小説(うま 秘密 ◆流行語◆)

きつね雨  by  勇智真澄

頬にかかった白い液体を手の甲で拭いながら、女は小さな舌打ちをした。
客がチェックアウト間際に使った浴室の掃除は、水滴が残っていて拭きとるのに時間がかかる。かがみ込んでユニットバスの小さな棚にあるシャンプーとリンスを上段に動かし、客室の使用済みバスタオルで濡れた個所を拭いていたらボディソープが倒れ、乳白色の液体が飛び出したのだ。
まったく! 
女は掃除の手間と、出がけにまで行為に及んでいたと思われる客に怒りをぶつけていた。もう何年も同じ仕事内容を繰り返し、こんな状況にも慣れているはずなのに、なぜか今日は虫の居所が悪かった。
石鹸の香りのぬるぬるする感触は、香りこそ違えど、かつて夫から罵声とともに浴びせられたもののイカ焼きのような、生臭い匂いを思い起こさせた。  


「HOTEL Mount Fuji」
そう流れるようにかたどられたネオン管の看板が、オレンジ色の線となり湖面に揺れている。
ホテルマウントフジと大層な名前はついているが、富士山のように日本一になど到底なれない、日本海に面した片田舎にある古いラブホテル。海水と干拓で残された残存湖の真水とが交わる場所。
おしゃれな飲食店もなければ映画館やショッピングセンターもなく、娯楽性に乏しい土地柄ゆえ、パチンコ店とラブホテルは潰れることなく営業ができている。デートしても出かけるところもなく、家族暮らしで融通が利かないからこの手のホテルは繁盛するのだろう。
女が夫に見切りをつけ、ここで住み込みの従業員として働きだしてからすでに18年が経とうとしていた。


女が大学に通っているころ、IT企業は全盛の時代だった。
女は関東の4年制大学を卒業したが、いわゆる四大学と言われる大学ではない。
それでも、IT業界でトップクラスとなった企業に入社出来た事は幸運だった。
入社して3年。女は浮いた噂もないままに、25歳になっていた。男嫌いなんじゃないの、と陰で言われていることは知っていた。嫌いなのではない。臆病になっていただけなのだ。気になって仕方がない3才年上の男性は同じ職場、開発チームにいる。
決して顔もスタイルもいいとはいえないのに、不思議と彼の周りには女性が絶えなかった。なぜか、この人に抱かれてみたい、と思わせる雰囲気があった。
それは何だったのだろうか。醸し出す笑顔の清潔感、ぎらぎらしたところのない爽やかさだったのだろうか。女も惹きつけられたうちの一人だ。
ただ、まわりのみんなのように自分の気持ちを正直に出せず、遠くから目で追うだけだった。
学生の頃には何度か付きあった人もいたが、特にその人達が好きだったわけでもない。周りがそうしているからというだけの気持ちだった。
本当に好きな人は当時から、ただ眺めているだけで、数人の遊び仲間の中に好きなその人がいることが楽しかった。
女の気持ちを知っていても、その人が選んだのは別の女性。
自ら行動を起こさない女には、いつも、かなわぬ思い、だけが残っていた。


寿退社する同僚の送別会が、会社近くのレストランを借りきって開かれた。
赤坂の路地裏にある、開発チームのほぼ全員、30名近くが入ると満席になる店。
席順はくじで決められた。女は店の入口で、幹事が差し出した箱から一枚の紙を引き出し、そこに書かれてある番号の席についた。  
対面は、まだ空席。
もうすぐ会が始まるという寸前、その席に気になっていた彼が座った。
女は驚き、向い合せの顔を恥ずかしくて見ることができず、それでも嬉しくて小躍りしたい気持ちを抑えるのに精いっぱいだった。


白いクロスが膝元まで伸びたテーブルの下で、靴を脱いだ彼の右足が女の両の太ももを割って入り込んできた。
女はびくりとするが、逃げ出すことも払いのけることも、かといってどうしていいのかわからずにされるままになっていた。無下に却下すると傷つけてしまわないか、嫌われてしまわないか、と悩んだまま時間が過ぎていく。
そうして次第に彼の足首の動きに下半身が酔いしれる。上半身は周囲に気づかれないよう平然さを装い、動揺を悟られないように赤ワインを口に運ぶ。彼の顔はもっと見ることができず、隣席の話に耳を傾けているふりをした。
宴会も終盤になり、席を移動して各々が談笑している。彼も自然に女の隣に来た。
「このままどこかに行こうか」
女の耳元でそっとささやいた。うなじにかかる息が温かい。
「うん……」
有頂天、こんな言葉が女を動かした。


その夜から女と彼は、火薬と金属の粉末を混ぜた花火のように薄い布団に包まれ、闇に火を放たれ、燃焼し破裂し、その時々によって様々な色合いの火花を出していた。
時には女が火薬となり、相手が金属となる。様々な導火線も花火の種類も豊富だった。
うまが合う。
駆け馬に鞭を打つように、勢力にさらに力を加える。2人の息が合い、たとえようのない境地にのめり込んでいく。


そうして女と過ごしていても、彼には他にも女がいることは、おんなのかん、で感じていた。
それを責めると言い訳をする。嘘つきなのはわかっていた。そして嘘を閉じ込めるように、口づけされ快楽の花火を打ち上げられると、うっすら感じていた方便もどこかで信じようとする気持の方が強く働いた。
そんな彼の、その行為を、独り占めすることが目的の結婚だったと、今更ながらに女は思う。


彼が女と付き合いだして1年足らずで入籍し、夫となった日から1年が経とうとしていた。
あっという間に新婚の気分は遠い過去になっていた。
暮らしてみて知る、本来の性格。将来を考えない生活に生じてくる価値観の違い。いつしか箸の上げ下げまでもが気に障りだしていた。
肉体的な喜びだけでは夫婦の暮らしは維持できない。徐々に火薬には「こんなはずでは」という後悔の雨が混ざり、湿り気を帯び、火がつかなくなってきていた。


ある日、女が車の掃除をしていると助手席に夫の手帳が置き忘れられていた。
何気に、いや、怖いものみたさで女は開いてみた。そこには、いつ誰とどこでどうしたかと、こと細かく記入されていた。
結婚しても一人では満足できない、そんな性癖の夫だった。
もともと女性関係にだらしのない人だった。結婚したら苦労する。そういう予感と不安は当初からあった。わかっていた。
だが、いつかは治まり落ち着いた生活になるだろうと淡い期待を抱いていた。しかし、その言動や行動に神経をとがらせることに疲れてきた。
それでも一緒に住んでいる間に、肉欲とは別の愛着という感情が芽生えていたのだろうか。嫉妬心が起きることに女は唖然とした。


「なによ、これ」
帰宅した夫に、女は手帳をたたきつけた。
「勝手に見たのかよ」
夫は憮然と、落ちて開いた手帳を拾い、脱いだ上着を椅子の背に乱暴に投げ掛けた。
「勝手に、って……。見られて悪いものなら隠しておきなさいよ」
怒りながら涙が落ちてきた。
夫はため息をひとつ吐き、女の涙への対処として「泣くなよ」と言い抱き寄せた。これまでなら、そのまま火薬と金属となり炎色反応を引き起こすのだが、女は抗った。抗ったが力にはかなわず、組み敷かれた。
「やめてよ!」という女の声を無視し、抗う女が疲れ、あきらめ、動きを止めたら「どうせお前は、これが好きなだけだろ」と、女の胸に馬乗りになった夫は自らの左手で絞り出したものを、女の顔に向けて放出した。イカのように生臭い、白くてどろどろとした匂い……。


遠くに行きたい。
何もかもが嫌になっていた。
浴室から聞こえるシャワーの音を聞きながら、女はいつも持ち歩いているバッグと預金通帳、少しの着替えを持ち、夜の街へ飛び出した。バッグの中には化粧品や財布、携帯電話などの日々に必要な物があった。
両親はすでになく、兄弟もいない女に帰る場所はなかった。夫以外に面倒を見なければいけない子供もいない身軽さだった。どこでもいい、どこか遠くへ行こう。


東京駅に向かった女は行き先も決めず、すぐに乗れる時間の迫った新幹線のチケットを買った。
プラットホームの売店でカツサンドと缶チューハイを手早く買い求め、車内に乗り込んだ。席に着くなり、列車は東北へと進路をとり走り出した。
終着駅までは4時間近くある。
うたた寝から目覚めた女は車内に備え付けの冊子を開いた。ページをめくって行くと、日本海に突出した半島が特集記事として掲載されていた。半島の最北端、北緯40度線上に位置する景勝地、夕陽の沈む場所。オレンジ色に赤が混じった空、光を映し金色に輝く海原の写真。この海と夕陽が見たいと女は思った。
 新幹線が終点に到着した。すでに外は暗くなっている。
駅の近くで宿泊し明日半島へ足を伸ばそうかとも考えたが、すぐにでも海の近くに行きたい気分になっていた。
早い時刻の在来線の最終電車は出てしまい、移動手段はタクシーしかない。


タクシーの運転手は、運転手にしては年若く、田舎にしては標準語の、女より7つか8つ年上にみえる人だった。
道中、たわいのない世間話を交わし冗談を言い、少しばかり互いの過去を話す。男女が入れ替わった、似たような内容。いわくありげな、どこにでも転がっている話。
「ここを渡ると半島だ」と、橋の途中で運転手が言い「あれ」と左手前方を指さした。
女は指先の方向を見る。橋のふもと、湖面に佇む建物がある。正面に掲げられた看板は「OTEL Mount Fuji」と色づいていた。ネオン管のHだけ電球が切れ、白いまま闇にとけていた。
「Hのないホテルだってさ」と運転手は笑い「寄って行こうか。泊まる所がないのなら」と狡猾さを隠して誘う。
「そうね。Hがないのなら……」
 女は眠くなった瞼を味方につけた。湖面に揺れるオレンジ色の文字が夕陽のようだった。車が駐車スペースに入り、部屋までの通路に「従業員募集・住込み可」の張り紙があった。女はうっすらとそれを眺めていた。


 翌朝、締め切ったブラインドから漏れ入る光で女は目が覚めた。
隣を確認すると誰もいない。
裸のままベッドから降り、化粧台の下に組み込まれた真四角な白い冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。キャップを開け直接口をつけて飲んだ。飲み残したボトルをテーブルに置くと、そこで目にしたのが「タクシー代はいらない」と走り書きされたメモ用紙。
ま、そんなものか、と女は鼻白んだ。
さて、これからどうしよう。
鏡に映った興ざめした顔つきの自分に問いかけた。


住み込みで働くことに抵抗もなく、四季折々に変わる景色を眺める生活に満足して過ごしていた女は、気がつけば45歳になっていた。
女の唯一の楽しみは、ホテルでの初任給で購入したパソコンだった。
地方ではテレビのチャンネル数も少なく、勤務時間も不定なので見たい番組を見ることができない。パソコンでなら好きな時に無料動画を閲覧できる。
女は韓流ドラマにはまった。こんなことはないだろうというほどのドロドロとした愛憎劇。まさか、と失笑してしまう時間空間の設定。バカバカしいと思うのに見入っている。どこか自分に似ている主人公、愛情という名前の馬の手綱を、うまくさばけない女たちに自身を重ねていた。


 女は、興味本位でフェイスブックに旧姓で登録した。登録はしてみたものの、特になにもせずそのままにしていた。
 その日から数日経った午後、いつものように韓流ドラマを見ていると、ポン、というドラマとは違う音がする。パソコンが一呼吸ついたような音と同時に、画面右下に新着ありのメッセージが現れた。何事かとドラマを一時停止させ、画面を変えた。
「久しぶりだね。僕のこと覚えてますか?元気にしてますか?」
 大学生の時の好きなその人からのメッセージだった。忘れるわけがない。
「きみには色々よくしてもらった。いつか倍返ししなきゃいけないと気になっていた」
 そう、好きなその人には、女ながらにつくしていた。お金がないという男のポケットに、頼まれもしないのにお札を忍ばせたりもしていた。別の女性に使うのは知っていても、男に小遣いを渡すだけの関係。そのために女はアルバイトもした。いつか振り向いてくれると思っていたから。
 女の胸は、たたかれた太鼓の振動のようにブルブルと波打ち、眼はVAIOの画面に現れた文字を食い入るように追う。
「ずっと探してた」
女は男に恨みがましい気持ちを持っていたが、この一言で懐かしさと喜びに変わった。20代の数年間も好きで好きでたまらなかった男。自分の青春そのものだった男。
あんなにも好きでどうしようもなかった自分がなつかしい……。


数度のやり取りを繰り返し、互いが現在は独り身である事を知り得た。
「いつか会いに行きたいけど、会ってもらえますか」と男から連絡がきた。
女は、いつかという具体的なことではなく、会うなら、いまのこのタイミングがいいと思った。
40歳を過ぎた1年1年は容貌が目に見えて衰えていく。たった数か月のうちに驚くほど容姿が老けこんでいく。はたちのころの面影などいくら探しても見つけられなくなる。
先延ばしにするより今でしょ、今しかない、と女は「会いたい」と返信した。


男には女に告げていない秘密があった。
男は女にだけではなく、かつての女たちにも同様の連絡をしていた。
そうして連絡がとれたら、会える人には会い、その暮らしぶりを聞き、実際に会いに行っては資産状況を探っていた。老後を優雅に暮らすために、その将来を託せる女を見つける為に。
男はこうして探り当てた、未亡人と結婚するつもりだった。愛してはいない。ただ昔馴染みの気心がしれた、財産家。自分の生活を楽にしてくれる伴侶となる人。
未亡人には昔の友人に会いに行くと言い、遠方に出向くときには交通費を出してもらう。男も未亡人もそれで良しとしていた同じ穴のむじな。
未亡人は生涯お金には困らない資産を持ち、老後をともに過ごせる相手が欲しかった。利害関係が一致した仲。
格好の相手がいるのに、男はまだ上があるかもしれないと欲があった。
欲はあったが、都心に自宅をもちジャガーを運転している未亡人以上の人はいないだろうということは分かっていた。そして結婚するだろうということも。
たまたま最後に連絡がついたのが女だった。
東北在住が気になるが、会ってみてもいいかな程度の軽い気持ちと日本海を見に行こうというのりで「春になったら会いに行くよ」と女にメッセージを入れた。


それを受けた女は算段をした。
給料は安いが、特に使うことも、とこもなく、それなりに貯金ができている。ここでなら小さな一軒家も軽自動車も買えるくらいの蓄えはある。
ちょうどいい機会だ。家をもとう。
新たな人生はここから始まる。
夫から離れて以来、眠っていた女の性が動き出した。
男が訪ねてくる前に新居を構え、エステにも通い、いまの年齢で見せられる一番きれいな自分をみせよう。
そして、どんなおもてなしをしようかと女の心は弾む。


きつね雨がぽつりと落ちた。
ロマンスを夢見る晴れた日に、ぱらぱらと打算まじりの雨が降っている。
人生の闇を照らす狐火が灯火のようにぼんやりとした明るさを放っている。
遠くの地で、男と未亡人の狐同士の嫁入りが行われていることを女は知る由もない。
女の手綱をさばくのは、いつも愛情と錯覚する自分の気持ちだった。