趣味の教室に通うのは2週間に1回だが、車で行くと駐車場を探すのが面倒な場所にあった。
幸いなことに教室はバス停の近くなので、片道1時間のバス通いをしていた。
車なら40分で着くのだが、仕方がない。
ただ自宅が田舎でもありバスの最終時間はお子様タイムの午後8時半なのだ。
毎回教室が終わるとバスに飛び乗るようにして帰宅していた。
ある日そのバスに乗り遅れてしまった。
タクシーなど使ったら万単位だ。
私は駅前の格安ビジネスホテルを予約して、朝一番のバスで帰宅することにした。
次の朝家に帰って支度しても出社時間には十分、間に合う。
さて、バスに乗り遅れたとはいえまだおとなの時間が始まったばかりの午後9時。
夕飯を兼ねて街中をブラブラと散策する余裕が出来た。
このところずっと仕事が忙しかったのでたまにはのんびりするのもいいかもしれない。
バス停の前に居酒屋の多く入る雑居ビルがあった。
何度かサークルの友人たちと食事会をしたことがあるので、その中のひとつの店で食事をしようと思った。
エレベーターで居酒屋のある2階に行く。
開いたエレベーターの扉の前に、店から出てきたのかこれから入るのか若い人たちがどっさりと立って居た。
エレベータの中の私を一斉に見る視線にたじろいでしまい、
一人で賑やかな居酒屋に入るのもためらわれ、つい上の階のボタンと「閉じる」のボタンを押してしまった。
3階は保険会社のようで、_本日の営業終わりました_という看板がエレベーターの前に置いてあった。
4階に行ってみる。
数件の店の名前が表示してあったからだ。
2階の喧騒とは打って変わって静寂ともいえる薄暗いフロアーに別な意味でたじろいたが、物は試しとエレベーターを降りてみる。
美味しそうな料理の画像が張られた看板の数店舗を見たが日曜日のその日は閉まっていた。
どうやら近所のサラリーマンやサラリーウーマン相手の店らしい。
その中で1軒だけBARが開いていた。
早すぎるのか、カップルが2組テーブル席にいるだけだった。
このフロアー全体が会社員対象なのだとしたら日曜日は普段からガラガラかもしれない。
カウンター向こうから「いらっしゃいませ」とバリトンの渋い声が聞こえた。
静かにジャズの曲が流れている。
テーブル席の向こうに大きなガラス窓があって、大通りのカーブを行き来するヘッドライトとテールライトがビルの谷間に見える。
カップルたちは夜景を眺めるよう設置されたラブチェアーに並んで座っていて、顔を寄せんばかりに小声で話している。
「静かで素敵なお店ですね」とカウンターの20席ほどあるゆったりしたソファーに腰かけながら言った。
「ありがとうございます、土地の人もあまり知らない店なんですよ」
ハリウッディアン髭の粋なマスターが謙遜気味に答える。
空いていたお腹は充実したチーズプレートとオリーブのつまみで満たし、2杯目のギムレットを味わいながら飲んでいた。
そこに常連らしい男性が入ってきた。
見慣れない私が居たので一瞬興味を持ったようだったが、知らないそぶりをする。
それでも20席はあるカウンター席の4、5席置いた近い場所に陣取る。
もっともそこが定席なのかもしれないが。
暫くすると椅子にそっくり返って自慢話が始まった。
マスターはもう何度も聞かされたであろうその話に当たり障りなく相槌を打ちながら「いつものお酒」を作っている。
常連さんらしい彼はマスターに話しかけながら明らかに私にも聞かせている雰囲気。
笑い話を混ぜ、なかなかの話し上手ではあったので、私もつい_ふっ_と笑ったのが余計な誘い水となった。
調子に乗った彼は益々そっくり返ったり、またカウンターへ身を乗り出しそうにしたりと、
自分がどんなに良い仕事をしているか、有名人との付き合いがあるかをマスターに、そして間接的に私に語る。
「ま、すごいね。エライエライ、あんたは偉い!」と合いの手を入れて差し上げたいが、それほど親しくはないので、黙って目の前の美味しいカクテルを飲み干した。
しかし私は先ほどから常連の彼の饒舌よりも社会の窓のほうが気になっていた。
そっくりかえったり前のめりになったりするたびにパカパカと閉じたり開いているから余計に気になる。
マスターも何気なく気が付いているよう。
ただ、彼の話が終わらないので声をかけられないでいるのかもしれない。
そろそろ退散時期だと思い「すみませんお会計をお願いします」というと、常連の彼がマスターにおっしゃった「あちらのご婦人に何か差し上げてくれないか」
私は断ったが「いいや是非に」と何度もおっしゃる。
マスターも困った様子を見せたが、
「お客様、あちらが引き下がりそうにないです、よかったら一杯召し上がってあげてください」と目がそう言っている・・・気がする。
若くもない女の頑なさは洒落にならない。
「では一杯だけ、ごちそうになります」と、またソファーに掛けなおす。
「ええ、是非ご馳走させてください。よかった」と常連の彼は満足げだ。
マスターもホッとした顔をして「何になさいますか?」と私に聞いた。
「そうですね」
私はちょっと考えて言った。
「・・では、エクスワイジーをお願いします」
マスターは「はい、かしこまりました」と笑いをこらえているのを悟られないよう渋い顔をしてギュッと口を結んだ。
「エクスワイジーですか? どのようなカクテルなのかな?」とご馳走してくださる彼が問うので、
「<これが最後のカクテル>とか<究極のカクテル>という意味のようですよ」と答えた。
実は、<あなたの社会の窓調べてね>という意味もある、とは言わないでおいた。
ちょっとかわいそうだけれど、私から指摘されるよりいいだろう。
視線を落とさないようにしながら少しお話をして私は席を立った。
時にはこの町の夜も楽しいな、と思いながら。