小説(三題話作品: リゾート こい ホルモン)

ラスト・リゾート by 暁焰

1.
 伊織の市内を東に向かう道は、郊外に出てすぐ成瀧川にぶつかる。
 その流れを上流へ。少しずつ細くなりカーブの増えていく県道が母の故郷の村に向かう道だ。
 村の名は姫宮。地名は村にある神社の祭神の名に由来している。
「何が出て来たんやろなあ…」
 ハンドルを握る私の後ろで、母が呟く。
 母の旧姓は月宮と言う。苗字にも宮の字が付いているのは、地名と何か関係があるらしいが、詳しくは母も知らないと言う。
 丁度一週間ほど前、その月宮の家から連絡があった。
 家を増築するに当たって納屋を整理した所、古いノートが幾つか出てきた。文章だけでなく写真が張られたアルバムのようなものだが、中は全て英語で書かれている。
 亡き母方の祖父や祖母が写っている写真がある為、読めないから、と言って捨ててしまっていいものかどうか分からない。そこで、英語を教えている彰——私の事だ——に見て貰いたい、と頼まれたのだ。
「電話で聞いただけやと何ともなあ…。てか、母さんは心当たりないん?」
「あらへん。英語が話せる人なんか一人もおらんだしな」
「一人もって事はないやろ。学校の先生とか…」
「小学校は近くやったけど。中学校は船で成瀧渡って行っとったしなあ。姫宮には先生もおらんだよ」
 母の、つまり姫宮の方言はどこか歌うような調子があって、姫宮、がひめんみゃ、に聞こえる。
 私の実家がある伊織の市内から、姫宮村までは車で30分程。以前は別の市町村区分だったが、20年程前に伊織市に合併されている。さほど離れている訳ではないのに、伊織と姫宮ではもう言葉の調子が違うのだ。
 過疎が進んだ今となっては、村の戸数は両手で数えられる程しかない。母が子どもの頃はもう少し人も家も多かったようだが、それでも小さな村だ。学校はなく、母を含めた村の子ども達は成瀧川を渡し船で越えて、川向こうの中学校に通っていたらしい。
 県道を外れた後、川の流れを一度横切ってから山へと向かう。この川を横切る橋ができるまで、母の言う渡し船が下の流れを通っていたそうだ。
 橋を越えた後、道の両側には茶畑が続く。遅霜を防ぐ為の風車が点々と立っている。濃い緑の中をくり抜いたように、墓地が白と灰色を添えている。野辺にできた空白のような場所には、秋になると彼岸花が一面に揺れる。
 明け方に一度止んだ雨がまた降り始めていた。フロントガラスに小さな雨滴が模様を描き始める。色が濃くなった雨雲を見てワイパーのスイッチを入れようとした瞬間。
「……っ…!」
「なとしたん!?」
 急ブレーキを踏んだ後、驚いた母の声が飛んできた。
「……いや…なんか…飛び出してきよって。犬か猫…やと思う、多分…」
 答える自分の声が微かに震えている。
 視界の端、野辺の茂みを揺らして飛び出した灰色の影。母に答えた通り、犬や猫程の大きさのそれは、車の前を横切ろうとする一瞬、こちらを向いた。
 その額に角があったように見えたのは、気のせいだろうか。
 確かめようと眼を凝らしても、影は既に消えている。走り去った方へと目を向けても、見えるのは天地を繋ぐ雨の紗幕と、その向こうに黒く浮かぶ山影だけだった。

2.
 母の生家、月宮家は姫宮の村のほぼ真ん中にある。家の前の道を挟んでと、庭の奥側とに小さな畑があり、道路側の畑は奥に広葉樹の林が広がっている。母方の親族は皆仲が良い事もあり、私もここには幼い頃からよく遊びに来ていた。
「おう、アキちゃん。今日はすまんだなあ。わざわざ来てもろて」
「いや、ケンちゃん。気にせんといて。今年は盆によう来れんだし。母ちゃんもまたそろそろ行きたい言うとったとこやったんや」
「ほうか。まあ、上がっとくんない」
 月宮の家は、今は従弟の建也が継いでいる。母の兄、つまり私の伯父の息子だ。私とは年齢が一つ違いで、幼い頃から仲が良かった。その頃からのまま、アキちゃん、ケンちゃんと呼び合ってはいるが、二人ともそろそろ四十に手が届こうとしている。
「お互い薄なってきたなあ…」
「月宮の男はハゲる血筋や言うで。どむならんで」
 私は頭頂部が薄く、健也は額が後退している。
 足して二で割ったら、互いの薄い場所が補えるのでは。いや、逆に額から頭頂部まで全部無くなるかも知れん。
 軽口を叩きあい、通されたリビングに腰を下ろす頃には、来る途中で見た影の事は忘れていた。
 真新しいソファに座ると、左手の窓から庭を挟んで母屋が見える。私がいるのは、健也が建てた離れに当たる建物だ。母屋が老朽化した為に、敷地内に新たに家を造ったのだから、増築、と言うより、新築に近い。
 件の「ノート・手帳」は、その増築の折に納屋から見つかったもの、と聞いている。
「天気やったらなあ…。またとんちゃんでもやりたかったな。チビ共も喜んだやろうし」 庭を見遣る私の視線を追いかけて、向かいに座った健也がぼやいた。
 「とんちゃん」とはこちらの地方でホルモン焼きを指す言葉だ。
 私達が来ると、月宮家ではいつも庭に七輪を出してこれをやってくれる。ホルモンだけを焼くのではなく普通の肉も食べる。要するに焼肉パーティなのだが、通りがいいので、今でも家族、親族の間では「庭でとんちゃん」と言っている。
 幼い頃の私や従弟達がそうだったように、今では健也の子ども達が「庭でとんちゃん」を楽しみにしている。今日も朝からずっと期待していたらしい。
「そりゃ気の毒したなあ。いうてもな、雨ばっかりは…」
「まあ、ええわさ。また彼岸に来てくれた時んでも。機会はなんなとあるやろう」
 子ども達は今二階へと上がっている。遊び相手になっているのは伯父と伯母、そして私の母だ。
 年寄りが子ども達を見てくれてる間に、と健也が本題を切り出した。
「これなんやけどな…」
 差し出されたのは3冊のノート。どれも相当に古びている。
 中に貼られている写真に写っている祖父や祖母の年代から察するに、恐らく戦前、昭和初期のものではないか、と言う事だ。
「中、見せて貰っても?」
「かまへん。そのつもりでアキちゃん来て貰ったんやし」
 表紙は微かにざらついている。開いたページは経年で黄ばみ、或いは色褪せているが、カビの匂いはない。インクの筆跡も所々薄くなっているが、判読できない箇所はなさそうだ。この手の古い資料に通暁している訳ではないが、良好な状態で保存されていたように思える。
 3冊とも、表紙に同筆致の同じ文言が書かれ、その横に通番らしき1から3までの数字が書かれている。おそらくこれがタイトルだろう。
「この地域…っていうか、姫宮を調査した記録みたいやな」
「中見やんとなんでわかんの?」
「表紙に書いてあんのや。“Field Notes Of Himemiya”て」
「ふぃーるどのーと?」
「学者さんなんかがその地域を調査したノートって事やな」
「へえ…。何の調査やったんやろ?」
「さあな。フィールドノートってのは、社会学か民俗学なんかが多いけど…。考古学なんかでもあるって聞くなあ」
 学術的なフィールドノートであるとしたら、冒頭に調査の目的や趣旨、日時と場所、そして調査実施者の名前等が記されている事が多いはずだ。タイトル横に“1”と記されている一冊を手に取って表紙を捲る。予想通りと言うべきか、最初のページのほぼ全面が文章で埋まっていた。
「ここに名前書いてあるな。レイ…レイモンド.F.カールトン…って」
「外人さんか?」
「イギリスの人みたいやな。ちょっと待って。ここに詳しく…」
 記された文章に寄れば、レイモンド.F.カールトン——以下、レイと略す——は、イギリスの研究者で1932年の7月に姫宮村を訪れている。目的は、民俗学上の学術調査、つまりこの地域に残る伝承を調べる為で、およそ二ヶ月の間の滞在を予定していたようだ。
「この家に?そんなん、親父からも聞いた事ないけどなあ?」
 私が要約して伝える内容を聞いて、健也が首を捻った。
「1932年…は、昭和7年やな。伯父さんは、何年生まれやった?」
「えっと…昭和15年やったか?」
 8年も前となれば聞かされていない、と言う事もあり得るだろうか。時代も時代だ。太平洋戦争の足音が聞こえ始めている頃でもあり、欧米の人間が長期間滞在していた事は秘匿されたのかもしれない。
 続く文章の中には、祖父の兄の名が記されていた。
 大叔父、月宮時次郎は体格に恵まれていた事から入営し、軍医になった人である。その頃には珍しく海外に出た事も何度かあり、マレー半島やシンガポールにも長期滞在していたと聞いている。レイは時次郎と知己を得、その紹介で姫宮を訪れたようだ。
 紹介が無ければ、お世辞にも開放的とは言えない日本の山村——それも昭和初期である——に外国人が訪れて学術調査を行うなど無理だっただろう。続く文には、大叔父時次郎や、自分を迎えてくれた月宮の家に対する感謝の辞などが記されている。
 次のページに移る前、別のノートに真新しい付箋が挟まれているのが目についた。
「ケンちゃん、これは?」
「そりゃ、オレがつけといたんや。爺ちゃんと婆ちゃんが写っとる所の目印に」
 付箋がついているのは、タイトルの横に2と付けられたノートである。ページを開くと、確かに祖父と祖母が写った写真が貼られている。母屋の玄関前に佇む二人は、まだかなり若い。写真の下には“With Rikinosuke and Sae”と記されていた。
 リキノスケとサエは、力之助とさえ、で祖父と祖母の名前なのだが、写真の一部が切り取られている。
「これ、最初から?」
「そうなんや。見つけた時には切られとった」
 並んで立つ祖父と祖母の隣の部分で写真は切り取られ、右側の三分の一程がなくなっている。“With Rikinosuke and Sae”——力之助とさえと一緒に、と記してあるのであれば、なくなった所には筆者であるレイが写っていたのだろうか。
「それだけとちゃうんや」
「何が?」
「他にもあるんや。切られとるんが」
「……」
 再び一冊目に戻って最初から眺めていく。
 当時はカメラのフィルムが貴重だったのか、文章に比べると写真は余り多くない。健也の言う通り、写真の中には一部を切り取られているものが幾つかある。被写体や添えられた文章から察するに、どの部分にもレイが写っていたのだろう、と推測できる場所だ。
「やっぱり、当時の調査の記録みたい…やな。オレも民俗学は専門やないから良うわからんけど…」
「写真が切れてんのは?」
「それもわからん。これ書いたレイモンドって人が自分で切ったんかな」
「なんで?」
「自分が写ってると都合が悪かった、とか?資料として価値がない…とか…」
 思いついた考えを答えたものの、余り自信はない。或いは他の誰かが切り取ったのか。そもそも、これが学術調査の為の資料として作成されたのであれば、月宮の家に残ったままになっていたのも謎だ。
「——…なんで持って帰らんだんやろな。その…レイって人は」
 健也も同じ疑問を感じたらしい。
 窓の外からは、再び強くなってきた雨の音が響いていた。

3.
「……日本の山でも火の球が目撃される。姫宮村では、雨の後に山で白い火の球が出て、人を惑わせる。これを…なんや、これ? 牛の頭の怪物とか書いてあるけど…」
「そりゃ、牛鬼の火とちゃうか?ほれ、親父も見たっちゅう」
「ああ!成程な。牛鬼が淵へ呼ぶっちゅうやつか。母さんから聞いたな」
 ノートに書かれた文章を私が訳し、健也と二人で考えていく。一読してわからなくとも、二人で考えると思い当たる。どれも幼い頃に聞かされた覚えがあるこの辺りの民話、俗伝の類だ。
 ノートの記述によると、レイは元々、イギリスやアイルランドの伝承、それも精霊や妖精に関するものを研究していたようだ。その後、日本にも山や森に怪異の伝承がある事を知って、興味を持ったらしい。姫宮の村でも、山に関する言い伝えや、山の怪についての口碑伝承を収集していた事が伺える。
 月宮の家に泊まり、村の人達から聞き取りをする毎日。時折混ざる写真は、村の神社や祭具、墓地等を写したもの。十日に一度ほど伊織市まで出かけて写真を現像し、英国に手紙や電報を送っている。
 この手の調査記録の常で、ノートには日付が細かく書かれている。その為、半ば彼の日記を読んでいるような気になってくる。
「一服しよか、アキちゃん」
 二冊目の終わり近くまで読んだ所で、健也が大きな溜息をついた。私も目が疲れて来ていた。
 時刻は午後3時近い。約2時間、二人でノートとにらめっこしていた事になる。
「子どもらは?」
「さっき寝かして貰ったって。アキちゃん、まだ禁煙続いてんのか?」
「ああ。ケンちゃん、吸うんやったら構わんで」
 したら、遠慮なく、と、健也が紫煙を煙草に火をつける。
「残りもこんな調子なんかな?」
 灰皿を前に紫煙を吐き出す従弟の前で、残った3冊目のノートをぱらぱらと捲ってみる。
「ざっと見た感じは変わらんな」
「ほうか…。なあ、アキちゃん、これどうしたらええ?処分しても構わんのやろか?」
「処分せんのやったらなとすんの?この家に取っとくんかい?」
「それか、どっかに寄付するとか?」
「引き取って貰えるかなあ…」
 読み物としては面白いのだが、歴史的な資料としての価値、となると良く分からない。昭和初期にこの村を調査した外国人研究者の残したもの、と考えれば、希少な事は間違いないのだろうが——。
「レイモンドっておっさんがな…。なにもんかわからんし」
「おっさんなんかい?」
「それもわからん。歳は書いてないし。ちょっとPC借りるで?」
 Raymond.F.Carltonでググってみる。同名の人物は見つかるが、ノートと関連があるような人はいない。名前のスペルを変えても、Folklorist(民俗学者)等の単語を追加してみても、結果は同じだ。
「少なくとも有名な人とはちゃうみたいやな。向こう…イギリスの所属しとった大学とかに聞けば分かるかも知れんけど」
 そこまでの調査となると個人の手には余る。博物館、図書館、大学。しかるべき研究機関に委ねなければ難しいだろう。
 もう一度テーブルに戻って3冊目のノートを捲る。何気なく開いた2ページ目の中程に書かれていた単語が目に留まった。
 "Arthur Machen"
「アーサー・マッケン?」
「え?」
「いや、ここにな。名前が出とんのやけど」
 アーサー・マッケン。19世紀に生まれ、20世紀のホラー小説に絶大な影響を与えた幻想小説家である。
「その小説家が?レイモンドのおっさんとなんか関係あるんかい?」
健也の中では、レイはすっかりおっさんのイメージで固定されたらしい。
「ちょっと待ってや。訳してみる」
——山には餓えた魔物が出る。彼等の姿はアーサー・マッケンが描いた“Out of the Earth”の小人のようだ。
「"Out of the Earth"…も聞き覚えあるな。多分、日本語に訳されてる作品やと思うんやけど…」
 再びPCに向かってググってみる。記憶に間違いはなく"Out of the Earth"は邦訳されていた。
 邦題は「地より出でたる」。小編ながらも、ウェールズ地方を舞台にして、地下に潜む邪悪な妖精の存在を虚実織り交ぜて巧みに描き出した作品である。
「山に出る餓えた魔物ってなんやろな?ここも同じ事書いてある“山で人に取り憑く邪悪で餓えた霊”って」
「……『餓鬼』の事やろか?」
「腹が減って動けんようになる?」
「そや。『餓鬼憑き』って。アキちゃんも知ってるやろ?その…マツケンの話にも『餓鬼』が出てくるんちゃうんかい?」
「マツケン違う。マッケンな。話の中身も…『餓鬼』には似てない思うんやけどな…」
 「地より出でたる」にはイギリスで古くから語り継がれている妖精が登場する。タイトルの通り、地下から現れて人に害をなす邪悪で不気味な小人達が、本当に存在するかのような真実性を持って語られる作品だ。
 一方で「餓鬼」とは、この地域に伝わる妖怪で、これに取り憑かれた者は空腹で動けなくなってしまう。餓死した亡者の霊が祟るのだとも言われ、もし取り憑かれた時は、なんでもいいから食べ物を口に入れなければならない。伊織市にある山寺では、御参りする時に山頂の境内から山腹に向けておにぎりを投げる風習がある。これも山中にいる餓鬼の空腹を満たす為のものだそうだ。
「——…似てないな」
「やろ?」
「山に出るとこが一緒とか?」
「マッケンの方はウェールズの海辺が舞台や」
「全然ちがうやん」
「——…逆はどうやろ、ケンちゃん。餓鬼が小人で、地面から出てくるとか。そんな話は?」
「…聞いた事ないなあ。あれは人に取り憑いて悪さはするけど、見えへんもんや…なとしたん?アキちゃん?顔、強張ってるで」
「あ、いや…。その…」
 地から湧き出る小人と餓えた鬼。
 朝、雨の中を駆け抜けていった小さな影を思い出す。角があったように見えたのは本当に見間違いだったのだろうか。

4.
 レイは餓鬼にいたく興味を持ったらしい。後に続く文章も、殆どが餓鬼についてのもので、内容の多くは私と健也も知っているものだ。
 ただ、所々に違和感を覚える記述が出てくる。
——彼等は餓えている。
——餓えた彼らは酷く恐ろしい。
——だが、山では。
——彼等は安らぎを見つける。
「どういう…こっちゃ?」
 途中から要約はせず、なるべくそのまま和訳して読み上げていた。私には分からなくとも、健也には分かるかも知れないと思ったからだが。その肝心の建也が怪訝な顔をしている。
 3冊目の中程まで来た所で、見開きの左側に手書きの地図が現れた。
 描かれているのは、姫宮の村とその周辺らしい。村を東西に横断する道と、村の傍を谷となって流れる成瀧川の支流がちょうど十字を描いている。
——彼等は此処から出発する。
——この道を通って山に向かう。
——安らぎを目指して。
 地図に書きこまれた走り書きを指差して読み上げる。
「彼等って、餓鬼の事か?」
「…そうやろな」
「やったらおかしいで。ここからスタートするって書いてあんねやろ?」
 健也の指が地図の一点を指す。村を横断する道の西側の根元に当たる箇所だ。
「ここ、墓やん」
 健也の指が地図を辿る。確かに、書かれている文章に従うなら、餓鬼達は墓地を出発し、村内を通って山に向かう、と読める。
「レイモンドのおっさん、間違えてないか?墓から山に行くんは餓鬼とちゃう。亡くなった仏さんやで」
 健也が言っているのはこの辺りに伝わる祖霊信仰だ。
 その年に亡くなりお墓に埋葬された故人は新仏(にいぼとけ)と呼ばれ、その魂は弔いが済んだ後に山へと向かう。山の神となってから里へと下りて田の神になり、家の棟に宿って屋の神になる。
 同じ霊魂でも、弔いを受けた新仏は神、一方の餓鬼は妖怪の類だ。
 隣のページ、見開きの右側には一枚の写真が貼られている。下り坂の狭い山道を写したものだが、私にはどこか分からない。
 写真の端には矢張りレイの字でメモが添えられていた。
"This is the path ,To their last resort"
——彼らの最後の拠り所へと続く道。
「ケンちゃん、これ…どこやろ?」
 健也がノートを手に取って、写真を様々な距離や角度から見つめた後、再びテーブルに戻した。
「…宮之谷の坂ちゃうか?」
「え?あそこ道崩れてるやん」
「今はな。でも、ずっと昔は谷の下にまで降りられたって聞いた事あるで。それに…その御堂。ろくじぞさんやろ?」
 ろくじぞさんとは六地蔵さんの事だ。名前の通りに、六体の地蔵が安置された御堂の腰ほどの高さの屋根が一部写真に写り込んでいる。
「場所も合うな。ろくじぞさんの辻、ここやし」
 左側の地図へと視線を戻して位置を確かめる。六地蔵の御堂が立つ辻は、村の東の端だ。餓鬼達が『出発する』墓地から見れば、東西に延びる道の逆端となる。
 その辻の先は今は崩れてしまっているが、本来は、村の脇を流れる成瀧川の支流へと出る道だ。
 昔はその先に姫宮の地名の由来となった女神「耶麻比売命」——ヤマヒメノミコトと呼ばれる——を祀った社があった。崩れて通れなくなっているものの、宮之谷、との地名が残っているのはその名残だ。
「前は…あの道から谷の御社まで降りていけたんやって。で、道崩れて降りられんようになったから」
「今の御社が…って事か」
 通じる道が無くなったのが理由で、改めて新しい社が村の中に社が建立された、と言う事らしい。再びノートに視線を戻して、ページを捲っていく。
 この辺りから、筆記体が随分と乱暴なものとなっていく。所々紙が破れているのは相当な力をペン先に込めたからだろうか。
 見開きの2ページを越えて、更に次のページまで続く文章を、できるだけ正確に日本語に訳していく。
——彼等は餓えている。酷く、酷く餓えて彷徨うのだ。その姿は小さく醜い。灰色でねじくれた角は、その身に受けた呪い故だろうか。死した後に墓地へと向かってから彼等は知る。そこは自分達の安息の場所でないのだと。行き場所をなくした彼等は道を辿る。その先に彼女、山の姫が待つからだ。
——山の姫に関する伝承は少ない。彼女は山を護る神だとも、成瀧川の水神だとも伝えられている。伝えられている事は僅かでも、私は彼女の存在を信じる。なぜなら、私は見たのだ。木立の中に立つ美しい姿を。
——たとえ、身を焼く程の餓えに苛まれても。死して尚、安らぐ場所を得られずとも。彼女に出会う事が叶うならば、正当な対価だろう。山の姫に出会う事が彼らの最後の拠り所だ。彼女に出会う為なら、何百年も山野を流浪する事になっても構わないと私は思う。
——谷の社で見た光景が私の目から消えてくれない。彼女は美しかった。彼等は醜かった。月が照らす流れを渡り、遠ざかっていく後ろ姿がずっと目に焼き付いている。
——罪深い事だ。醜い獣達が白い胸に群がっていた。母の乳房に包まれたとしても、あれ程の安らぎは得られないだろう。私はあの獣達を憎む。餓えてしなびた唇に白い乳を含んだ後、水の流れへと溶け落ちた彼らの魂が、再び業火に焼かれん事を。
——会いたい。彼女に会いたい。だが、あの夜以来、彼女の姿はどこにもない。夜に河原を訪れても。最初に彼女を見つけた山の木々の間にも。
——彼女には会えない。代わりに奴らが、あの醜い獣達が至る所にいる。私を待ち構えている。昼は太陽が作る影の中に。夜は闇の中に。あの赤い目が光っている。
——今朝は目覚めた時に何かが屋根の上を駆けていった。あれもきっと奴らだろう。絶対に此処に入れてはいけない。月宮家に悪い事を招いてしまう。
——会いたい、彼女に。山の姫に会いたい。奴らの痕を辿ればいいのか。私も奴らのようになれば。餓えた霊になれば、彼女に会えるのか。
——力ノ助に気づかれたかもしれない。明日、出ていくようにと告げられた。怒っている顔ではなかった。あれは…憐みか?もう終わりだ。此処を離れた後、彼女に会える術は無い。
——残る方法は一つしかない。今夜、あの社の前で。
 読めるのは此処までで、後は判読不能な文字が続いている。
 狂気と恋。
 綴られる言葉に含まれる熱と毒にあてられたような気がした。隣で聞いていた健也の顔が心なしか青褪めている。
 夏の遅い午後、空はまだ雨模様のまま。
 雨音には鈴を鳴らすような女性の笑い声が混じり、庭先に落ちる薄暗がりには二つの瞳が紅く光っているように思えた。

5.
 恐らく無駄だろう、と思いつつも、私達はレイのその後を調べる事にした。健也は村で、当時の事を知る者を、私は伊織市内で関連する資料を、それぞれに探した。
 結論から言えば、余り大した成果はなかった。
 なにしろ80年以上前の出来事である。
 当時の事を覚えている者も殆ど村に残っていなかったものの、辛うじて、90歳を超えた年寄りが、村を訪れた外国人がいたことを覚えていた。
 村の彼方此方で何かを調べている姿を見た、と言うから、これがレイだったのだろう。
 村の中央に新たに建立された「耶麻比売」の御社は、昭和8年、つまりレイが姫宮の家を訪れた翌年に作られている。伊織市に残る資料によれば、前年の夏に大雨が降り、旧社へと通じる宮之谷山道が崩落したことが社を移築した理由となっていた。
 レイがどうなったのかは結局は分からない。祖父に村を出るように、にと告げられた夜に何があったのか。何故、ノートが残ったままとなったのか。彼の姿は写真から切り取られたのか。
 ヤマヒメも餓鬼も。全ては異邦で狂気に取り憑かれた男が見た幻影だったのか。
 一週間後、私と健也は宮之谷へと向かった。
 8月も終わりに近づき、山から吹き降りる風にはもう涼気が含まれている。背後では、六地蔵の御堂に飾られた風車がからからと乾いた音を立てていた。
「アキちゃんも持ってきたんか。実はオレもや」
 私が鞄から出したものを見て、健也が笑う。山の餓鬼供養に、と持ってきた握り飯だ。
 健也も同じ事を考えていたらしい。二人共に、持ってきた握り飯を崖下へと放り投げた。
「あれで足りるかな?」
「足りんだら困る。とんちゃん焼いとるとこに来るかも知れん」
「そりゃ困る」
 冗談を口にしながら、健也が崩れた崖を覗き込む。
「この下に行ったんかな。レイモンドのおっさんは」
「さあ…どうやろな」
「写真まで切られてたのにな。なんでノートだけ残したんかな、爺ちゃんも」
「よう捨てられやんだんかな。返したりたかったんちゃうか」
 そやな、と頷いた健也が月宮の家から持ってきたノートを崖際の地面に置き、ライターで火をつけた。
「持ってけ、おっさん。あんたの書いたもんや」
 古く乾燥していたノートはすぐに赤い炎に包まれた。紙片も写真も灰に変わり、風に崩れていく。白と黒の欠片が落ちていく河原には、今はもう祀る者もない古い「耶麻比売命」の社が佇んでいた。

 
「参考文献:南条竹則編訳(2005)『イギリス恐怖小説傑作選』ちくま文庫」