小説

梅雨の影  by 暁焰

お、お前、一番下の坊主か?
大きくなったなあ。幾つだ?十五?
もう、そんなか。
最後に会ったのは……ありゃ、何年前だったかね。
叔父貴の葬式ん時か。するってえと、何だ。四年がとこは経ってんだな。


ん?待てよ。
ひょっとして、お前さんか?
不思議や怖い話が好きだってえのは。
はっはっは、そう、驚くねえ。
親類のうちで、噂になってんだ。
お前の親父さんがあちこちでこぼしてるからなあ。
「物好きはうちの血だが、度が過ぎてる。物の分る歳になってもあれじゃあ、先行きが心配だ」ってよ。
まあ、大概にしときなよ。心配させねえ程度にな。


……でも…そうさな…。
お前さん、幾つだって?
ああ、すまねえ、さっきも聞いたっけ。
十五……か…。


ん?いやいや、怒ってる訳じゃねえよ。
説教食らわそうってんじゃねえから、安心しな。
難しい顔してた?
そりゃ、すまねえ。


いやな……うん。
とっときの怖い話があるんだが……聞きたいかい?
何?聞かせろって?
そうか……わかった。じゃあ、聞かせてやるよ。
でもな、一つ、条件がある。
実は、聞かせてやる代わりに…俺の頼みを一つ、聞いてくれるかい?
どんな頼みだって?
それは……うん、話の後だ、後。


芝の爺さん家は知ってるだろ?
そうそう、あのでかい庭のある屋敷…って言い方を今でもするのかな。
まあ、でかい家だよ。


あそこにはな、出るんだよ。


何がって……。
いや、何なのかはよくわかんねえんだが。
幽霊?妖怪?…うーん…そうだなあ…。
化け物…なんだろうな、昔で言うなら。


なんだ?目が輝いてきたじゃねえか。
現金なヤツだなあ。
そう急かすなって。順を追わねえとわからねえよ。


あの屋敷の二階にな。開かずの間があるんだよ。
いや、開けずの間って言ったほうがいいのかな。
親父だけが、たまに入ってたんだが。
俺は、うんと小さい頃から、絶対に入るんじゃねえってきつく、きつく言われててな。
お前くらいの頃に、一度入ったことがあるんだがな。
なんでわかったのか、その晩に親父にこっぴどく殴られてなあ。
そっからは、入ったことはねえな。


いやいや…。おっかねえとか、何かあったってわけじゃねえんだ。
廊下の突き当たりの小部屋なんだが、こう…入り口が障子張りの戸になっててな。
そいつを開けると、正面の壁にでかい窓があるっていう、それだけの造りだよ。
何を見たって訳でもねえし…そうだなあ…。怖かったのは、親父だな。
考えてみな?
何にもねえ部屋に入ったってだけで、殴られるんだぞ?
そりゃあ、親父には良く手を上げられたよ。でもな、理由も言わずに殴られたのは、後にも先にも、あの時だけだったからな。
割りにあわねえって思ったし…。うん、そうだな…。やっぱり、親父が何にも言わねえってのが堪えたんだな。
一番上の俺がそんなだったからな。
兄妹ん中で、入ったヤツはいねえだろうよ。
お前の父ちゃんなんかは、特に末っ子だったしな。
入ろうとも思わなかったんじゃねえか?


で…だ。
さっきも言った通り、親父以外、その小部屋に入る奴はいねえってことになってな。実を言うと、俺も忘れかけてたんだが…。
ありゃ、親父が寝たきりになって、すぐのことだったな。
突然、俺一人を呼び出してな。
死ぬ前に、お前にだけ…とか言い出すんだよ。
面食らったよなあ。やめてくれよ、と思った。
縁起でもねえこと言うな、とか、すぐ良くなるとか、色々言ったんだが、聞きゃしねえ。とにかく、話を聞けって言ってな。
こう……枕元に座らされて…な。
俺はてっきり、説教だと思ったんだがな。
兄妹仲良くしろ、とか、残ったばあさんの面倒を…とか…さ。
あるだろ、普通は。
何?よくわからねえ?
まあ…そうかも知れんなあ…。お前くらいの歳だとまだ難しい話かもな。


ところが…だ。
親父が言うんだよ、二階の小部屋には絶対に誰も入れるなって。
胸の病気だったからな。ぜいぜい言って、息もやっと…ってなもんなのによ。
小部屋に人は入れるな。特に梅雨の時期はいけねえ。絶対に駄目だって。
訳がわからねえ?そうだろな。俺もそう思ったさ。
てっきり、こりゃ熱が頭に回ったんだと思ってな。
とにかく黙らせて、寝かせねえと…って。
わかった、わかった、って相槌打ってよ。
いいから休めよって布団に手を伸ばしたかけたんだがな……。
これ、見えるか?ここだ、ここ。手首んとこ。五つ、傷があるだろ?
三十年がとこ、経ってるってえのに、まだ残ったまんまだ。
掴まれたんだよ、親父にな。そん時によ。
驚いたなんてもんじゃねえよ。相手は病人だぜ?それが、枯れ木みたいな腕を伸ばしてよ…。震える手で、掴んで離さねえんだ。
結局な……。話を聞き終えるまで、離しちゃくれなかった。しまいにゃ爪が肉まで食い込んでな……。


ん?親父がおっかねえ?
そうだな、俺もおっかなかったよ。
でもな……そのおっかねえので、思い出したんだよ。
さっきも言った通り、忘れかけてたからな。あの小部屋のことは。
親父に腕を掴まれたまんまな…。頼んだんだ。あの部屋に何があるんだってな。
いいか?この続きは…親父の事よりよりおっかねえぞ?
そうか……。いいんだな?じゃあ話すぞ?


親父が言うにはな、影が、映るんだとよ。
何処にって…。障子にだよ。
当たり前じゃねえかって?
そうだな、当たり前だ。
でもな、部屋ん中に何もねえのに、障子に影が映るのは当たり前って言うのかね?
人がいねえのに?って……おいおい、俺は人の影とも言っちゃいねえよ。
四足のな…。なんだかよくわからねえ物の影が映ることもあったって言うし……。
角の生えた影もいたんだとよ。
夕暮れ時にな。
西側のどん詰まりの部屋だからな。まともに西日が差し込むんだ。
小さい部屋ん中が真っ赤になるって、言ってたな。
その真っ赤な部屋の障子にな。
さっき言ったみてえな、訳のわかんねえ影が横切るんだそうだ。
右から左に向かって…って言ってたからな。
そうだな、南から北へってことだろうよ。
男の時も、女の時も、子どもの影が映ることもあったって。
うん?そうだよ。大抵は人の影だったらしいんだがな。
部屋の外?
いや、何もねえよ。
あの屋敷は高台にあるんだ。それに、その頃は高い建物もなかったらしいしな。
窓の外を見ても、何もねえ。部屋の中にも何もねえ。
けど、影だけが映る。


親父はな。
子どもの頃から、その部屋に入り浸ってたらしい。
で…気がついたんだな。
ん?ああ、いや…。親父以外には、見えなかったらしい。親父の親父…俺やお前の父ちゃんの爺さんに当たる人だけどな。その人にも、誰にも見えなかったんだと。
怖い…とは思わなかったんだそうだ。
それよりも、面白かったんだと。最初は、誰か悪戯してるんだろうってな。
部屋を出て、裏側に回ってみたり、座る場所を変えたり、な。
色々試したらしいが、裏側…廊下の方だな、そっちからだと見えねえんだと。
窓をふさいでみたこともあったらしいが、そうなると部屋ん中が真っ暗になるからな。
影が映ってるのかどうかもわかりゃしねえ。


親父の気のせいじゃねえかって?
そうだな……。そうかも知れねえ。
でもな、続きがあるんだよ。この話にゃ。


六月のな、そうさな、梅雨の合間だって言ってたからな。
丁度、今時分くれえじゃねえのかな。


話しかけたんだそうだ。
誰にって…。
影にだよ。


さっきも言ったとおり、影が見えるのは親父だけだった。
親にも、兄弟にも、誰に言っても信じてもらえねえ。
挙句、嘘つきだの、頭がおかしいだの、散々に言われてな。
その日も、母親……、まあ、婆さんだな、俺やお前の親父の。
その婆さんに、怒られたんだそうだ。
いつまでも妙なことを言ってんじゃねえって。


悲しいやら、悔しいやら…ってとこだったんだろうな。
泣きながら、小部屋へ逃げ込んだんだと。
そしたらな、障子に、自分と同じくらいの子どもの影が映ってた。
で、思わず、聞いちまったんだ。
誰なんだ、何処へ行くんだって。
そしたらな、いつもなら右から左へ消えていく影が……そうだな、丁度、横向いて歩いてる風なのが……こう、立ち止まって…。
見た、と思ったらしいぜ。
うん、親父の方をな。
で、その後、すうって、溶けるみたいに消えちまった。


驚いた?まあ、そりゃ驚いただろうが…。
それよりも、悪いことをした、と思ったんだとよ。
呼び止めちゃ、引き止めちゃいけなかったんじゃねえかって。
謝ろう、とも思ったらしいが、何処の誰にだって話だわな。
当の御本人が…て、言い方でいいのかどうかわかんねえが…消えちまって、いねえんだから。


どうしようもねえって、思ってな。
諦めて、部屋を出ようとして、立ち上がったら…。
並んで、映ってたそうだ。
障子に映ってる、親父の影の横に。
その……消えたと思ってた影が…よ。
驚くよりも、ほっとしたらしいぜ。
ああ、戻って来てくれた。良かったって…な。


で、その親父の隣に並んで、障子に映ってる影がな、こう…左手をあげて、指差したんだ。
真っ直ぐ、北の方をな。


そっちに行きたいんだろうって。
親父は思ったんだと。
だからな、そっちに行きたいんなら、連れてってやるって。
そう言って、そのまま家を飛び出した。


家を出ても、影はそのまま親父の隣に並んでたそうだ。
うん。さっきも言ったとおり、夕暮れ時のことだからな。
西日で真っ赤な路地に、建物の影が落ちてたってよ。


走った…って言ってたな。
行かなきゃ行けねえ場所があるのに、引き止めちまった。
だから、早く連れて行かなきゃいけねえって。
後になって思い出しても、どの道をどう抜けたのか、まるっきり覚えちゃいなかったらしいがね。
とにかく、北へってな。
頭の中はそればっかりだったそうだ。


影はな、走ってる親父の横に、付かず、離れず、ずっとくっついてた。
昔とは言っても、街中ににゃ変わりねえ。
北へ、北へって思っても、そう真っ直ぐには走れねえだろ?
四つ辻やら、三つ辻やらに出くわすしな。
でもな、親父がどっちに行ったらいいか分らなくなると、やっぱり影が指差したんだそうだよ。


そうやって、影を連れて、走りに走って。
街を抜けて、家がなくなった辺りで、長い坂道に出くわしたんだそうだ。


親父もさすがに息が上がっててな。
ぜえぜえ言いながら、立ち止まって。
そしたらな、影がまた真っ直ぐ、坂の上の方を指差したんだと。


さすがに、うんざりしたらしいぜ。
何しろ、走りに走った後だったからな。
それでも、何とか息を整えて、その長い坂道をな。
真っ直ぐに上ったんだ。


道の両側には、紫陽花が咲いてたそうだよ。


で、その坂道を登りきったとこに、寺があった。
小さな寺でな。門が開いてて、そっから、石の灯篭が並んでる小道が見えたらしい。
足元を見ると、影は真っ直ぐ前を指差してて、な。


灯篭の並んだ小道を抜けると、すぐに、庭があってな。
やっぱり、紫陽花が植えられてたそうだ。
日はもう傾きかけててな。
宵の闇ん中に、西日の名残の薄い赤が残って、そん中で、青やら紫やらの紫陽花が、こう…光ってるみたいに見えたってよ。


その紫陽花の茂みの、丁度、真ん中に、でかい石の塔が立ってたらしい。
見上げなきゃいけねえくらいだったって言うから、相当なもんだったんだろうな。
そのでかい塔の横にな。
坊さんが一人立ってたんだと。
坊さんは、親父の方を見て……こう、手招きしたらしい。
そしたら、それまで親父の隣に並んで立ってた影がな。
坊さんの手招きに応じるみたいに、親父の足元から離れてって……。
そのまま、石の塔の影ん中に消えてったそうだ。


ここまで来ると、さすがに、親父も何がなにやら分らなくなっててな。
どうしていいか、わかんねえまま、立ちつくしてたそうだ。
そしたらな、坊さんが、石の塔を眺めて、言ったんだと。


「これでまた塔が高くなる。それでも…」ってよ。


そう言った後、小手をかざしてな、西の方を見たんだと。
つられて、親父もそっちの方を見たら、丁度、町並みが見えてな。
それが、何て言うのか……西日の中で、黒い影が幾つも建ってるように見えたんだそうだ。
で、気がつくつと、小手をかざしてた坊さんが親父の隣に並んでてな。


「人の作るものに追いつくには程遠い。何時までかかることやら」


そう言って、笑ったんだそうだ。


その笑った顔が、なんとも、悲しそうに見えたって。
そう、言ってたな。


親父が覚えてんのは、そこまでで、そっから後がどうなったのかは、全く覚えちゃいなかった。
目が覚めたら、もといた小部屋の中でな。
後になって、爺さんや婆さんに聞いても、この辺りにそんな寺はねえって言うしな。
自分で探そうにも、道を覚えてねえし。
うん?また小部屋で影に聞けばいいって?
そうだな、それは親父も考えたらしいんだが。
見えなくなったんだとよ、親父にも。
そうそう。その後、その部屋に入ってもな。
何にも見えなかった。
だから…だろうな。
結局、居眠りしてて悪い夢でも見たんだろうってことで、親父も納得したらしい。


そのまま、悪い夢、で終わっときゃ、良かったんだがな…。
言った通り、その後、小部屋に入っても、何も見えねえ。
親父も、その悪い夢の後はさすがに薄気味悪くて、入りたくはなかったらしいんだが。
お前もそうだろうが、子どもってな、親から、なんだかんだ言いつけられるだろ?
掃除しろだのなんだの。そうしたら、嫌でも入らなきゃならねえ。
でも、何度入っても、別に変わったことも起こらねえしな。
分別のつく歳になった頃にゃ、すっかり忘れちまってたらしい。
影のことも、影に連れられてった寺のことも。


長い話になったな。
一息つかせて、一服させてもらうぜ。
ちょっとそこの茶を取ってくんな。
ああ、うめえ。


思い出すなあ……。
親父も、ちょうど、ここまで話したとこで、言葉が途切れてよ。
泣き出したんだ。
なんで、あのまま忘れとかなかったのか、てな。


その忘れてた話をな。
思い出して、話したんだと。
誰にだと思う?
親父の話だとな、俺の上に、もう一人兄さんがいたんだそうだ。
その兄さんにな。話したんだとよ。
東京タワーが出来た時にな、その…坊さんが言ってた「人の作るもの」ってのを思い出して、それで、話したんだとよ。
親父ももういい歳で、子どもの頃におかしな夢を見てたってなもんだからな。
まあ、笑い話のつもりだったんだろうよ。
「あの坊さんは、石の塔が東京タワーと同じだけになるまで待つのかねえ。気長なもんだ…」ってよ。


親父がその話をした次の日にな。
その、さっき言った兄さんの行方が知れなくなったんだと。
八方行方を捜しても、影も形も見あたらねえ。
警察にも届けたって言ってたな。
川も浚ったし、攫われでもしたかって、隣近所の連中にも手伝ってもらってよ。
それでも、やっぱり見つからねえ。
うん、梅雨の時期の話さ。それも。


それから、しばらく経ってな。
親父は、入ったんだと。
わかるだろう?どこか。
うん、子どもの時みてえにな。
夕暮れで、やっぱり真っ赤になってたそうだよ。部屋ん中が。
で、障子にな、映ってたんだと。
その…丁度、いなくなった兄さんと同じくれえ背格好の影が。
動かなかったそうだ。
立ち尽くしたような格好でな。
親父は言ったそうだよ。
ついて来いっ…てな。
でもな、親父がそう言っても、影はそのまんまで、消えもせず、ずっと障子に映ってるだけだった。
親父が、何を言っても…な。


あの子は、今でもあの部屋ん中にいるんだ。俺のせいだ。俺があんな話をしなきゃ良かったんだって。
だからな、あの部屋には、誰も入れるなって。
泣きながら、そこまで言ってな。
それで、ようやっと、掴んでた手を離してくれたんだ。


そのしばらく後だよ、親父が亡くなったのは。


親父の葬式やら何やらが済んだ後にな。
聞いて回ったんだ。
ところが…だ。
お袋も、親類も、そんな話は知らねえって言うんだ。
いやいや、そうじゃねえ。
その小部屋の話を知らなかったって言うんなら、まだ話はわかる。
皆して、俺に兄さんなんぞ、そもそもいねえって言うんだよ。
役所で戸籍まで、調べたがな。
親父の子どもは、俺が一番上だった。


どう思うね?
理屈で考えりゃあ、一から十まで、親父の頭の中だけにあったことになるよな。
小部屋に映った影も、長い坂道の先の寺も、石の塔も、坊さんも。
もちろん、いなくなったっていう上の兄さんのこともな。
全部、熱が頭に回って死にかけてた親父のうわごとだったのかも知れねえ。
つゆの晴れ間が気まぐれに幻でも見せたのかも知れねえ。
でも、ほんとにそうなのかね?


うん?小部屋はどうしたって?
ああ、今はもう入れねえよ。
俺が障子を取っ払って、壁にしちまった。
悪い夢を見るのは、親父だけで十分だからな。


さて…話はこれで終わりだ。
約束どおり、一つ頼みを聞いてくれるかい?


親父の話を聞いてからな。
その芝の屋敷の庭の北の隅に、石を積むようにしてるんだ。
最初は毎日、一つ…だったんだけどな。
そのうち、面倒になったから、今じゃ、親父の命日と……その、親父が言ってた兄さんがいなくなった日にしか積んでねえ。
そうさな…。今は、丁度庭の壁くらいじゃねえかな。
それをな。
お前、一つ、手伝っちゃくれねえか?
俺も歳が歳だしな。
そのうち、足腰も立たなくなるだろうしよ。そうしたら、お前に続けてもらいてえんだよ。
何?坊さんが言ってたみてえに、人の作る建物と同じ高さになるまでやるのかって?
バカ言うねえ。
それじゃ、東京タワーどころか、スカイツリーと同じがとこの高さまで積み上げなきゃいけなくなるじゃねえか。


そうさな…。崩れねえ程度の高さに積んで……。
そっから後は、線香でも供えてやってくんな。


親父と…、親父が見たかも知れねえもんの供養に……、な。