小説 モンマルトルの悲哀 by Miruba
何故か目覚ましがなる前に目が覚める。
これは子供の頃からだ。
念のための目覚まし時計が鳴り始める。
先ほどから起きてはいるのだが、今日はなんとなくまだベッドから出たくない気がした。
だが、急がないといけない。Enterrementアンテールマン(葬儀)は10時からだと聞いている。
モンマルトル墓地まで40分は見たほうがいいだろう。
作家のスタンダールや詩人のハイネ、作曲家のオッフェンバッハなどが眠る静かな場所に、行かなくてはいけない。
葬儀の時フランス人は上流階級の人だけが黒い服やベールの着いた帽子をつける。
多くの庶民は黒い服を着ないどころか、下手したら身内だってGパンなどで参列するから驚いてしまう。
気持ちさえあればどんな格好でもいい、という自由思想からきた考えには、まだ賛同できない。
人間の生や死は宇宙の中の一過性のものと捉えるより、もっと荘厳であってほしい。
昔は白装束だった日本でも今は黒装束の時代、その時代で変化はあっても、儀式に対する礼儀として身につけるものに決まりのある日本の風習は大切にしたいと思う。
親しく交流があったから、私はせめて紺色のスーツくらいは着ていこう。
私の主人(いつもあだ名のようにムッシューと呼んでいたのだが)、そのムッシューが亡くなった時、真っ先に飛んできてくれた友人のリョウが、まさかこんなに早くこの世を去るなんて、誰が想像できただろうか。
モンマルトルには普段から散歩に出かけるので大丈夫とは思ったが、ムッシューが眠っているペール・ラシェーズ墓地と違いモンマルトル墓地は初めてなのでタクシーを使うことにした。
マンションの管理人の旦那さんがタクシー運転手なので、時に頼むのだ。
「Ça va? 大丈夫かい? 20分もあれば着くから、寝ていたらいいよ」と言ってくれる。
「Merciありがとう。今日は少し雨が降っているのね。亡くなった友人が泣いているのかしら」
「みんな天国に行って幸せになるんだ。悲しみ過ぎてはいけないよ」
キリスト教の考えね、そうか、皆天国に行くのか。
悲しく切ないのは、生きているからなのね。
私はタクシーの後ろに乗ってシートベルトをする。
折りたたみの白い杖を座席に置いた。
リョウと知り合ったのはムッシューの紹介だった。
正確に言うと、リョウの彼氏さんとムッシューが知り合いだったのだ。
リョウは涼二といい、彼氏さんはグザビエと言う名だった。
ル・コンテ(伯爵)の出で、上品だがアングロサクソン系の体格のいいフランス人だった。
Xavier「グザビエ」と言うフランス名は言いにくいが、「ザビエル」という名前と同じといえば日本人にはなじみがあるかもしれない。
パリにてイエズス会を作ったフランシスコザビエルの名は聖人名としてフランス人の名前にときにみかける。
貧乏画家だったリョウは、サクレクール寺院横手にあるテルトル広場でウロウロしているときにグザビエと知り合ったらしい。
男同士ではあったが二人が友人から恋人になるのに時間はかからなかったという。
テルトル広場は画家の広場で有名だが、絵で商売ができるのは限られた絵描きだ。
そこからもあぶれた絵描きがたむろする場所でもある。
モンマルトル近くにあるグザビエの家の一室をアトリエとして生活していた。
リョウが後に日本で個展を開くとき、グザビエも毎回同行した。
そしてグザビエの元伯爵という人脈を利用し、日本在住の社交界の人が観に来たり買ってくれたりしたので、それが日本人の興味をそそり又売れるという相乗効果で、リョウはグザビエのおかげでいっぱしの画家に成長し、絵が売れることでグザビエの生活にも潤いを与えていたようだ。
そんな関係が10年も続いた頃、グザビエがアルツハイマーとの診断を受ける。
認知できなくなってもなお、リョウの、愛するグザビエへの介護は傍から見ても献身的だった。
ル・コンテであるグザビエの親戚は同性愛関係のリョウを認めなかったが、グザビエが発病後8年後に亡くなった時、グザビエの兄だけは味方をしてくれたという。住んでいた部屋は取り上げられてしまったけれど、時代がかった家具や調度品はすべてリョウのものとなった。
調度品を売らないと、新しく住む部屋を買うことも借りる事もできず、遺産の査定人に見てもらった。
査定は驚くほど安かった。
リョウは査定人を怒鳴りつけたという。
「グザビエは誇り高い本物のル・コンテだった。彼の持っていた物達がそんなに安物のわけが無い!」
査定人は
「査定には自信がありますし、あなたのためでもあるのですよ。ですが、そうおっしゃるなら高い評価にしておきましょう」
査定の値段が高かった為に、贈与税が家を一軒買えるほどになったという。
馬鹿なリョウ。
グザビエの後ろ盾がなくなり、リーマンショック以来すっかり売れなくなった絵では払いようも無いし、そもそも調度品や家具にはその価値が無いので売っても二束三文では贈与税を払うすべは無かったのだろう。
リョウは精神的に追い込まれ、グザビエの死後半年、自ら死を選んで、愛する人の後を追ってしまったのだった。
他にも生活を立て直す方法はいくらでもあったはずなのに。
タクシーがモンマルトルについた。
リョウは仏教徒だった。フランス在住のお坊さんがお経を唱えてくれる。
日本からお兄さんが来ていた。10年以上会っていなかったという。
グザビエのお兄さんと言葉を交わし泣いているのがわかった。
私はムッシューの死後、リョウに何度も助けてもらった。
なのに、リョウの苦悩を支えることが出来なかったことがこたえる。
タクシーの運転手さんが式の終わるのを待っていてくれた。
雨脚は強くなり、窓ガラスに打ち付ける。
なんとも言えない寂寥に私自身が押しつぶされそうだ。
携帯が鳴った。
「連絡もしないでごめん。今仕事でパリについたんだ、又暫くこちらに居るよ、今日逢えないかな?」
ひょんなことから知り合ったカメラマンの彼だった。
パリの秋景色を撮影に来たのだろう。ヨーロッパに来る度に寄ってくれるのだ。
その懐かしい声を聞いて、私はつい泣き出してしまった。
「え? ね、どうしたのさ? 今どこにいるの? 直ぐ逢いにいくよ・・・」
彼の声が耳にやさしく響いた。