小説(なす ゆかた 選挙)

それは夏の夜の出来事 by 勇智真澄

コツ、パチ、カン、カツッ……。
ヘッドライトの灯りに引き寄せられた幾多の虫が、フロントガラスにぶつかり自滅していく。ハンドルを握るいぶ季の耳は、絶え間なく聞こえる虫たちの、最後のあがきの音を聞いていた。
それは、いぶ季の心をざわつかせた宙太の声。宙太に見ていた夢が、ガラガラと失意に落ちていく音。
 
いなくなってしまえ。みんないなくなってしまえ……。
いぶ季はアクセルに乗せたつま先を深く押し込んだ。
一人っ子女子のいぶ季は、いもしない兄を跳ね、さっき会ったばかりの白長なすを跳ね飛ばしていた。
車の往来の少ないまっすぐに伸びた道は、まるで深夜の高速道路のようにスピードが出る。自分の心に住む断ち切れない思い虫がうごめいて、胸がキリキリ痛む。
そしてまた、いなくなってしまえ、いなくなってしまえ、と数多の虫を跳ね飛ばしていく。
 
「明後日は別々に行こう」
宙太がそう言ったのは、祭りの2日前。会社の同僚たちと約束したから、と言う。
いぶ季と宙太の家は隣どうし。ひとつ年上の宙太とは、幼い頃から兄妹の様に過ごしてきた。幼馴染の二人は何をするにも一緒で、というより、いぶ季が「ちゅうにいちゃん」と宙太の後を、金魚のフンのようについて回っていた。
隣町の夏祭りに行くのも、いつもそうだった。
「うん、いいよ」
ほんとは、ちっとも良くないのに、いぶ季の口は嘘をついた。失言だった。政治家の答弁なら白紙撤回できるのに、ほっとした様子の宙太を見たら、一度口をついて出たその言葉をなしにすることができなかった。
わがままを言って宙太に嫌われるのが怖くて、無理を言って宙太を困らせるのが嫌で、いぶ季は文句を言いたいのを我慢して微笑んでいた。
 
夏祭りに、いぶ季は一人で出かけた。
宙太は仕事場から直行するのだろうか、朝から姿が見えない。
いぶ季は、行けば宙太に会える、会社の同僚たちにも紹介してくれるだろうと思い車を走らせていた。
人出の多い祭り会場で、うまく宙太に会えるだろうか。そんなことは考えもしなかった。宙太のお気に入りの場所は知っている。
 
ほら、やっぱりいた。
いぶ季は射的コーナーで射的銃を構え、棚の人形に狙いを定めている宙太の後ろ姿を見つけた。
いつもと違うのは宙太の隣に、白い長なすが浴衣を着たようなスラリとした女性がいることだ。宙太の左腕に寄り添うように、一緒に銃の先を見ている。
その白長なすは、大事そうにテディベアを抱いていた。たぶん、宙太が打ち取った景品なのだろう。いつもなら、いぶ季が貰うはずのそれ。
 
白長なすは白地に牡丹模様の浴衣に赤い帯を締めていた。それが憎いくらい、色白の彼女に似合っている。
それに比べて私は、卵型なすに青い浴衣を着せて黄色い胴締めをしたようなものだ。いぶ季は、色黒でずんぐりむっくりとした自分の体型を恥じていた。
「こいつ、イブ。おれのいもうと、みたいなもん」
宙太は、そう白長なすにいぶ季を紹介した。
「よろしくね。イブ? ちゃん」
指先に帯と同じ赤色のマニュキアをつけた右手が伸びてきた。人差し指の爪には白い花が咲いている。
「いぶき、です」
そいうことか、そういうことか……。いぶ季は、握手を求めてきたその手を無視して、ぶっきらぼうに答えた。
恋愛運にきくと勧められて買ったツバメ柄の浴衣なのに、渡り鳥のツバメは巣作りもせず、いぶ季の元にはとどまらなかった。
 
いま、いぶ季の目に見えるのは、ライトが照らす道路の白線と暗い空に浮かぶ星、そしてフロントガラスについた亡骸の残骸。
ワイパーを何度動かしても取れない虫たちの羽粉やつぶれたときに出た汁は、まるでいぶ季の心についた汚れのように、取れるどころかドンドン白い薄い膜のように広がり視界の邪魔をする。
 
やがて、いぶ季は自宅に向かう小道に、大きく湾曲して入る。
カーブの頂点でアクセルを踏むと綺麗に曲がれる、と教えてくれたのは宙太だった。
いぶ季はブレーキを踏むことなく、宙太の教えどおりカーブを曲がる。遠心力に任せて体が右に傾き、ハンドルをきつく握った。
 
雑木林を切り開いて出来た道の先にいぶ季の家はある。
対向車もない寂しい道。
さわさわと通り抜けるかすかな風が、沿道の雑草を揺らす。手つかずの育ち過ぎた雑草が、ゆらゆらと頭を垂らし行ったり来たりしている。
その動きの隙間に何かある。
いぶ季は妙な気配に目を向けると、草むらにヒトらしき姿が見えた。
 
晴れない心のせいで幻でも見ているのかと、いぶ季は目を疑った。
少しスピードを落とし辺りを伺うと、やっぱり誰かいる。
行けども行けども、草むらの人影は先回りして車の先々に現れ、いぶ季をじっと見つめている。
 
もしかして!? いぶ季は背筋がぞっとした。
最近、複数での強姦魔が女性を拉致し、雑木林に置きざりにしたというニュースを聞いたばかりだった。犯人は捕まっていないという。
ながら聞きだったので、場所は定かではないけれど、それがまさか、ここだったのだろうか。
いまにも草むらから彼らが飛び出してきそうで、いぶ季は恐ろしくなった。
(……にいちゃん。ちゅうにいちゃん)なんでこんな時にいないのと、怒りと心細さが胸の中で走り回っている
とにかく、一刻も早くここから逃げようと、いぶ季はスピードをあげた。
やっと民家の灯りが現れて、いぶ季はホットした。同時に、草むらも途切れ、人影は消えた。
 
翌朝、隣家の車庫に宙太の車はなかった。
日曜日で仕事は休みのはずなのに、白長なすと一緒にいるのかと思うと、いぶ季は気が気ではなかった。
自宅の車庫に止めた車のバンパーやサイドミラーの裏に、昨夜の虫のかけらが張り付き、細かな凹凸のクレーター状態になっている。まるで腐食したトタン屋根のようにブツブツしていて気持ちが悪い。
いぶ季の、ささくれだった気持ちも負けじと腐食していた。心の片隅が痛んで噴火してできたクレーターのようだ。
 
気に病んでばかりいても仕方ないことなのだ。
いぶ季は、車に付着した汚れを洗い流すためにスタンドに向かった。
どうしても昨夜の人影が気になり、実況見分してみよう、日中なら危ないことはないだろうと、遠回りにはなるけれど昨日と同じ道を通ってみることにした。
 
やっぱり沿道に、ヒトらしきもの、はいた。
明るい日差しを受けて、そよ風に揺れる雑草から姿を現した人影は、胸の前で指を組み作り笑いをしていた。次の人影の笑顔は、メガネの奥の目が笑っていなかった。そして次はニッコリと白くした歯を見せてはいるが笑顔は引きつっている。
 
伸びた雑草のために、全容が見えなかっただけの選挙ポスター用の捨て看板。それが繰り返し、ところどころに立ててあった。
それも運転中の人に立候補者が良く見える様に、わざと低くしてある。
なんだ、これだったのか。
いぶ季は、自分の思い込みを笑った。笑いながら涙が出た。
 
いくら仲が良くても、自分の意に反すると怒りがわく。自分が思っていることには、何も言わなくても従ってくれると思うおごりがあった。
人の気持ちの変化の恐ろしさは、小さな出来事がきっかけにある。意に添わなければ、背を向ける。そっぽを向く。
いぶ季は、自分がまさにそうだったと思った。
 
そろそろ宙太への淡い初恋から卒業する時期なのだろうと、いぶ季は感じ取っていた。
選挙権のある年齢になったのだし、もうこどものままではいられるはずもない。
しっかりと自分の考えを持ち、何事もよく見極めて行動しなければならない。
責任のあるおとなへの一歩として、小さな清き一票だけれど、まず投票に行こうと決めた。
いつもと違う何か、変化をもたらす行動をして気を紛らわせたかったのかもしれない。
 
いぶ季が家を出たあと、ニュースが流れていた。
……車の前に動物のぬいぐるみを投げ、急ブレーキをかけて止まったところを男性数人が取り囲み女性を拉致。雑木林に連れ込まれ襲われた女性は、半裸ですり傷だらけの姿で道路に飛び出し、通りかかった車に保護されました。女性の命に別状はありません。警察は、これまでの一連の事件との関連を調査しています……。