パリの街の門のお話・新凱旋門 by Miruba

★新凱旋門( la Grande Arche de la Fraternite <グランダルシュ>)
メトロ1号線、RER-A線 La Defense Grand Arche駅を出てすぐ目の前。
 
 故ミッテラン大統領の命により、1985年に着工され、人権宣言200周年となる1989年7月に落成しました。門のような形をしており、側面と内部は全面ガラス張りになっています。

新凱旋門、というのは日本用の名まえです。ほら、国旗でもご存じの自由・平等・友愛=リベルテ・エガリテ・フラテルニテからきた「友愛の大アーチ」と言うのが正式な名称です。

戦勝を記念して建てられたものではないので、「凱旋」門ではないし、フランス語の名称にも "triomphe" (戦勝)の文字は入っていません。でも、パリの凱旋門やカルーゼルの凱旋門と同じライン上(シャンゼリゼ通りを伸ばした上)にあるので、新凱旋門と言う名前はぴったりかもしれません。少なくとも、本当にそう思っているかは甚だ疑わしい「友愛の門」という歯の浮きそうな名前よりは良いかも。

グランダルシュは幅:108m、高さ:110m、奥行き:112m で真ん中の部分に横に突き抜ける巨大な渡り廊下がある正八方体の形をしています。

中心の空洞部はノートルダム大聖堂がすっぽり収まるほどの大きさだそうです。

超高層のオフィスビルとなっていて、最上階の35階に展望台があり、パリの一大商業施設で、新観光名所ともなりつつあります。



Dalida & Alain Delon - Paroles, paroles   

小説「友愛のひと」

裕子が大学生の時フランス南仏近くの旧家にホームステイしたダルジャン夫婦と仲良くなり、毎年のように滞在させてもらっていた。
 日本での仕事も決まり、就職して恋人もできて結婚して子供を一人もうけ、その子を事故で失い、それがもとで離婚してもなお毎年のようにその家族への訪問は続いていた。
  
裕子が45才になった時、ダルジャン夫人が亡くなった。
ムッシューダルジャンの落胆が激しく、裕子は日本への帰国を伸ばして世話をした。
ダルジャン夫人は死に際、裕子にささやいたのだった。
 「主人は一人では生きていけない人なの、裕子、あなたに彼のこと頼んでもいい?」
それから2年後、ムッシューポール・ダルジャンと裕子は再婚をした。

 20代のころから裕子を見ているポールは、裕子が可愛くて仕方がないという愛情を示した。裕子もまた、ポールには自分の人生すべてを相談してき来ていたので、頼りになる男性だった。しかし一緒に住んでみるといろいろと首をかしげることにも出くわした。

裕子が驚いたのは、毎週のようにホームパーティーが開かれるのだが、ムッシューダルジャンの親友の奥さんが、「ね~ポール、来月私の子供の誕生日なのよ、パーティーやってくれない」などとぬけぬけと言う事だった。

何度も同じようなことがあって、裕子はたまらず「子供の誕生日パーティーは親がやるものなんじゃないのかしら」と、みんなの前で口に出したことがあるが、ムッシューは「いいんだよ」と請け合ってくれなかった。

最も裕子も、パリの街を二人で散歩していると、ふらりシャネルやヴィトンなどのブランドの店に入り、「裕子、君の好きなものを選びなさい」などと促されていくつも素敵な物を買って貰っていたので、強くも言えない気分ではあった。

ムッシューダルジャンはフランス人ではあるが、祖母が日本人だということで日本語は堪能だった。
戦争の時はフランス軍にいたが、戦後GHQに雇われ日本で通訳を務めた。
A級戦犯と言われて捕まった人たちの通訳をした時は、日本人に不利にならないよう言葉を選ぶのに苦労したという。

その後商売を始めて成功していたが、もともと南仏近くにある小さなダルジャン村という村の地主家族の出なので、商売らしい商売を知っていたわけではなく銀行の進めるまま会社を3つほど持っていた。
南仏の旧家と仕事場の有るパリと車を6.7時間走らせ週に何度か行き来をしていた。実際は急いでも8時間はかかる距離なので常時140キロ以上で走っていたことになる。

裕子は多くをパリの別宅で過ごした。
新しい凱旋門が出来るというので工事の音がうるさかったが、140キロの恐ろしい車に乗る気になれなかった。

そんな時仕事が一つうまくいかなくなってパリにあるマンションを取られそうになり、名義を友人に一時期替えてもらった。
パーティの席で出た話なので、一年後には名義を元に戻すという約束で税金分と名義変更分と謝礼をポールが払ったのは、友人たちみんな知っていた。

ニースでのヴァカンスを過ごしていた時、ムッシューダルジャンは石原裕次郎と同じ病気でドクターヘリのお世話になった。
800万円はするという手術の甲斐があって、何とか元の生活に戻ることが出来たので、裕子はホッとしたのだった。
 一年は静かに暮らしたが、日本での温泉が体にいいと思い込んでいるポールは3か月の予定で日本の温泉に行くことになる。
だが、ポールの体は渡航に耐えられなかったのか温泉に入らない前に突然亡くなってしまったのだ。

日本で火葬にしてフランスに戻り葬儀のセレモニーをした。
いつも集まっている仲間がいた。
悲しく静かな食事会となった。
誰かが言い出した。「ポールのアパートの名義は裕子にしないといけないな」
 すると、友人が答えた「あれは僕の名義にしたんだ。もう僕のものさ。固定資産税も払っているし」
裕子はあきれてものがいなかったが、周りの仲間がその友人を批判した。
すると、反発するようにその友人が怒鳴った。
「どうせ裕子は親子ほども年の違うポールの財産が目当てで結婚したんだろう? こっちはポールとは先祖代々の付き合いなんだ、こんな中国女に渡せないよ」
「お前こそ、祖先の恥だ」
皆で罵り合いになってきた。

 裕子は言った。
「いい加減にしてください。まだポールは亡くなったばかりなんですよ。ポールのいないこの地に未練はありません。遺産は放棄します、そして日本に帰ります」
 すると、あの誕生日を祝ってもらったポールの親友の子供が言った。
「ムッシューダルジャンが言ったよ、自分がいなくなったら、裕子が誕生日をしてくれるからねって」
母親も口をはさんだ。
「そうよ、裕子はもうマダムダルジャンなのよ。ここにいてポールの代わりにパーティーをして貰わなくちゃならないんだから」

裕子は、ずっと気が張ってたことに気が付いた。
パーティーのたびに、図々しいと思っていたこの親子の言葉に、なぜか暖かさを感じ涙があふれてきた。

今裕子は、新凱旋門近くにある別宅と、南仏にある旧家を守って、TGVで往復している。
以前のように多くはないがパーティーは欠かさない。
誕生日を祝ってやっていた子供はもう20歳になり、誕生日パーティーは卒業してしまった。
裕子は今さらながらムッシューダルジャンのパーティー好きに思いを寄せる。

「ムッシュポール・ダルジャンも、まさに<友愛の門>の人だったわね」
 パリの空に聳え立つ新凱旋門を見上げて裕子は独りつぶやいた。