小説(三題話作品: うし スマート つばき)

あなたがいることで by 勇智真澄

 
 開通したばかりのシーサイドロードを星川椿(ほしかわつばき)は走っている。このラインができて週に数回の往復が便利になった。椿の自宅から県内のほぼ南端に位置する実家までの小一時間は、椿ひとりの自由な時間。スマホからブルートゥースで飛ばしたお気に入りの音楽が車内でランダムに流れている。椿はハンドルを握る両手に力が入るのを感じながらアクセルを踏む。雪道だというのにすれ違う車はスマートな運転で走り去る。対向車が途切れると右側に海が見えた。
 冬の海には荒れた波がたち、その波は陸に近づくにつれよくかき混ぜられたホイップクリームのように滑らかに白く、そこだけ動きが止まって見える。それはやがて陸地手前で風に乗り、ふわふわと舞い上がる波の花になるのだろうか、と椿はそんなことを思いながら母の待つ家に向かった。

 椿には母を苦手だと思っていた時期があった。
それはいつだったのだろう。椿が思うにたぶん、あの言葉を聞いたころかもしれない。椿が中学生になるころ、父には他に寄ってくる家があった。母は父を攻めたてもせず、椿に「あなたがいることで、別れられない」というようなことを言った。幼かった椿はその部分だけを切り取って覚え、その言葉に傷ついた。私は母の重荷なの? 
 言葉の意味を、そのころの椿はひねくれて解釈していた。自分は望まれて生まれたのではない、邪魔者なのだ、などと悲劇のヒロイン化していた。
 言葉は時として怖いものになり、言葉は時にうまく伝わらない。受け手のとりようによっては良くも悪くもなるものだ。本当は、あなたがいるから頑張れる、というようなことを言ったのだろう。
 父の二重生活は長続きせず、母は何事もなかったように父と暮らした。それからずっと、椿は幸せそうな母を見ていた。
「男なんて、少なくても一度は過ちを犯すものよ。それに目くじらをたてたところで何の解決にもならない。牛のようにドッシリとノンビリと終わるのを待つしかないの」
 我慢ばかりして弱いと思っていた母が語った言葉はとても強く椿の心に響いた。
 
 椿の夫、星川源(ほしかわみなもと)は単身赴任先から3年ぶりに戻ってきた。そして在宅勤務。テレワークが主となり、会社に行くのは月に数回程度となった。一人娘の楓(かえで)は、就職を機に家を出てアパート暮らしをはじめたばかりだった。
 ひとりの暮らしが退屈だと思える日もなく、亭主元気で留守がいい、にどっぷり浸っていた椿は夫とふたりだけの毎日のベターな生活に慣れないでいた。
「もう、早く食べて」
 出社時間も帰宅時間も気にせずにいられるテレワークの夫は椿をイライラさせる。
「もう。みなもったら。こぼさないでよ」
 源のちょっとしたことが気に障る。
「もう。きょうは買い物に付き合うって言わなかった?」
 読んでいる新聞から目を離さない源がポツリと言った。
「もう、もうって……。つばきは牛みたいだね」
 うし? 私が、牛? 
 そうだ、私は母のように牛になっていたことがある。
楓が幼いころ、楓ばかりに気を使っていた頃、源は寄り道を始めた。椿の女の感は女の存在を感じた。
 高身長でもなく童顔の源は、その一字違いの歌手と見間違う名前の字面のせいか興味を持たれやすい。椿も最初はそのクチ。離れ気味の目も椿の好みだった。付き合ってみると穏やかな性格で、食の好みも笑いどころのツボも同じで居心地がいい。
 あなたの心をつかみたい。椿が初めて積極的になったのが源だった。思い返してみるとあきれるほどの行動力と瞬発力だった。
 源の寄り道や余所見は一過性のこと。そうさせたのは娘にばかり目を向けていた椿なのだ。源は嘘が下手だ。源がバレバレの隠し事を増やさなければいけない負担をなくすように、椿は源にも目を向ける努力をした。椿が源を好きなことは消せない事実だから。楽観はいけないけれど焦らずに、その終わりを待った。母のように。

 父が他界し一人暮らしとなった母の元へ、椿は時間を作り通うようになった。
 新型ウイルスが蔓延し感染者が増加し緊急事態宣言が発令され、日本は大変な事態になっている。いや、日本だけではない世界中が解決策のない現状況におびえている。首都圏に住む椿の兄は帰って来られる状態ではない。それもそうなのだが、もともと兄は嫁に財布を牛耳られ、なおかつその尻に文句なく敷かれているのだ。県外移動自粛要請が出されるなか、かろうじて県内の移動で済むことは椿にとって幸いだった。そしてそれは椿と源にとっても、互いの時間をつくることができる良い機会となっていた。
 母がまた同じ話をする。それもかなり昔の話を繰り返す。
「椿はね、春先に真っ赤な花を咲かせて、春を迎えるおめでたい花なの。むすめが生まれたときにあそこで咲き誇っててとても綺麗だった」
 母は懐かしむように庭の常緑樹を指さしていう。深緑色の葉は寒さにも負けず生き生きとしている。つらいときを耐え忍べば春にはまた花をつけられる、とでもいうように。
「それでね、椿っていう名前にしたくておとうさんに相談したら、おとうさんも椿がいいと考えてたの。むすめに会ったら名前の由来、教えてやってね」
「おかあさんったら……」
 夫を亡くしてから2年。まだ75歳だというのに、まだらに壊れていく母の変化を椿は受け止めるしかなかった。まだ、なのか、もう、という年齢なのか計り知れないが、椿はまだ、だと思う年齢だ。母の記憶の白い波は脳内で過去にとどまり、まるで波の花のようにふわふわと舞い上がっては、時折現実に降りてくる。母自身そのことは薄々感じ、戸惑いの感覚を覚えていたようだ。
「椿がいてくれるから、あなたがいることで、おかあさんはちっとも寂しくない。でも、この先おかあさんに何があっても、椿は椿の人生を歩きなさい。手に負えなくなったら遠慮なく施設にいれてちょうだい」
 現実に舞い戻った母が今しかないとばかりに、椿にそう告げた。
 椿が母の変化に気づかなかった当初、昔の話をする母に、もう聞き飽きた、と邪険な返事をしていた。うんうん、と優しく聞く耳をもっていなかった。椿は人の痛みがわからないことばかりしていたのではないかと自分を顧みた。

 冬晴れの午後、緩んだ雪にタイヤをとられながらも椿は束の間の太陽の光を受け、気持ちのいいひと時を満喫しハンドル操作をしていた。ダイムラー社のスマートフォーフォーは小さくても衝突安全性が高く、雪にも強いので源と試乗して決めたほぼ椿専用の車だ。昨夜は実家に泊まったので、きょうは早めに家路につくことにしたのだ。
 帰宅すると源の姿がない。
 あれ? 会社に行く日だったかな。そんなこと言ってなかった気がするけど……。椿は源の行動を把握できていないことが気にかかった。また余所見をさせる同じ過ちを繰り返すのではないかと。もしかしたらもう繰り返しているのではないかと。
 母の行動は徐々に過去に戻ることが多くなり、椿はこの先どうしたらいいのか考えあぐねていた。ヘルパーさんに依頼しているとはいえ、それだけで済むはずもない。母のことも源とのことも、優先順位なんかつけられない。椿にとってはどちらも大切で大好きな人なのだ。抱えきれなくなった椿は源が帰ってきたら、やっぱり相談してみよう、話し合ってみようと思い、夕飯の準備に取り掛かった。

 自宅にばかりいると日常がマンネリ化する、それに運動不足でなまってしまった体がどうにも気だるい。せめて散歩をしよう。源は近所の散策を始めた。マスクをしての散歩は息苦しくなり、公園の横にある図書館で休憩することが日課になっていた。この日課もいつかマンネリになるかもしれないが。
 何となくチラチラと書架棚に並ぶ本を見ていたら、とある背表紙のタイトルが源を呼んでいた。源は答えるようにそれを引き抜き手に取った。[あなたにもできる簡単DIY]
 DIYはDo It Yourselfを短縮したもので、やってみよう、ということらしい。閲覧室に関連した本を数冊持ち込み、源はページを捲っていた。これだ! 源の心に、ある目的が閃いた。
 源はあと2年で50歳になる。椿はその2歳年下の48歳。源の勤務する宿泊サービス業界も安泰とは言えないご時世になっている。仕事を失う人も少なくない中、仕事がある源はいい方だろう。だが、この緊急事態が続くようならば、会社もいつどうなるかわからない。源の仕事だって保証されているわけではない。
 源は閉館のチャイムが鳴るまで時間を忘れ、思いに没頭していた。冬の日没は早く、外は暗くなり始めている。源は急いで家路についた。

 椿がカーテンを閉め終えたとほぼ同時に源が玄関ドアを開けて入ってきた。思いつめた顔で「話があるんだ」という源に、「お帰り」とも「私も相談したいことがある」とも言えず、なんの話かと椿は怯んだ。
「おかあさんと一緒に暮らさないか」
 食卓に着いた源の、開口一番だった。
 良くない話かと身構えていた椿は、源の言葉を理解するのに一瞬時の流れを止めていた。
「……。おかあさんって。わたしの?」
源の両親は離婚していて、それぞれ再婚している。ちゃんと考えれば、おかあさん、といえば椿の母しかいないのがわかるのに、椿は素っ頓狂に聞いた。
「そうだよ」
 源は意に介さない。
 え? え? それって私が言おうとしていたこと。椿は驚いた。

「ここで?」
「おかあさんの家で。ここは楓が住めばいい。テレワークだから仕事に支障はないし、時間はあるから僕らでリフォームしてさ。おかあさんの茶道具、たくさんあるし、それを使って甘味処みたいなのをゆくゆく開くのもいいかと思うんだ」
 椿の母は茶道と華道を教えていたこともあり、確かに器は沢山ある。
 椿はその提案に涙が止まらず、「でもいいの? ほんとに?」と言うつもりがフニャフニャと鼻水をすする音に混じって言葉にならなかった。
 源は椿の頭を優しくなでた。楓がこの場面を見たら、いいトシして、とからかうだろう。でも、いいトシって何歳からを言うのだろう。いくつになっても男と女の心を持っていてもいいじゃないか、と椿は思う。そんな関係はとても心地のいいものだ。

 椿が泣き止むのを待って、源はエコバックから数冊の本を出した。それは図書館から借りてきた本でDIYや介護に関するもの、そして茶道に関するものもあった。
 源の寄り道は他の誰かの所ではなく図書館だと知り、自分の思い違いの不安要素が取り払われた椿はまた安堵でほっとした涙をひとすじ流した。
「ここ読んでみて。恥ずかしいけどそんな感じだから」
照れくさそうにそう言い、源は〔茶と花〕というタイトルの本のページを開き、椿に渡した。椿は文字を追った。
【茶花:椿の美は茶の湯に発見され、茶の湯は椿を得て最高の伴侶をみいだした】
「おかあさんのこととか、椿はひとりで悩んでただろ。なんか人生が停滞しているみたいで僕もつらかった」
 椿は源の気持ちの大きさに、再び気づかされた。ちゃんと見ていてくれる人がいる。あなたでよかった。
 あなたがいることで、明るい道の光が見える。あなたがいることで、未来へと歩く勇気がでる。あなたがいることで、強くなれる。あなたがいることでこの先もずっと……。
 抑えていた感情がまた爆発してしまう。椿の涙腺は崩壊寸前だった。