まだ朝靄がけぶる中一匹の小柄な白ネコが川沿いを歩いていた。
何か目的があるのかその足取りに迷いは無い。少し薄汚れている胸元には小さな骨がぶら下がってる。
ふと白ネコが何かに気付いたようにその足取りを止めた。周りを見渡す。ここは自分が幼い頃捨てられていた場所。寒さと恐怖に震えた記憶が蘇った。と同時に温かい記憶も蘇る。初めて生き抜く事を教えてくれたカラスとの出会いの場所。そこに自分が捨てられていた段ボール箱は無い。
あれから5年の年月が経った。じっと動かなくなった白ネコは遠い目をしていた。少しもの想いに浸っていたようだ。
自分が捨てられていたのとは反対の季節だというのに時折吹く風の中に良く似た空気の匂いがそうさせてしまった。白ネコは我に返ったようにまた歩き出した。
しかしやはり何かが気になるのか何かを探しているようにも見える。少し坂を下り川に近づいていく白ネコ。つゆ草が生い茂った影に親からはぐれたのだろうか一羽の鳥の雛が羽根をばたつかせ、か細い声で鳴いていた。
しばらく自分を見上げてくる雛を睨みつけ白ネコは問いかけた。
「生きたいか?生きたいなら僕についておいで。それともここでのたれ死ぬ?」それだけを言うと白ネコは雛に背を見せ再び目的地へと足を向けた。雛はしばらく考えたが意を決したように細い2本の足で転がるように白ネコを追いかけた。
雛が初めて自分の意思を持った瞬間だった。必死で置いて行かれないようまだ飛ぶことのできない未熟な羽をばたつかせた。それでもどんどん距離が離れていく。そんな無防備な雛はいつ他の動物に狙われるかもしれない。
当の白ネコに食われてしまうかもしれないのに。
何かにすがるように雛は白ネコを追いかける。
とうとう白ネコの姿が見えなくなってしまった。もう足は疲れ切って動けない。ピーと一声鳴き白ネコが行ってしまった方角を見つめていた。再び孤独になってしまった雛。空にはそんな雛を狙うトビが旋回していた。それを感じた雛は恐怖で足がすくみながらも隠れる場所を探す。探す事に気を取られていて周囲に意識が行かなかった。
いきなり後ろから自分の身体を咥えられ地面が飛ぶように流れるのを見て絶望感を覚えた。
それでも必死でもがき逃れようと足や羽をばたつかせる。助けて助けてっ。やだやだっ。無我夢中で暴れる雛はつい今しがた自分に問いかけた声を聞いた。「静かにして。落ち着いて。暴れたら落してしまう。あいつに食われたいの?」
もしかしたら自分を食べてしまうかもしれない白ネコの声を聞いて安堵する自分が不思議だった。
白ネコは川沿いをしばらく走ると突然止まり雛を地面に落した。落した雛には目もくれず一点を目指して歩きその場へ座る。追いかけていいのか分からず雛はその場所から動けなかい。
そこは子猫だった自分と一緒に過ごしたカラスが死んだ場所。
ただの土と化してしまったカラスのお墓。
一点を見つめる白ネコの背中は寂しそうだ。
雛はそっと白ネコに近づき横に並んだ。白ネコの顔を窺っていると突然後ろから声がかかった。
「やあ、白ネコ君。お墓参りかい?…ってその横に居るのは君の食糧…なのかな」終わりになるほど声に戸惑いが混じる。
白ネコは雛を咥え、人間の前に置きその場を後にして歩き出した。
人間はその背中を見送りしゃがみこんで雛を観察する。
「僕が触ったら親鳥が来ないかなあ。でもすでに猫の匂いがついてるからやっぱり来ないかも。僕にどうしろっていうんだよ、ネコ君。もしかして骨を黙って持ち帰った時の腹いせかい?ねえ、雛君。僕の所へ来るかい?」一人ごと言っているようにしか見えない人を雛は不思議な顔で見上げている。
「雛君、君は生きたいと思ってる?そうならその手助けをしようじゃないか。僕の家に帰ろうか」雛は人間の手の中に大人しく収まった。「まずは何の雛か調べないとね」そう言いながらその場を立ち去る人間。
ずっとここにあるカラス。白ネコの原点がここにはあった。
それから数カ月後、白ネコは雛と再会した。それはいつもの散歩中のことだった。
「おーい、白ネコ君。久しぶりだね。こいつを覚えているかい?立派になったろう?」と人間の肩に止まっている黒い鳥。
驚いた白ネコは思った。これはカラスのいたずらだろうか?
そんな事を思っていると突然人間の肩から飛び立った鳥が白ネコの背中に乗った。追い払おうと動いた瞬間羽を広げ宙を舞う。再び背中に乗ろうとするのを阻止する白ネコ。傍から見たらただのじゃれあいにしか見えない。白ネコは心の隙間が少しずつふさがったような気がした。ずっと何かが足りなかったものが満たされたような温かいものが流れてくる。
その日以来、ネコの集会場には1羽の若いカラスが混じるようになった。いつも白ネコの傍から離れずいるくせにいつの間にかどこかへ消えていくカラス。
「やあ!白ネコ君とその仲間たち!」と声をかける変な人間も健在だ。少し違うのはその人間の肩にカラスが居たり居なかったりすることだ。
通りすがりの車のラジオから聞こえるのはスカイツリーの話題。
白ネコは思った。いったいどんな木なんだろう。てっぺんに登ったらカラスが逝ってしまった空に少しは近付けるかもしれない。だったら一度見てみたい、そう思いながらまどろんでいた。意識が夢の中に入る瞬間どこかでカラスの鳴き声と懐かしいぬくもりを感じた。