小説(三題話作品: ○活 TRY ねずみ)

ゆれながらいく by 勇智真澄

 そろそろ始発電車が動く時間だ。僕は手早く身支度をする。
 ベッドから起きず、チュッチュッと投げキスしてくるママは、強粘着ネズミ捕りシートに張り付き動けなくなったネズミみたいだ。決して、おしゃれ染めではないであろう頭髪の、まだらな茶色が余計にそう思わせる。
 僕は背中越しに片手をあげ、シーツに残した体温が冷めてしまう前にホテルの部屋を出た。
 
 ママ、とは、行きつけの小料理屋のママのことだ。
 六本木交差点から溜池山王方向へ、くねくねした路地を入って行くとその店はある。ママの名前は知らない。みんながママと呼んでいるから僕もそう呼んでいる。
 いつからか、たまにこうして夜明けまで一緒に過ごすと小遣いをくれるようになった。比例して、店での飲食もタダになった。
 僕は棚から牡丹餅のような性活で生活の不足分を補っている。
 
 性欲なんてものはいつなくなるのだろう?
 たぶん、ママは僕のおふくろに近い年齢のはずだ。
 じゃあ、おふくろも……いやあ、そんなことは考えられない。身内の睦事など想像したくないし、できない。僕のルーツだというのに。
 それなのに、僕のカラダはおふくろを忘れて快楽側に揺れている。
 どうするんだ、僕――。
 
 僕は脚本家の卵。
 そういえば聞こえはいいけど、実際は脚本教室に通っている生徒。卵どころか精子にもなっていない。
 二年前、クドクドと理不尽な小言をいう上司について行けなくなり、あっさりとあてもなく正社員の座を辞した。
 そんな時期、テレビドラマや映画のテロップに、監督の次に脚本家の名前が出ていることに気づいた。監督より先に出ている場合もある。
 監督より先に名前が出る脚本家ってなんだ? 
 調べていくうちに、自分の書いたもので俳優たちが動く、動かせると思うようになった。
 実際には、いろんな人が関わり、時にはタレント事務所からの口出しがあったりと、自分が思うように書いたものがそのまま作品にはならない、と知るのは後の事だったが。
 
 だいたい1分1万円。連ドラなら月に4回。かけることの――。お~、悪い数字じゃない。売れたらギャラが上がる。僕は好き勝手に計算していた。あわよくば有名人とも付き合えるかもしれない。もうこれはトライするしかないだろう。浮ついた勢いで決めた。
 いいことだらけを期待し、僕は住んでいる南千住から地下鉄1本で通える六本木の教室を見つけた。
 書くには経験と想像力が必要。指南書で目にする言葉だ。僕のこの程度の想像力は、指南書が言うところの想像力とは違う、と知ったのはこれもまたずっと後の事――。
 
 時間はたっぷりあるのに、習作は数本しか書けないでいた。
 取り崩してきた貯金が生活費に負けて惨敗の危機になってきたころ、授業のない日に教室の事務所でバイトをすることになった。
 他の生徒の習作を整理し、コピーをとり、とまあいろいろな雑務をこなしている。バイトだから、給料はしれている。ママとの関係が救いになっているのは否めない。
 ママにはダンナがいるが、彼とでは埋められない夜の満足を僕に求め、僕も色恋沙汰にならない快楽で生理的欲求を満たしている。都合のいい思いだけを共有していた。
 
 ズキン、一瞬息がとまった。
 これが一目惚れの瞬間なのだろうか。
 よくできた顔だ。
 彼女を見たときに、僕はそう思った。広瀬すずを和風にした感じだと。
 何期も受講を続けているうだつの上がらない仲間が多い僕らのクラスに、新しく数名の受講生が入ってきた。彼女はその中の一人だった。
 高校出たての子が脚本家になりたいなんて経験不足だろう。いや、そんなこともないか。小学生作家もいることだし、今までの自分のことを書くとか、想像力でかくとか、何でもできる。おせっかいな僕の老婆心というところだ。それより僕の腕を磨く方が先決。
 
 新入生歓迎会が開かれた。
 むさくるしい男子の中に数少ない女子。可憐な彼女は、どうしたってみんなの注目を浴びる。
 彼女が笑顔で話す彼らに嫉妬めいた感情が起きた。僕の気持ちは恋なのだと改めて分かった。
 隣の男子が彼女を誘いたくてうずうずしている。僕は気のないふりをしていた。気のない素振りをして気になる存在になる、なんてゲーム感覚でいたわけではない。セックスの回数は多いのに、女性と付き合った経験は多分みんなより少ない。僕はどうしていいのかわからずにいたのだ。
 
 僕と彼女の距離は近くなった。
 僕がはじめて彼女の習作を読んだとき、彼女の感性が研ぎ澄まされていることに驚いた。人間をよく観察した深層心理。突拍子もない想像力。僕はぎゃふんとした。負けてる……。
 彼女は新しく書いたものを僕に見せ、意見を求め、相談を持ち掛けるようになっていた。あなたは安全だから、と。
 彼女は純粋にいいものを書きたいだけなのだが、ほかの人では下心が見えて嫌なのだという。確かに僕は今のところ悶々とした時のはけ口があるから、その辺のことは切実ではない。
 でも彼女に触れたいという気持ちは、有り余るほどある。いつまで安全パイでいられるだろうか。
 
 次期の受講を受けるか決めなければいけなくなった頃、いつもの喫茶店で僕らは会っていた。テレビ局が公募する、シナリオ大賞に応募するための作品を見直していたときだ。
「あなたは私に興味がないですか」
 彼女は頬を染めて下を向いたままポツリと言った。
 僕は初めてみる弱気な彼女の、切羽詰まった感情におちていった。
「あるよ! ある、ある」
 この一瞬を逃したら彼女は手の届かない存在になってしまう。
僕は一生懸命走ってタッチダウンした選手のように、息せき切って答えて彼女に笑われた。ああ、可愛いなあ。僕はこの笑顔を持つ彼女が好きだ。
 好きになって付き合うか、好きになられて付き合うのか。僕らの場合、どちらがどうこうよりも、こうなる運命だったんだ。
 僕らの意見交換会は、この日からデートに変わっていく。
 
 初めての応募作が最終候補に、二人とも残っていた。
 大賞はとれなくてもここまで来た。僕は手ごたえを覚え、このまま頑張れば仕事になるだろうとふんだ。ママとの性活から彼女との生活に変えられる。前途は明るい。
 今日は気の早い祝勝会をする予定だった。
「これから、母のお店に行かない?」
 彼女のおかあさんは六本木の奥で小さな店をやっていると聞いていた。公認になるのだ。僕はもちろんオッケイした。
 僕は彼女と並んで歩きだした。彼女の道案内で路地に入る。見覚えのあるくねくねした路地。僕の目の奥は不安定に揺れていた。
 まさか、まさか、まさか……。
 僕の人生はいま、起承転結のどの部分に向かっているのだろう。