Mirubaの カクテル小説 辞典

 

屈託からの別れ by Miruba
[GIMLET]

咳が止まらなかった。
一週間や10日なら気にもしないが、1ヶ月以上経っても収まらないのだ。
フランスでは近所のジェネラリスト(内科医)に予約しても早くて2週間先にしか予約が取れない。
レントゲンをとっても問題が無いと言われ、結局薬を変えるだけだった。
 
気分転換に郊外へ行くことにした。
南西に向かう。高速を30分も行くとすっかり田舎の風景だ。
 
途中でまた咳き込んできた。
胸が苦しいので高速をおり、カフェに入ってミルクティーを飲む。
咳が止まらない。
カフェのオーナーが親切に声を掛けてくれた。
「隣のドクターに見てもらえば?」
 
「でも、予約していないと診察してくれないでしょう?」と咳であえぎながら言うと、
「隣のドクターピナールはいつだって見てくれるよ、変わり者だけれどね」とウインクする。
 
 
フランスの診療室と言うのは大抵普通のアパートの一室だ。キャビネという。
日本のように○○病院、などという大きな看板のかかった独立した建物は県立や市立の病院でオピタルと呼ばれ、色々な専門の先生が居る入院が可能な中型の私立病院はクリニックという。
 
オピタルやクリニックに勤めている先生も、それぞれ個人的な診療室をもっていることが多く、午前中だけ、午後だけ、水・木曜日は休みとか調整しながら開業しているようだ。
アパート玄関横の柱にDrの名前と住所や専門分野の名称が書かれた真鍮の看板がかかっている。
目立たない字で彫られているのでうっかりすると見過ごしてしまう。
 
 
カフェのオーナーが「隣のマルセルだよ。急患だよ先生。お客さんなんだ、診てやってよ」とインターフォンで話をしてくれている。
「D'accord いいよ」あっさりとした返事。
ドクターの部屋は3階の2号室だった。私はカフェのオーナーに礼を言って、3階まで上がった。
 
扉を開けてくれたのは先生自身だった。
私の前の患者さんが先生と握手をして出て行くのと入れ違いだ。
通常はセクレタリーといって予約受付や患者さんを待合室に案内する女性が居るものだが、休みなのかもう昼食で出てしまったのだろうか。
 
「Bonjour、madame」と先生が握手を求める。私も手を差し出して「ボンジュールドクター」と挨拶をした。
 
ドクターはベージュのシャツとコーデュロイのベージュのズボンで、白衣は着ていない。
眼鏡奥の茶色の目は静かでむしろ冷ややかな感じだが、口調は優しく響いた。
ハリウッディアンというのか手入れされた髯が目につく。
7・3に分けた白髪交じりの髪をディップで後ろになで上げた感じで清潔感がある。
 
「Qu'aviez-vous ? どうしました?」
カフェでは止まらないほどの咳が、先ほどからなんだか収まっている。
肝心なときに咳が出ないので、急患と言って来た手前格好がつかなかったが、私は一ヶ月前からの咳の説明をした。
 
「なるほどそれは困りましたね」となんと日本語が返ってきたのだ。
カルテに私の名前を書き込んでいたからわかったのだろうが、それなら直ぐに日本語で聞いてくれたらよかったのに。
私のビギナー過ぎてバリバリ日本語訛りのフランス語での説明を聞いているなんて人が悪い。
 
日本語お上手ですね、と世辞をいうと。
「私は日本人ですよ」との答え。
フランス人の奥さんと結婚して奥さんの苗字を使っているのだと言う。
それにしてはフランス語が完璧だと思ったら、父親の仕事の関係で10歳までフランスに住んでいたとのことだった。
長いこと住んでいると、その土地の人の風貌になってしまうものか、フランス人といわれても違和感が無かった。
 
「日本人の先生が居るのなら日本人会が頼りにすると思うけれど、アノンスしないのですか?」と私。
 
「いや、ここでも十分忙しいし・・・」
 
ドクターは言葉を濁したが、カルテを書きながら静かな声で続けた。
 
オピタルで研修していた若いころ日本人の子供を助けてあげられなかったことが心のどこかに引っかかっているようだった。
それも診断が遅れたのは言葉の行き違いだったという。母親はドクターが日本人なので説明せずともわかると思い込んでいたし、ドクターも自分が日本語を勘違いしていることに気がつかなかった。
 
別れ際にドクターは、「久しぶりの日本語でついおしゃべりになった、忘れてください。」と苦笑いをした。
「そうそう、帰りに先ほどのマルセルのカフェによって、ギムレットでも飲んでおいきなさい。ジンは薬用だから」
そのはにかんだような目は優しさに満ちていた。
 
半年後だったか郊外まで教会を見に行くついでに、高速を途中下車してドクターに挨拶に行こうと思った。
だが、キャビネには別のドクターがいた。
隣のカフェに顔を出したら、マスターのマルセルが言った。
 
「ドクターピナールは突然辞めてしまったんだよ。いい先生だったのに。変わり者だったけれどね」と、ウインクをした。
 
奥さんのピナール夫人が日本に居る子供のところに行きたがっているといっていたから、きっと日本に帰ったのだな、と思った。
そういえば、ドクターの診察の後、咳は魔法のように止まった。ドクターが咳に利くツボを押してくれたからか、薬がよかったのか、ちょうど治る頃だったのか、それとも日本語で病状を詳しく説明できたことが私自身を安心させたからなのか、それとも全部の効用だったのかはわからなかったけれど。
 
私はマルセルに声を掛けた。
「ね、ギムレット頂戴」
 

 

ギムレット [Gimlet]
 


▶【ジンベース】
英国軍医ギムレット医師が海軍将校のジンの飲み過ぎを憂慮し、健康維持のために考えたカクテル。
レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説【長いお別れ】の中に、主人公の探偵フィリップ・マーロウの友人が「ギムレットには早すぎる」と言う印象的なシーンがある。この台詞を読んでギムレットを好むようになった人も多かったという。二人の友情を示すこのセリフ、どんな意味かはスートーリに深く関わっているので、是非、各自小説で確認のこと。
 
▶レシピ
ドライジン・・・・・45ml
ライムジュース・・・15ml
 
材料をシェークして、カクテルグラスに注ぐ。
生のライムを搾る場合、ガムシロップを足す。
 
コーディアルライムという強い甘味を加えたライムジュースを使用し、ジンと半々にするレシピもある。
シェイクせず、氷を入れたグラスに同じ材料を注ぐと、「ジン・ライム」という別のカクテルとなる。