小説(三題話作品: 生 入道雲 ウイルス)
バトル オブ ウイルス by 勇智真澄
すみませーん、ナマふたつ! お願いします。
ソーシャルディスタンスで飛び飛びに使われている居酒屋の客席の間を通りすがる店員に、千夏は指でVサインを送り生ビールのおかわりを注文した。ふたつ、に力を入れた後に、とってつけたような、お願いします、をつけて。
頼んだ後で聞くのもなんだけど、弘子も飲むよね。
え、なに? "千夏のそういう性格、ちっとも変ってない"って、そうかな? というより、そういう性格ってどういうことよ、と千夏は思う。
中高一緒で親友だった弘子とは、千夏が里帰りすると決まって会う仲だが、千夏に同棲する彼氏ができてからは実家に足が向かなかったので、今日は二年ぶりの再会。なにせ、彼氏といる方が楽しかったから。
この時期によくこれたね千夏、って? 弘子、それは非難なの? あ、そうじゃなくて移動の大変さを心配してくれたのか。ありがとう。でも、実は一か月前からいるの。ずっと自宅待機、してたようなものだから、たぶんきっと、心配ないよ。
政府が発令した緊急事態宣言の前に、千夏は横浜を離れ帰省していた。ただそれは、この事態を見越してのことではなく、たまたまのことだったにすぎない。
そんな前からいて連絡しないなんて水臭い、と弘子に怒られ、千夏は、ごめん、と素直に謝った。
そうか……。派遣切りか。そう言い、弘子はグビッとビールを喉に流し込んだ。
新型コロナウイルスが徐々に日本中に広がりはじめた頃だった。まだこのウイルスがもたらす危機感が現実味を帯びていないころ、千夏の派遣契約期間満了後の延長更新はされなかった。
正社員は仕事上で自分の時間を調整できるけれど、派遣社員はその分の仕事を頑張ってこなし雑用もこなしている。ほっとひと息なんて、サボってると思われるからできず、いつも気が張っていた。なのに、あなたはいらないと言う理不尽さという奴に千夏は引っかかってしまった。ろくでもない奴との出会いだった。
契約期間満了なのだから、派遣切りでもないだろうし文句は言えないのだけれど、つい千夏は愚痴ってしまう。
40を目前にした辛うじて30代の千夏は、条件の良い次の職を手に入れるには難しい年代になっていた。
弘子はいいね、だんなが稼いできてくれるから。千夏は、つい口にしてしまった。
三年前にできちゃった婚をした弘子は、田舎は給料が少ないし、子供にもお金がかかるからとパート勤めをしていたのだ。弘子は千夏の言葉を気にする様子でもなかったが、千夏は言わなくてもいいことを言ってしまった、と心の中で反省した。
マイキーと別れたのかって? 別れたというか、喧嘩して飛び出してきた。仕事もなくなってイライラが募っちゃって。
マイキーというのは、千夏の同棲中の彼、マイクのこと。マイクはアメリカ人の父と日本人の母を持ち、海外での生活の方が長く、千夏より五つ年下。千夏がマイキーと呼ぶので、弘子もその愛称で覚えてしまっている。
喧嘩の原因? なんか小さなことのいざこざの塊が、ストレスを栄養にどんどん大きくなって爆発、ってとこかな。
マイキー、洋服のセンスが悪くって私が揃えてあげてたのに、千夏が好きでやってることだろって。ひどくない。
でも、あげてた、って、千夏。押しつけがましいよ。ハーフの彼が、顔立ちのいいマイクがよかっただけなの? 千夏の着せ替え人形じゃないんだよ。そう弘子に言われた。
確かに、千夏はマイクの顔が好きだった。顔から入った、と言われても仕方ない。顔やスタイルを重視する。それは男性だけの特権じゃないでしょ、と千夏は思うのだ。そこから恋人に、そしてその先へと発展していくことは多々あるでしょ、と。有名人なんか特に美男美女のカップルじゃない。
千夏は、自分が美女とは呼ばれないまでもそれなりに整った顔立ちだと思っている。前髪パッツンの黒髪を肩まで伸ばしているのはマイクの好みだ。
トイレットペーパーはミシン目から切らない。それも気になるの? なんか聞いてると、なにもかも全部千夏の物差しじゃない。千夏は昔からそうだけど、もういい大人なんだからさ……。千夏の言うアレコレの喧嘩の原因は、弘子をあきれさせた。
仕事を失ったあの時。もうすぐ大台に乗ろうとしていたあの頃。千夏の弱った心には疲れと先行き不安というウイルスがいた。それは自分自身の力だけでは増殖できないけれど、ストレスという細胞に寄生して増殖していた。
千夏はマイクに生活のすべてを委ねてしまいたかったのだ。ただマイクからの、あの言葉を待っていたのだ。
なのにマイクは、働いていようがいまいが、僕はエネルギッシュな千夏が好き、と言う。今の千夏は苛立っているばかりで疲れると。
それって、結婚に逃げようとしてない? 弘子にそう言われた千夏は、はたと思う。逃げてきたのだ。千夏の思い描いた答えがマイクから得られなかったから飛び出してきたのだ。
弘子が時間を気にし始めたので、お開きとなり千夏は家路についた。弘子は家族の待つ家に。
弘子と話して少し鬱憤が晴れた気がしたが、千夏はマイクに会いたい、話したいという気持ちが抑えきれなくなっていた。
千夏は、マイクはすぐ連絡をくれると思っていた。でも、マイクは連絡もよこさない。千夏は意地になって自分からは連絡すまいと頑なになり、時間が過ぎていった。
千夏は意地を張り、大切なものを見失なっていた。その感情が落ち着き、怒りの感情、落胆の感情から力を抜き、素直な気持ちで自分の心を見つめ直した。
許せないのはマイクのことではない。自分の気持ち。素直になれない自分の気持ちなのだと気づいた。
マイクは千夏が嫌いになったのではなく、優しく包んであげたいと思っていた。そう思っていた矢先に、千夏がアレコレ言い出してカチンときた。売り言葉に買い言葉が飛び交うことになり、田舎に帰る、と千夏が出て行ってもマイクは追いかけなかった。
千夏の気持ちが落ち着いたら戻ってくるだろう。そうしたら、ちゃんと向き合って話そう。なにせ、ちゃんと話せば誤解も解け、理解し合えることばかりなのだから。
そう思いながらもマイクは、自分からは連絡しない、とどこか意地になっていた部分があり、千夏からの連絡を待っていた。
僕はいつも千夏を大事に思っているよ。
千夏からの電話に出たマイクの開口一番だった。千夏は涙をこらえて携帯から聞こえてくる声を聞いていた。
―― バトル オブ ウイルス……。
ウイルス? ウイルスがどうしたの? マイクはどこか具合が悪いのかと千夏は心配になった。
マイクはいつも大切なことを英語で言う。
千夏の語学力では、相手の見えない電話口での会話を正確に聞き取れないこともある。ま、日本人の自分も、込み入った話になると母国語の方が楽だから文句は言えない。だから、理解力がたまにずれる。それでも千夏が一緒にいたいと思える相手、マイク。
マイクは千夏に聞き取れるように、ゆっくりと繰り返した。
Fruitless battle of wills (フルートレス バトル オブ ウイルス)……。実りのない意地の張り合い。僕たちはそれをやめよう、と。
千夏はすぐにでも、マイクの待つ二人の部屋に戻りたかった。
しかし、感染という上昇気流に乗った新型コロナウイルスは、あっという間に大きな入道雲になり、国中を暗く覆いつくした。外出自粛要請が出され、ステイホームが始まった。
千夏の疲弊した心に宿っていた ウイルス(virus)は、マイクの優しさが特効薬となりストレスが寄生できる細胞は消滅していった。
新型コロナウイルス感染症に効く特効薬が開発され、自由にどこにでも出かけることができるまであとどれくらい待てばいいのだろうか。それまで、このウイルスに侵されることなく自粛の辛さと戦っていかなければいけない。
千夏とマイクの遠距離恋愛が始まった。寂しさとの闘いに打ち勝つ準備はできている。
次に会うときには一緒に市役所に行こう。婚姻届けを出すために。マイクの言葉が、千夏の活力源となった。心は結ばれている。