に2回はやって来て嫌がらせのように、ソルティードッグを芳明に作らせた。
大して話もせず、一杯を口にするかしないで店を出るのだ。
同僚達も「美人だけれど変な人だね。お前、なんか嫌がらせ受けるようなことしたんじゃないのか?」
などと言い出す始末だ。
2ヶ月も過ぎた頃、ようやく何も言わずにソルティードックを飲み干すと、次はマティニーを作ってと言い出した。
芳明はシェーカーにまだ慣れていなかったが、出来ないと言うのは悔しいので何とか作る。
「話にならないわ」と一口つけて出て行く。芳明は怒りで震えた。
同じように一ヶ月もすると次はダイキリ次はマルガリータと、続いたのだった。
_絶対「美味しい」と言わせてやる_芳明はいまや意地になっていた。
いつの間にか就職の話は立ち消え、昼間は近所のスーパーでアルバイトをして、バーテンダーが本職のようになった。
その日いつも支えて可愛がってくれていた支配人が突然倒れて帰らぬ人となった。
まだ40歳の若さだった。
心臓に持病を持っていたのだと聞いた。
高校生のときからすでに5年、支配人を兄のように慕っていた芳明は、心が折れそうなほど辛かったがお葬式に同僚達と参列した。
お棺の中の支配人は寝ているようだった。
厳しいが優しくもあった。笑顔を思い出して涙が止まらない。
「支配人! 何で死んじゃったんですか?」嗚咽で声が震えた。
やっとの思いで棺から離れ、並んだ親族の席に向かってお辞儀をしてふと見上げたら、あのカクテルの女性が白いハンカチで目を抑えながら、そこにいたのだ。
_ええ?!何故ここに?_驚く芳明に、
「主人が本当にお世話になりました」と頭を下げたのだった。
後で聞いた話だが、支配人は芳明の就職が決まらず、かといってバーテンダーもアルバイトで身が入らず、なにか自信をつけさせたい、と考えて別のピアノバーに勤めている奥さんに飲みに来てくれるように頼んだとのことだった。
奥さんが同業者であることは、経営者以外、同僚は誰も知らなかったのだ。
支配人の自分への思いを知り、さらに悲しさが増した芳明だった。
49日が過ぎ、葬儀のときのお礼に来た奥さんは、芳明の前のカウンター席に座った。
「私もバーテンダーなのよ。騙した様でごめんなさいね。でも主人はあなたが可愛かったのよ。昨年地区のカクテルコンペで私優勝したのよ。主人もとても喜んでくれていたの。彼はあなたも優秀なバーテンダーになれるといいな、って言ってたわ。もし良かったらあなたもコンペに挑戦してみない?」
「いや、オレなんかまだまだダメですよ」
カクテルを奥さんの前に置きながら、恥ずかしそうに下を向いた。
「そんなこと無いわ。このソルティードック、とても美味しいわ」
芳明は、自分を育ててくれたことになる支配人の奥さんにやっと褒めてもらい、初めて彼女の目をしっかり見た。
そして、心からの笑顔を見せたのだった。