小説(三題話作品: リゾート こい ホルモン)
秘密のトビラ by 勇智真澄
アサコは時間調整のついでに昼食をとろうと、取引先近くのファストフード店に入った。取引先なんておこがましい言い方をしてしまったが、そこから、お仕事、を頂いているアサコは出入り業者の一人にすぎない。
店内は昼食時で席を選べず、アサコが座った隣のテーブルからは甲高い声が聞こえてくる。あと少しで終える本を読みたいのに、奇声がこめかみに響いて進まない。どこからあんな声が出てくるのだろう。自分もあのくらいの年齢のときはそうだったのだろうか、とアサコは訝しく思った。
「だからさ、間違えたんだって名前。披露宴の挨拶の時」
「まじ~! 嫁さんの? なにそれぇ~」
「なんかね、でき婚。上司の娘だから断れなかったとか、ちゃっかり出世街道に乗ったとか」
「ひどい、やだあ。愛のない結婚ってやつ?」
「わからん……。でもさ、ハネムーンにも行ってるから、ま、それなりじゃないの」
「なに、それなりって」
クスクスと失笑した声が混じる。
にぎやかな女子たちは、たぶんアサコがこれから行こうとしている広告代理店の新人デスクのようだ。彼女たちはまるで他人の不幸を餌にしている鯉みたいに、貪欲に口をパクパク動かし続けている。
自ずと耳に飛び込んできた会話に心当たりがあった。ケンゾウのことだ。
ケンゾウは広告代理店の営業部に勤務している。学生時代にラグビー部で活躍していたケンゾウは、この業種特有の体育会系の文化が性に合っていた。営業、制作、マーケティング、媒体部門から担当者が集まり、プロジェクトチームができる。一緒に企画提案をし、他社との競争であるコンペに向けて広告を作り上げていく。ケンゾウは責任者としてチームを引っ張り、まとめていた。
コピーライターのアサコも、チームの一員だった。ケンゾウとの仕事は2年を数え、個人的な付き合いも同じ年数だった。つまり、アサコは大学卒業後すぐに入社し、22歳からケンゾウと恋人関係にあった。そう思っていた。
アサコもまた、学生時代にバレーボール部で活躍した体育会系。6つ上のケンゾウとは案件の打ち合わせで会い、企画が通った時の打ち上げで会い、たまたま隣に座った時の会話がスムーズでお互いに好印象をもち興味をもち、仕事関係者から男と女、そうなるのに時間はかからなかった。仕事がやりにくくなるからと、現場ではあえて自分たちからその素振りは見せていなかった。いや、自分たち、ではない。ケンゾウがそう望んだのだった。
もっと早くに気づけばよかったのだ。あの噂が本当だと。ケンゾウは複数の女と付き合っているらしいという噂。
あの日、梅雨晴れの日曜の昼下がり、青山通りから外苑東通りに入ったところに、ケンゾウの赤いスポーツカーが停車していた。アサコは車を見つけ、小走りに駆け寄る。アサコが歩道側の助手席のドアノブに手をかけようとすると、赤い車体が動き出した。そして少し動いて止まった。アサコはブレーキランプが点灯したのをみて、また車に走り寄る。すると車は動き出す。また止まる。アサコが追う。そんなことが数回繰りされた。傍から見たら挙動不審な怪しい動きだっただろうが、都会の人波は我関せずと足早に通り過ぎていく。
最初はふざけているのかと思ったけれど、こう何回も乗せてくれないなんてなに? アサコは怒りが頂点に達して追うことをやめた。冗談以下の悪ふざけだ。
ケンゾウは立ち尽くしているアサコをバックミラーで見て思った。参ったなあ。怪しい車の動きは後ろめたいケンゾウの気持ちを物語っていた。しかし、ケンゾウはアサコを乗せようとはせずに立ち去った。
もうあの時には決まっていたのだろう、私ではない誰かとの結婚が、とアサコは今になって思った。
披露宴での出来事は、式に出席したおせっかいな友人がアサコに教えてくれた。アサコは予定がつかないと噓をつき出席しなかった式だ。間違えて言った名前は、アサコではなく、別の名前だったこと。もちろん嫁さんのでもなく。
そんな男だったのかと、アサコはずっと見抜けなかった自分が可笑しかった。呆れた男だとわかっても、しばらくは落ち込んだ。そのストレスからくるホルモンバランスの乱れからか、自律神経のコントロールができなくなった。怒りっぽくなり、集中力が低下し、頭痛や生理不順がおきてきた。もしかしたらプレ更年期? と心配になった。
これを機に、少し休もう。アサコは、代理店の担当者に、その旨の挨拶回りをしていた。復帰後に仕事依頼があるかなんて、考えないことにしよう。なんとかなるさ、と思ったら心が軽くなった。
さて、どこに行こう。そうだ、リゾートだ。
アサコはかつての恋人を思い出した。なにも今さらよりを戻すつもりはない、と言い訳しているが、ホントはどうかわからない。心が寂しい時には藁にも縋る感じで過去の人を思い起こすものだ。
サーフィンが好きで、ハワイに移住したヒデキの連絡先は知っている。喧嘩別れしたわけではなく、一緒に来ないかと誘われたのにアサコがいかなかっただけ。アサコは海外で暮らすことの不安、そしてもしかしたらもっと楽しいことがあるかもしれない、と踏ん切りがつかなかったのだ。ヒデキを空港に見送りに行ったときに、遊びに来いよと連絡先を渡されていた。
ヒデキが指定した待ち合わせ場所はアラモアナショッピングセンター、1階通路の真ん中にある大きな四角い池のまわり、と、相変わらず大雑把。
アサコはワイキキビーチに近いホテルに泊まっていたので、ワイキキ・トローリーでアラモアナに向かった。バスの車内では観光客があちこちと席を移動し、ビーチを背に自撮りをしたり、ショッピングセンターの地図を見ながら買い物コースを確認したりと賑やかだ。
アサコは待ち合わせ時間より少し早く着いたけれど、買い物をするほどでもないのでプールみたいな池を囲む淵に腰かけた。水中には沢山の錦鯉が優雅に泳いでいた。
「あ~さ~こ」と呼ばれ顔を戻すと、すっかり日に焼け、逞しくなったヒデキが目の前にいた。
「少し太った?」
久しぶりに会って、開口一番の言葉がこれかい? だけどこれがヒデキの性格だったよな……アサコはこの軽口が懐かしかった。
「おだまり! ケンカうってる?」
ブランクを感じさせず、こうして当時のままポンポン話せることがアサコには居心地のいいことだった。
食事とワイン、何よりもヒデキとの共有時間は楽しかった。ホテルの前での別れ際のキス。また明日な、と耳をくすぐる声が、昔からアサコは好きだった。なぜ一緒に行こうと誘われたあのときに「うん」と言えなかったのか、いまさらながら悔やんだ。
昨日飲み過ぎたのか、食べすぎたのか、朝から胃の具合が芳しくなく吐き気を催していた。まさか! そういえば、生理がきていない。生理が遅れている……。
アサコは薬局で妊娠検査薬を買ってきた。Pregnancy Testのスティックタイプは1分たっても色の濃い線が出なかった。たった1分が、長く不安な待ち時間に感じられた。
アサコは、ただ説明書の上に目を落としていた。(妊娠すると分泌されるhcgというホルモンに反応する仕組みで……)あとの文字は滲んで読めなくなった。なんとも言いようのない涙が溢れてくる。
良かった、妊娠していなかった――。アサコの涙は安堵に変わった。
赤からオレンジに、そして金色に変わりゆく海の向こうを、アサコとヒデキは砂浜に座り眺めていた。
「待ってた……アサコのこと」
ヒデキがぽつりと言った。
私を待ってくれていた人がいる。嬉しかった。
この地でヒデキと暮らすのも、決して悪い未来ではなさそうだとアサコは思った。
ずるいかもしれないけれど、傷心を癒しに来たことは、そのことが笑い話になるまでは秘密のトビラにしまっておこう。いましばらくは、もしかしたら永遠に……。