小説

ウラヌスの鬣(たてがみ) by 御美子

 「Confirm in the tank we blew up!
 (爆破した戦車の中を確かめろ!)」


 「Yes, sir!(はい、上官!)」


 「I’ve found the body holding the mane of the horse in his hand.
  (馬の鬣を持つ死体を発見しました)」


 「Oh my god! He must be Baron Nishi!
  (何てことだ!バロン西に違いない!)」


1945年硫黄島
栗林忠道大尉率いる日本軍は
本土からの応援や補給を一切望めないまま
祖国防衛のため硫黄島死守を命じられていた。


2月19日
アメリカ軍は5日で日本軍を殲滅出来ると考え
陸海空から一斉攻撃を開始したが
結果は36日間死闘の末の日本軍玉砕だった。


西中佐率いる戦車第26連隊も
アメリカ軍が棄てた戦車や銃を利用し
最後まで反撃を試みたものの
力の差は歴然としていた。


薄れゆく意識の中で
西が思ったのは
1936年のベルリンオリンピック競技中に
落馬失格した時のことだったかも知れない。


 「そんな目で見るな、ウラヌス。
 お前はいつも通り完璧だった。
 軍の命令に背くわけにはいかなかったんだ。
 敵を欺くには、まず味方からと言うだろ?
 お前が本当のことを知っていれば
 私を庇って、お前が怪我をしたに違いない。
 いいなウラヌス、これは俺達だけの秘密だ」


ベルリンオリンピックと同年の1936年11月
日独防共協定が締結した。


1930年、陸軍の花形だった騎兵学校を卒業した
華族(男爵)出身の西竹一は
軍務で訪れていたイタリアで愛馬ウラヌスと出会う。
以来2人はヨーロッパ各地の馬術大会で好成績を残し
1932年のロサンゼルスオリンピック馬術大障害飛越競技で
日本人初の金メダルを獲得する。


ヨーロッパ社交界でバロン西として知られていた西竹一は
当時人種差別されていた在米日系人に誇りを取り戻させ
オリンピック祝勝会でも最高の歓待を受けた。


 「このようなおもてなしを受けるとは
 身に余る光栄ですが
 ここにウラヌスが居ないのは残念です。
 実は、最後の障害物競技で
 高さが足りず失敗を覚悟しました。
 しかし、我が友ウラヌスは
 バーを避けるため巧みに後ろ足を捻ったのです。
 本日は私が優勝したと言うより
 『二人で勝った!』と言う方がふさわしいのです」


とスピーチし聴衆から喝采を浴びた。


1944年8月、戦車第26連隊として硫黄島へ動員される前に
西は馬事公苑で余生を送るウラヌスに会うことが出来た。
ウラヌスは西の足音を聞いただけで狂喜したという。


 「私もおまえに会えて嬉しいよ。
 私を本当に理解してくれたのは
 おまえだけだったからな。
 鬣を少しもらって行くぞ」




1945年3月17日、西中佐からの連絡は途絶え
最期の詳細は不明である。享年42歳。
西の後を追うように
ウラヌスも3月末に亡くなっている。


西中佐が持っていたウラヌスの鬣は
1990年にアメリカで見つかり
現在は軍馬鎮魂碑のある
北海道中川郡本別町の歴史民族資料館に収められている。