Charles Aznavour Emmenez moi
私は30年ぶりにシャルル・ド・ゴール空港に降りたった。
前回はアメリカンチャーチで行われた姉の結婚式に参列したのだ。
その姉も昨年病気で亡くなった。
姉は結婚式の後一年もせずに夫に子供を押し付けて「欝」を理由に日本に帰国し、その後死ぬまで一度もパリの地を踏まなかった。
その子は姉が結婚前に付き合っていた不倫相手の子供だったと言う。
義兄は、生まれる前から判っていたとは言え、妻の連れ子を育てていることになる。
それも障害者で歩くことも出来ないと聞いているのだ。
義兄の姉への深い愛情を感じるほどに、姉の仕打ちの酷さを思った。
だが、私とて同じだ。どんなにか義兄が大変だろうとは思っても、日々の暮らしに追われ、今まで何もしてこなかったじゃないか。
日本の教員の職をいわゆるPTAのクレーマー問題で追われた私は、日本から脱出したかったのかもしれない。
パリには、日本人学校の教員の席を求めてやってきた。
いまだパリに住む義兄に、住まいなどの相談に乗ってもらったのだ。義兄は空港までワゴン車で迎えに来てくれていた。
「おお、美樹さん、すっかり大人で綺麗になっててびっくりした」と義兄が開口一番目を細めた。
「いやだ兄さん、大人になったって^^私もうアラフォーですよ」
「そうか。そうだよね。結婚式のとき中学生ぐらいだったから、何時までも子供のイメージしかないよ」と笑った。
「紹介するよ、これが弘樹だ。美樹さんの姉さん、亜矢のひと粒ダネだよ、こっちも大きくなっただろう?
あ、美樹さんは会ったことなかったものね。でも、弘樹の【樹】は、美樹さんからもらったんだよ」
私は、初めて聞く話に嬉しさを覚えながら、弘樹が震えながら差し出した手をしっかり握った。
弘樹ももう大人だった。だが車椅子に座って四肢を絶えずギクシャクと動かし、しゃべるのもろれつが回らないように聞こえた。
それでも、何度かの手術で随分と改善したのだという。
髪には白髪の見え始めた義兄が介護に追われているだろう事を想像し、可哀相になってしまった。
「兄さん、姉の勝手で大変でしたね。」と言うと、
「いや、いいんだよ。自分で望んでしていることだしね。
それに、これでも亜矢には悪いが2人や3人、良いひと(女性)がいたんですよ、な、弘樹」
「あぁ・・に・・ばん・・めの・・ひとが・・よ・・かった・・けど・・ね」
「こいつ~あのひとはお前の好みだったんだろう」
笑い合っているのを見て、私は少し、ほっとした。
ここまで来るのに、二人はどれほどの闇を潜り抜けてきたのだろう。
私は彼らの明るさに出会い、自分に起こった出来事など大したことがなかったのだと思えてきた。
部屋が見つからず、私は暫く義兄たちのアパートの一室に居候させてもらうことにしていた。
次の日義兄が仕事で出かけるのに、ヘルパーさんが来れなくなったとのことで、私が世話をするからと申し出た。
といっても私には何をどうしてよいかわからず、二人でテレビを見ていた。弘樹は、日本語放送を好んで観るという。
衛星放送で近く公開される世界一高い塔東京スカイツリーにあるレストランの話が流れる。
弘樹が何か言っているが、慣れない私には時々よく聞き取れないのが悔しい。
彼のほうが私よりはるかに歯がゆいのだろうに、一生懸命話をしてくれる。
どうやら「いつか日本に旅行に行って東京スカイツリーを観てみたい」といっているのがわかった。
「ね、エッフェル塔を見に行かない?私も見たいもの」弘樹は嬉しそうに、「うん」と、うなづいた。
仕事から帰ってきた義兄にその話をすると、
「美樹さんの観光ついでだ行こうか。でも今日はもう遅いから、エッフェル塔が綺麗に見えてここから近いモンマルトルに行こう」と賛成してくれて、午後5時過ぎといってもまだ明るい巴里の街へ車を走らせた。
空気はすっかり春のようだが、薄い雲が流れて霧のように雨が風に揺れていた。
「今年は日本の梅雨のように、シトシトと雨が降ってね。3月からほとんど曇りか雨の毎日だもの嫌になるよ」と義兄。
それでも私は巴里の歴史ある町並みと街路樹が、しっとりとした曇り空に似合っていると感じた。
アーモンドや桜の花が終わったばかりとかで、今はピンクと白のマロニエの花が満開だ。
車を駐車場に停めて、私たちは坂の街を少しずつ歩く。
<ウィレット公園>に来ると小さいマネージュ(回転木馬)が置かれた広場がある。頭上に<サクレ・クール寺院>が見える。
長い階段があるが、モンマルトルの丘の風物詩短いケーブルカー、フニクレールがあって、障害者やお年寄り、また観光の記念にと乗る人は絶えない。ケーブルカーは短いが寺院のふもとまで登れる。
「サクレ・クール寺院」は1870年の普仏戦争の敗北をきっかけにカトリック教徒の発案によって1876年に着工し、完成したのは約40年後のことだそうだ。また、私のふるさと長崎にフランシスコ・ザビエルが寄航したという記念碑があるのだが、日本にキリスト教の布教活動をするとして、ザビエルが作ったイエズス会が誕生したのがこのモンマルトルの丘だったという。
雨は傘を差すほどではないにしても、時折霧雨のように降り続いていた。
フードつきのコートを車椅子ごとかぶせて義兄は車椅子を上手に押す。自分もフードのついたブルゾンを着ていた。私だけ傘を差した。
私は歩きながら義兄に小声で話しかけてた。
「兄さん、姉は昨年死にました。知らせなくてすみませんでした」
「うん、噂で聞いた。いいんだよ。知らせてもらっても、お葬式にいけたかどうか。だけれど、弘樹には一回くらい会わせたかったな」
「姉は弘樹を捨てたのですもの。どんなに会いたがったって、会う権利があるわけないですよ。もっとも、会う気もなかったんです。母親として失格だったんですから。姉に代わって本当に兄さんには申し訳ないと思っています」
「亜矢は美しくてね。僕はそばにいてくれるだけでよかったんだ。結婚した頃は本当に幸せでね。
やっと僕を振り向いてくれた亜矢に感謝したものさ。毎日が花に溢れる春のようだった。今になっては楽しかったことしか覚えていないよ」
私たちは、サクレクール寺院下の道路を歩いていた。
広場では黒人やアラブ人の土産物屋さんが沢山いる。ジャグリングをしているひとが観光客の目を引いている。
楽団もいて、なんだか懐かしいようなロシア民謡の曲が流れた。弘樹がその曲を好きだというので体中で喜びを現していた。
「母親であるなら、一歳にもなっていない弘樹を兄さんに押し付けて日本に一人帰ってくるなんて、出来るわけがない。
出来るどおりがありません。薄情過ぎます。家族に対してもですが、死ぬまで本当に自分勝手な人でしたが」私は姉の批判を続けていた。
「ちがう。
違うんだよ美樹さん。君の姉さんが悪いんじゃないんだ。
僕のせいなんだよ。
弘樹をこんな風に障害者にしてしまったの・・・・この僕なんだよ。」
兄が、突然立ち止まって強い口調で言い出した。
「赤ん坊の時、弘樹が泣き止まないのに腹を立ててね。泣き止ませようと激しくゆすったばかりに。脳の血管が切れてね・・
脳に障害が起きるほど激しく揺さぶるなんて、僕は、僕は本当にどうかしていたんだ。
syndrome du bebe secoue シンドローム・デュ・ベベ・スクウエ<揺さぶられっこ症候群>というんだそうだ。
最初はわからなかった。症例が確立されていなかったしあの時たまたま受けた予防接種のせいだと思いこんでいたのでね。
弘樹は絶え間なく痙攣を起こすし、亜矢は育児ノイローゼになってね。精神的におかしくなって、出て行ってしまったんだ。
だから、亜矢のせいなんかじゃない。みんな僕がいけないんだよ。」
私は驚いて言葉を無くしたが、弘樹はすでに全てを知っているらしく、ろれつの回らないながらも、それでいてはっきりと言った。
「オヤジは・・馬鹿・・なんだ。僕・・なんか・・施設に・・預けりゃ・・良いのにさ。
僕の・・ために・・一生棒に・・ふる・・気だ。・・きか・・ないん・・だ」言葉を搾り出すようゆがめた顔から涙を見せた。
「弘樹」義兄の顔も揺れた。
「僕には・・母親も・・父親も・・いない・・ずっと・・昔に・・死んだん・・だよ・・
僕は・・オヤジが・・いて・・くれれば・・良いんだ・・オヤジ・・が・・僕の・・パパだから」
「弘樹許してくれ」義兄は車椅子の後ろから弘樹の両肩を抱き、自らの肩も震わせた。
いつの間にか雨がやみ、空が神々しいまでにオレンジ色に輝きだした。
燃えるような巴里の空にくっきりと黒いシルエットとなってエッフェル塔が浮かんで見えた。
「オヤジ!・・ミキ・・さん・・ほら・・パリの・・スカイ・・ツリー・・だよ。これも・・悪く・・ないよね」
私は弘樹に、「そうだね」と笑いかけた。
輝く景色を眺める義兄の肩がその歴史を刻んでいるように寂しげで、私は思わず、その肩に寄り添った。
写真:テクノフォトTAKAO 高尾清延
Charles Aznavour Emmenez moi