71年前のノルマンディーの海景色 by Miruba

日本では戦後70年として戦争の悲惨さを思い起こそうとしていた2015年の夏。
国民としての反省も含め二度と戦争を起してはならないという思いは強い。
世界中の人も同じ考えだろうと思うのに、紛争や戦争が世界から消えることはない。
戦後71年となるノルマンディー上陸作戦のあったフランス北部、英仏海峡に面するオハマビーチに行ってみた。

 
1944年6月6日連合軍によって行われた、ナチス・ドイツ占領下の北西ヨーロッパへのオーバーロード戦略、いわゆるノルマンディー上陸作戦は、最終的に200万人近い兵員がドーバー海峡を渡り、傷死者12万人を出した。
フランスをドイツから開放する為の戦争だったといえるだろう。
第二次世界大戦終戦の為には必要だったと歴史は言うのだろうか。

 
パラシュートで浜辺を目指した兵士達はノルマンディーの地を踏む前に待ち構えていたドイツ軍の拳銃で撃たれ、海から入ったものは海に落ち何もしないまま死んでいったという。血の海だったためにオハマビーチはブラッディーオハマ(血塗られたオハマ)とよばれたという。そのように頑張ってくれたアメリカイギリスなどの国々には恩があるだろうに、フランス政府はいつもイギリス・アメリカ政府に批判的なのが不思議だ。
 
オハマビーチにある戦死者のお墓の列。アメリカイギリスなどから補助があるのだろう、大変きれいに整備されていた。芝生の刈り方からパリなどと全く違う、その整然さに日本のようだと思った。

 
このような記念館がノルマンディーにある海岸の街にはあちこちにある。

 
正直、この像は趣味が悪いと思う。

 
防空壕の中では情報通信はかかせなかったが、ドイツ軍はイギリスに送り込んだ情報員の裏切りに遭い、ノルマンディー作戦の情報を捕らえられなかった為に負けたといわれている。

 
9世紀ごろ北方バイキングが侵攻し住み着いたノルマン人にちなんでつけられたというノルマンディー地方は、15世紀にフランス領となった。イギリスから最も近いためにたくさんのイギリス人が訪れ、ホテルで食事をしていてもフランス語より英語のほうが聞こえてくるイギリス人に人気の街でもある。

 
 
パリから2時間半Bayeuxバイユーという街に向かった。
この地にはノルマンディー公ウイリアムのイングランド制服を描いたタペストリーがあるのだ。幅50m長さ70mの迫力は見てみないと味わえない。写真のタペストリーは教会に飾ってあるレプリカ。

 
カマンベールチーズはノルマンディーの特産。りんごが採れる所からシードルという炭酸の含んだアルコールが有名だ。もっと強いアルコールを望む場合、リンゴ酒を蒸留させた薫り高いカルヴァドスがお薦めだ。

 
ホテルはミシュランガイドにも載っていない旧家をホテルに改造したものだった。フランス政府は補助を出して、旧家をホテルにして保存するという政策に出ているという。

 
ホテルの食堂10人ほど座れる大きなテーブルでの食事。
同じテーブルなので自然に話をするようになる。
この日隣の席に座ったマダムはフランスの北、リールから来たという。
だがフランス人はこのカップルだけ、他に4組のカップルがいたがみんな英語だった。

 
ノルマンディーの旧建築はすべて木組がしてある、石が採掘できず木を使ったので、独特の建築物になったが、後に火事になったときに被害が大きいとして建築が禁止されてしまった。

 
城壁にしか見えないけれど、これがお城。

 
カーンCaenの街に来た。ドイツが一番力を入れて占領していたこの街は、1944年6月6日から陥落するのに2ヶ月もかかり、第二次世界大戦が終わったとき、街の4分の3が爆撃を受け、一面の焼け野原だったという。

 
だがその後復旧作業が進み、サンテティエンヌ教会は美しくよみがえっている。

 
「輸送機は西から東へ進んだのだが、半島を横切るのに12分しかかからず、降下が遅すぎた者は英仏海峡へ落ち、早すぎた者は西海岸から冠水地帯の間に落下した。…ある者は飛び降りるのがおそすぎ、下の闇をノルマンディだと思いながら英仏海峡へ落ちて溺死した…いっしょに降下した兵士たちはほとんど重なりあうようにして沼に突っこみ、そのまま沈んだきり上がってこない者もあった」
— コーネリアス・ライアン「史上最大の作戦」pp.199-200 wikiより
そんな中、サント=メール=エグリーズの教会に、82空挺師団ジョン・スティール二等兵は、パラシュートが教会の屋根にひっかかり、ドイツ軍がいる町の真ん中に降下してしまったという。捕虜になるまで死んだフリをしていたとのことだ。
今は人形が飾ってある。

 
最後に大型戦艦が入れるほどの深水のあったというシェルブールの街へ向かった。この街も戦争で破壊されたため、新しい復興した街だ。


シェルブールは第二次大戦のときも使われたが、その後1957年のアルジェリア戦争の時、多くの兵隊がこの港から出て行った。その物語がカトリーヌドヌーブを有名にした「シェルブールの雨傘」だ。ジュヌヴィエーヴという17歳の女の子とギィという20歳の男の子の恋物語。二人は夢をかたり、ガソリンスタンドを経営し子供はフランソワという名前にしようねと約束する。だが戦争が二人を引き裂いた。すべてが歌で構成されたミュージカル仕立てで、歌を歌ったダニエルリカーリもこの映画で知られるようになった。

戦争は恋も引き裂き、愛を挫き、人々を不幸に陥れる。
二度と起してはいけないとつくづく思った。
 

シェルブールの雨傘を彷彿とさせるのは、この銀行の壁の傘だけだった。/6月の額あじさい.日本ではあまりみられない濃いピンクだ。