『あの雲、何だかかき氷に似てるわね』
背後でそんな声が聞こえたような気がした。この声、どこかで聞き覚えのある声だ。しかし、振り返っても誰もいない。
俺は夏休みを利用して、海辺の出店で働いている。海が大好きなんだ。波の移り変わる表情に魅せられて、気が付くといつも海辺にいた。波に乗れればどんなに楽しいのだろうと思うけど、何せ俺ときたら無類の運動音痴。サーファーなんて夢のまた夢だ。それでも、海を見ているだけで幸せな気分になれる。懐かしい気分に浸れるから不思議だ。
「おにいさん、かき氷ちょうだい」
「イチゴにメロン、宇治金時もありますけど」
「イチゴに練乳をたっぷりかけたやつをお願い」
「はい。ただいまお持ちいたします」
イカ焼や帆立などの焼き物はお店の人が作ってくれるが、かき氷は自分で作らなくてはならない。大きな氷を機械で削り、イチゴシロップに練乳をたっぷりとかける。
「おまたせ致しました」
「あら。このかき氷、雲みたいね」
えっ、まさか。この人の声。
「おにいさん。今夜花火で遊ぶんだけど、良かったら来ない?」
「えっ、行ってもいいんですか」
「女三人でここへ来たんだけど、ちゃっかり二人はお相手を見つけたようなのよ。一人ずつ男性を招待することになっているの。私は嫌だって言ったんだけど、面白いからやろうやろうって話になっちゃってね。旅は女心を大胆にさせるのかしら」
その女性は、くったくのない笑顔で俺を見つめた。年の頃なら30歳ぐらいだろうか。落ち着きのある清楚で、それでいて親しみの湧く印象を受ける人だった。
その夜、バイトが終わった後、待ち合わせの場所へ行くと、昼間の女性はすでにいた。
「あっ、すみません。遅れちゃいましたか」
「大丈夫、大丈夫。まだ、8時前よ。海風が気持ちいいから、少し早めに来ていたの」
「お連れの方たちはどうしたんですか?」
「それが、二人とも逆ナンしたはずがナンパされちゃったみたいでね。今夜は帰って来れないそうよ」
「えっ、そんな。じゃ、どうします。花火中止にしましょうか。二人じゃ、つまらないでしょうし」
「せっかく、買って来たから、盛大に楽しんじゃいましょうよ。それとも、二人じゃご不満だったかしら」
「とんでもありません。喜んで」
大きな花火の袋を広げて、二人だけの花火大会は始まった。
「おにいさん、ビール飲む?」
「はい。こう見えても、今年、おおやけにビールの飲める年齢になりました」
「あら、お若いのねえ。じゃ、ガンガンいっちゃってね。ビールもいろいろ買ってきたのよ」
ビールを飲みながら、手当たり次第に花火に火をつけていく。
ロケット花火にネズミ花火。勢い良く炎が吹き出るものやら、煙がモクモクと出るもの、高速回転するものも綺麗だ。
いろんな種類の花火を、いろんな種類のビールを飲みながら楽しんだ。
でも、その女性は見ているだけで、自分ではなかなか花火を手にしなかった。
「あの。花火、お好きじゃないんですか?」
「そんなことはないわよ。見てるのが大好きなの」
何だか俺と似ているな。海を見ているのが大好きだけど、精悍に泳いだり、サーフィンしたりはできないこの俺と。
まさか、この人、花火音痴というわけでもないだろうけど。
「じゃ、一緒にやりましょう」
ビールの酔いも程よくまわってきたのか、俺はその女性の手をつかんで花火を手渡していた。
「でも、怖いの。いい年しておかしいでしょ」
「えっ、いや、そんなことは」
思わぬ返事に口ごもってしまった。
「ひとつだけ、できる花火があるのよ」
「なんですか、その花火は」
「線香花火」
そうか、良かった。とにかく、ひとつだけでも楽しめる花火があって。
俺は線香花火を選んで、女性にそっと手渡した。
「ありがとう。おにいさん、優しいね」
「そ、そんな」
酔いのせいか照れのせいか、耳たぶが熱くなるのがわかった。
「じゃ、火を着けますよ」
「おにいさん、火を着けてから渡してくれる?」
「は、はい。わかりました」
まるで恋人気分になってきた。
火を着けると、始めは煙が立ち上り、やがて赤い球がぶらさがり、そこからパチパチパチと線香花火は弾けた。
その音がだんだん小さくなっていくとともに、俺の意識も遠ざかっていった。
「あなた、起きて。こんなところで、ビール飲み過ぎよ」
聞き覚えのある声で俺は起こされた。
ここは、海の出店。そして、目の前にいるのは、私の妻である。
「あなた、夢でもご覧になっていたの。とても、楽しそうだったけど」
「いや、その。ちょっと学生時代のことを思い出していたんだ」
俺は少し恥ずかしくなって、妻に背を向けた。
見上げると、そこには真っ青な空が広がっていた。
『あの雲、何だかかき氷に似てるわね』
背後で聞こえていたのは、10年前と変わらぬ妻の声だった。
《了》