庭で家庭菜園の手入れをしている父に手を上げ、声に出さない挨拶をして紀之は自宅を出る。
季節が変わろうとしているのを空気に感じる。
長雨の後のカラッとした晴天で気分が良く、一時間近くも早目に家を出た。
紀之は、ふと毎朝通う路を変えてみる気になった。
意味は無い。
ちょっと新鮮な景色に触れてみたかっただけだ。
家から駅に向かう路の種類は多くは無い。
いつもは私道から路地を行き駅までの大通りを行くのだが、
裏道から高校のほうへ歩いた後、その高校から駅に向かう別の路を行くことにした。
少し距離は長くなるがせいぜい15分から20分くらいの誤差があるだけだろう。
地元と言えど縁がないと行き来しないもので、紀之にとっては一昔も二昔も前の懐かしい通りとなっていた。
路両脇の家々がすっかり変わっていて所々ビルなどになっていて面食らってしまう。
だが通った高校は昔のままだった。
門の前をゆっくり過ぎながらちょっぴり感慨にふけっていた紀之の目の前をさっと自転車に乗った人が行きすぎた。
え?
向かいの通りだったし、あっという間に過ぎていったから見間違いだったかもしれないが、佳子ではなかったか。
制服姿の佳子が自転車で学校の前を走っているのをセピア色で見た気がした。
デジャヴュともいえる瞬間に、紀之はなんとなく胸がざわついた。
佳子とは高校3年間が一緒だった。高校一年の1学期後半に編入してきた佳子は溌剌とした可愛い子で、あっと言う間に人気者になった。普通男子にもてる女の子は女子の妬みの標的になり易いものだが、佳子は女子にも人気があった。
頭がよく誰にも優しかったからだ。人の嫌がる事も率先して行動を起しそのくせ恩着せがましく無く、_なんでもないよ_と涼しい顔をする。そんな爽やかな感じが女子のシンパシーを感じさせたのかもしれない。
その佳子が、引っ込み思案でひょろりとした紀之の何が気に入ったのかいつもそばに居たがった。
2年で別のクラスになっても、給食の時間は紀之の前に座り「一緒に食べよう」とやってくる。
男子が冷やかすと笑顔で「いいの、紀之君と佳子は親友なの」と返すのでそのうちみんなの公認になってしまった。
紀之は恥ずかしさと嬉しさで舞い上がってしまって何もいえないでいた。
3年の夏休みに佳子の知り合いのお姉さんが経営すると言うスナック喫茶でデートを重ねるようになっていた。
佳子への連絡は家がうるさいのでと言うことでいつもこのお姉さんのところにしていたので、紀之もすっかり親しくなっていた。
その日お姉さんがたまたま注文を受けて作ったラスティー・ネールというカクテルをアイスティーと間違えてうっかり飲んでしまったのだ。
直ぐに違うと思ったが、甘いし、のどが渇いていたので一気に飲んでしまったのが災いし、紀之は倒れ込んでしまった。
お姉さんが水を沢山飲ませてくれ大した事にはならなかった。
とはいえ、病院には連れて行かれたので、学校には知られなかったが、親には知られてしまった。
散々叱られて、なんとなく佳子とも気まずくなり、卒業後同じ大学に行こうよと約束していた事も立ち消えて、
佳子は卒業後どこかに越してしまったのか連絡もつかなくなったのだった。
その後、紀之が結婚に失敗して実家に戻ってきたある日、今は亡き母が打ち明けてくれた事実を聞いて驚いた。
佳子は妹と共に、養護施設に預けられていたのだという。
中学卒業と同時に施設を出なくてはいけないのだが、学業の成績が良かったので施設の手伝いをするという条件で高校まで通えたのだ。
卒業後妹を引き取り自立する為に働くことになっていた。
そこで紀之の母が大学に行く息子と付き合いはやめてほしいと頼んだと言うのだった。
「ごめんなさいね。佳子さんはいい子だったよね。私が余計なことを言ったばかりに」
紀之は母を非難する気にはなれなかった。
自分が3年もの間、世の中で一番好きだったはずの佳子のなにをも知らなかったことに愕然としたし、また佳子が何も打ち明けてくれなかったことに、裏切られた思いがしてむしろ腹立たしさを感じたのだ。
なにより酔っ払い事件の後、避けられている気がして、引っ込み思案の紀之自身が、積極的に行動しなかったから、二人の別れが来たともいえるのだ。
次の日も紀之は早めに家を出た。
どうしても確かめずにはいられなかった。
高校の門の前でさりげなく待つ。
やはり佳子だ。
紀之は確信した。
通りを横切ったところで、相手も気がついた。
一瞬戸惑いを見せたが、あの昔懐かしい笑顔で「あら、紀之さん、おはようございます!」と元気な声だ。
「いまだにこの道を自転車で通っているんだね」と紀之が言うと、
「ええ、6年ほど前からこっちの施設に手伝いで戻っているので、通学ではなくて今度は自転車<通勤>です」
「6年も前から・・そう。家に寄ってくれればよかったのに」
なんとなく皮肉に聞こえたかなと思った紀之はあわてて、
「昔と変わらない元気そうな君を見かけて、つい声を掛けてしまった。邪魔したね」
じゃぁ、と手を振って去ろうとしたら、背後から声が追っかけてきた。
「あの、私、明日もこの道を通ります」
紀之は立ち止まり、ゆっくり振り向く。
秋風が揺れ、朝の日差しが少しだけ眩しく感じた。