雨が降っている。
朝から霧雨で午後3時過ぎの今でもまだ止まないのだ。
峠に差し掛かったら靄って視界が悪くなってきた。
「危ないかな」
美咲は車のスピードを緩めた。
ライトをつける。
「引き返して街中を通ろうかな」
狭い路でUターンをしようとして、影が突然迫った。
「あっ!」
ぶつかりそうになったがかろうじてその白い影が避けてくれた。
美咲は急いで車を降りて謝った。
「すみません! 大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
背は高いがランドセルを背負った6年生くらいの女の子だった。
白っぽいビニール合羽のフードを持ち上げて美咲を見た。
「よかった〜。本当にごめんなさい、靄で良く見えなかったのよ。学校の帰りなの?よかったら送るわ」
「でも、いいです。別にぶつかってないし」
「遠慮しないで、この視界じゃ、危ないわよ」と
美咲は自分がよほども危ない目に遭わせそうになったことはそっちにおいて「送らせて」と重ねて言った。
女の子の名は理恵ちゃんといった。
理恵ちゃんの家はそこからまだ30分は歩くという。
両親は共働きで夜にならないと帰ってこないらしい。
美咲は車で5分のところにある自宅に理恵ちゃんを誘うことにした。
「へ〜ここはおばちゃんの家だったんですか」
通学路にある美咲の家の前をいつも通りながら、玄関の横にある小さな庭に色々な花がいつも咲いていて綺麗だと思っていた、と褒めてくれる。
濡れたカバンや合羽を拭いて乾かす。
春の雨ですっかり体が冷えただろうと、ココアを入れた。
「おいしい」
理恵ちゃんは本当に美味しそうに飲んでいる。
その顔を見ているだけで美咲は心が和んだ。
「おばちゃんはひとりなの?」
あまり飾り付けの好きではない美咲の部屋が、さっぱりしすぎてヒンヤリと感じたのだろうか。
「え、まぁ、そんなものよ」
本当は子供がひとりいるのだが理恵ちゃんと同じくらいのとき、離婚した夫に子供を取り上げられてしまったのだ。
とっくに成人して外国に住んでいると聞いているが、連絡が来たことはなかった。
ひとしきりおしゃべりをして、理恵ちゃんを自宅まで送ったのだった。
次の日、思いがけず理恵ちゃんが学校の帰りに寄ってくれた。
「昨日のお礼です。朝探してきたの」
差し出した手には、布製の袋に小さく無骨な貝殻がいくつか入っている。
「ありがとう」
美咲は胸があつくなった。
お礼に何がいいだろうと頭を悩ませて、朝早く起きて美咲のために海岸で貝殻を拾い集めてきてくれたのだろう。
なんでもない小さな貝殻たちが宝石のように見えた。
「ほら、理恵も同じもの持ってるよ。おばちゃんとおそろい」
同じ袋に入った貝殻を美咲に見せる。
「ね、ジュース飲んでいってよ。シンデレラって言う名前のジュース作ってあげるから」
美咲は理恵ちゃんの腕を取らんばかりに部屋に迎え入れた。
それから、時々美咲の家には可愛い訪問があった。
美咲は理恵ちゃんが寄ったときのためにお菓子やジュースを買い置きするようになる。
理恵ちゃんは来る度に絵を描いたり、折り紙の鶴などを手土産に持って来てくれる。
なんと優しい子に育っているのだろうかと、美咲は感心するのだった。
自分の子はどんな大人になっているのだろう。
美咲はもっともっと自分で育てたかったと、簡単に親権を夫に渡してしまった後悔にさいなまれるのだった。
仲良く楽しく過ごした時間。
いくつものお土産が飾り棚に増えてきた頃、理恵ちゃんはある日突然引越しをしていった。
3週間も姿を見せないので、理恵ちゃんの住んでいたアパートに行ってみたら、表札が変わっていた。
美咲は、なんだかとても寂しくて、涙がこぼれそうになった。
「また、1人になっちゃった」美咲はつぶやいた。
今日も霧雨が降っている。
海と山が近いここらあたりは暖かい空気が冷たい海水に当たるとき丘のほうへ下から上へ霧が登るように流れ込んでいく。
靄がでて、視界が突然真っ白になり危険だ。
急いで家に戻った。
玄関を入ったとたん、チャイムを鳴らす音がした。
「宅配かしら」
判子を片手に玄関を開けた。
スーツ姿の男性と白いレインコートを着た女性とが立っていた。
「あらやだ、宅配かと思っちゃったわ。あはは、どなた?」
「・・・母さん、僕だよ・・」
美咲は息が止まりそうだった。言葉が出てこない。
母親らしいことは何も出来ず非難されても仕方が無いのに。
すっかり大人になった息子の穏やかな笑顔がまぶしい。
息子の住む外国で知り合ったのだという隣の女性が美咲をさらに驚かせた。
その女性は見覚えのある笑顔を見せながら手を差し出した。
手には袋に入った貝殻があった。
「おばちゃん、シンデレラのジュース飲ませてくださいませんか?」
息子が去っていったのが25年前、理恵ちゃんが突然いなくなってからすでに8年が過ぎていた。
美咲は、嬉しさを通り越し魔法にかかった気がした。
急いで部屋にとって返し、あの貝殻の袋を引き出しから取り出した。
ずっと大切にしまってあったのだ。
「理恵ちゃん、ほら、おそろい」
美咲は、二人に微笑みかけた。
とめどなく流れる涙を拭こうともせずに。
すべてのジュースを同量でステアし、カクテルグラスに注ぎます。シェークしても洒落ています。