小説(三題話作品: 令和 夏休み コーヒー)

記憶の跡に by Miruba

 いつも気になってはいたのだ。
 仕事人間の私は、寝に帰るだけのマンションで近所に付き合う人がいるわけでもない。マンションにはセキュリティーが施してあるので日中通いの管理人がいるだけだ。それでも、小包を預かってもらった時に聞く機会があった。
「管理人さんはご存知かしら?」
 だが、帰ってきた答えは意外なものだった。
「私はこのマンションの管理人をやって25年になりますがね。事故なんぞついぞないし。なんで花が飾ってあるのか誰も知らないんですよ。飼い猫かなんかが死んじゃったんじゃないですか?」

 今日もあった。大きな石、というか小ぶりで武骨な岩が積まれた坂道の柵に花が括り付けられている。花が枯れ、岩にしだれ掛かる頃になると、いつの間にか新しい花が供えられているのだ。豪華なブーケではなく庭に咲いた花を数本切り取ってきた、という小さな花束ゆえに、むしろ供える人の心情が見える気がする。
 何時か供えている人に会えるのではないかと思いながら、すでに5,6年は過ぎていた。通勤の坂道を下りながら、立ち止まって手を合わせた。
「ありがとうございます」
 不意に小さな声が聞こえた……気がした。
「え?」と周りを見回したが、誰もいない。聞き違いかしら? 「イヤダ、年は取りたくないわね」と独り言をつぶやき仕事場に急いだ。

 働き方改革とか言われて残業ができなくなり、要領の悪い私は家に持って帰って続きをしたいところだが、以前は可能だったパソコンの持ち帰りも、USBのバックアップも持ち帰りできず、部長が各部屋を見廻り「おい、もう6時だぞ」と部屋の明かりを消さんばかりにせっつくので諦めて家路につく。仕事帰りに一杯なんてことも、まだ空が明るすぎてその気になれず、同僚とも「じゃね、お疲れ様」と言って、会社の前で別れるこの頃だった。
 マンションに着くと、住人たちがポストのブースで何やら騒いでいた。お巡りさんも来ている。自分のポストのカギを開けながら、どうなさったんですか? と聞こうとして、周りのみんなが私の手元を見ているのに気が付いた。
「入っていますか?」
 私の隣の部屋の奥さんが聞いてきた。
「え? なにが?」
 すぐにわかった。DMや口座引き落としお知らせ手紙の束の中に一枚の紙が入っていて、_お前は人殺し_と印刷されていたのだ。
「ああ、やっぱり入っていましたね」お巡りさんが近づいて言った。
 なんでも、すべての住人のポストに同じような紙が投函されていたようだ。管理人さんが警察に連絡したとのことだった。
 防犯カメラはあるし、聞き込みなどもして しばらくは調べていたようだが結局犯人は特定できず、愉快犯の仕業か、という事で落ち着き、「ポストには部屋番号だけ書いて、名前を貼るのはやめましょう」というお達しがあった。私も名前札を外して、番号札を張り付けた。
 その後無言電話が続くようになる。管理人さんに確かめると、無言電話がかかるのはどうやら私のところだけのようだ。気味が悪いので固定電話を取り外した。今は携帯で事が足りる。

 歓送迎会が会社であり、久しぶりに夜遅く帰った時だ。
 なんだか駅からヒタヒタとついてくるような気配がした。
 商店街は閉まっていて、人影もない。
 街灯がやたらぼーっとして気味が悪い。
 私は急いだ。地元なので横道を入って、その人影をまいてやった。やっとマンションに着いて、周りを見回し、セキュリティーの扉をロック解除した。入ろうとした途端、後ろからドンと押されて倒された。声を上げる間もなかった。
「何やってるの!」
 大きな声がエントランスに響いた。隣の奥さんがナイフを持った年配の女を地面に押し付けていた。

「このババアァが、あなたを刺したのよ!」
 私に向かって叫んだ。
 _お隣さんたら口の悪いこと_と思いながらも急いで110番した。そして、熱く感じた腰のあたりに手を当てようとして、気を失った。

 白い天井が見えた。
 息苦しくなって動こうとして背中に痛みが走った。
「大丈夫? よかったわね、急所ははずれてたって」
 隣の奥さんが心配そうに顔を覗かせている。事件の時、偶々ゴミを捨てに階下に降りてきて事件に遭遇したという。私にとっては幸運だった。
「あなたのご両親、午後にはこっちに着くらしいわ。会社の人たちさっき帰って行ったばかりよ。お見舞い預かってる」
 何から何までありがとうございます。と言いたいが、声がはっきり出なかった。
「ひどい目に遭ったわね~。あなたあのババァの娘を事故で死なせたんですって? でも10年近く経って時効よね?」
「え?」何を言っているんだ? ……私は頭が混乱した。

 隣の奥さんが、私がうなづいたと思ったのか、話を続ける。
「あなたが毎朝花に手を合わせているのを見てたんですって。縁もゆかりもないのに、毎朝手を合わせるなんて怪しいってわけ。で、花の下にカメラを仕掛けてあったらしいのよ。あなたがどこの人か探って、マンションを突き止めたけれど名前も部屋もわからない。それで、ほら、<お前は人殺し>っていう紙がポストに入れてあったでしょう? あれってあなたがどのポストの人か見つけ出すためだったんですって。遠くで見ていたらしいわ。執念よね~」
「あの……でも、事故って?」
「あらやだ、あなた忘れたってわけじゃないんでしょ?」あきれたように私を見る。
「ま、でも、嫌なことは忘れたいものよね。受けたほうは一生忘れられないけれどね。交通事故って、加害者も被害者になる、また被害者が加害者になるってことあるもんね。車を運転していれば、誰だって、ヒヤッとするようなことはあるわよ。私だって、轢きそうになったことあるのよ。若い女の子だったけれどね。私の車を避けようとして転んじゃって岩に頭ぶつけちゃったの。でも、こぶができただけで『大丈夫です』って言ってくれたからほんとよかったのよ。そういえば、それも、10年以上前だわね、私、安全運転のゴールドだから、危なかったのはそれくらいだけれどね」

 入院2日目には刑事さんが話を聞きに来た。事情聴取という奴だ。
「容疑者を問い詰めましたところ、あなたが娘さんを殺したと言い張るのですよ」
 私はだいぶ声が出るようになっていたので、こちらのほうが聞きたいくらいだった。なぜ私が刺されなければならなかったのか。
「私じゃありません。私を刺した犯人の娘さんが亡くなったのはあの花が置かれていたところなのですね? でも誰も事故を知らないらしいですよ」と私が言うと、
「ええ、それが娘さんは事故に遭った後には大したことがないと思って、実は夏休みに入ったその次の日にアメリカ留学が決まっていて、飛行機に乗ってしまっているのですよ。その後アメリカでしばらく学校に通っていて、具合が悪くなって入院しているんです。亡くなったのは半年後でした。急性から慢性硬膜下血腫という、頭に外傷を受けたことが原因だったのです」
 本来なら詳しい話はできないのだが、と言いながら話をつづけた。
「亡くなる前にどこで頭をぶつけたのだと聞かれて、事故のことを話したそうです。事故に遭ったと言えば、留学に行けなくなると思い、黙っていたらしいのです。亡くなった後、お母さん、あの容疑者ですが、母一人子一人だったためにショックから体調を崩して自身も長期入院をしていたようです。やっとのことで日本に戻ったけれど、調べても事故の相手がわからなかったのですね。で、ずっと思い詰めていたようです」
  何という事だ。事故に遭って亡くなったという娘さん、そしてあの母親、私を刺すなんて冗談じゃないが、でもなんだか可哀そうになった。どれだけ泣いて泣いて地獄の毎日を過ごしたのだろうかと想像してしまった。悲しさのあまりターゲットを絞りたかったのだろうか、だからって私を刺すなんてあんまりだ。花に手を合わせることさえままならない世の中になったのかとため息が出た。
「刑事さん、私こう見えて運転できないんですよ。免許がないのですから事故を起こしようがありません」
「あぁ、やはりそうでしたか……それじゃ、まったくの人違いだったんですね。それはひどい目に遭いましたね」と当たり前のことを言った。

 私はなんとなく隣の奥さんの話を思い出していた。……すべてがピタッとはまるような。どうしよう、言うべきか、言わざるべきか……悩む。悩んでいたら、なんだかのどが渇いてきた。珈琲を飲んでから、考えよう。
 ナースコールをする。
「はい、どうしました? 痛みますか?」と看護師さん。
「あの~珈琲飲みたいんですが」
「何を言ってるんです? まだ駄目です!」
 速攻叱られた。傷が浅く急所も外れていたとはいえ、仮にも殺されかけたというのに、たった一週間で退院させられた。有り得ないわ。お隣の奥さんは、刑事さんの聞き込みで、自分のことだと気が付いたらしく、私が話をする前に刑事さんに事故のことを白状したらしい。ま、隠していたわけではなく知らなかっただけのようだから、罪には問われないと聞いた。
 坂道の柵に枯れた花が岩にへばりついていた。私は新しい花を買って括り付け、手を合わせた。
「大丈夫よ、お母さんはすぐに警察から出てくるわ」

 イテテテ……私はつぶやきながら腰の傷跡に手を当て、坂を下りた。