ショートショート三題話作品: くも かき氷 背後)

水底の蓮華  by 暁焰



怖い話を探している、と知人に話した所、Fさんという女性を紹介して貰えた。
お話を伺う為に早速連絡を取ってみると、お盆休みの8月16日になら、とお返事を頂けた。
ちなみに、連絡を取ったのは7月の上旬である。
忙しくてお盆にしか時間が取れないのかもしれない。
御手数をおかけして申し訳ありません、と電話越しに謝罪の言葉を述べた所、そうではない、この話は8月の16日に起こったことだから、同じ日に話したいのだ、と言う。
この時点でひどく興味をそそられたが、まさか急かす訳にも行かない。
御提案の通り、8月16日にお話を伺うことにした。


待ち合わせ場所はFさん宅の最寄り駅近くの喫茶店だった。
挨拶を済ませ、名刺を交換する。
肝心の御話は、注文を済ませてから、となった。
酷く暑い日だった為、カキ氷とアイスコーヒーのセットを注文した所、Fさんが一瞬、妙な表情を見せた。
運ばれてきたカキ氷を平らげ、いつものように録音用のICレコーダーを準備した所で、Fさんが語り始めた。


「電話でもお話しましたが、この話は今日と同じ8月16日に起こったことなんです」
今は大学生であるFさんが小学校六年生の時、というから、十年程前のことである。
お盆休みだったこともあり、Fさんは両親三人で水族館へと出かけることになった。
「覚えてないんですけど、赤ちゃんの頃から水族館が好きだったらしいんですよ。水槽の中で泳いでる魚を捕まえようとして、いつもガラスに手を伸ばしてたって…」
色も形も様々な魚。飼育員から餌をもらうオットセイやアザラシ。熱帯を模した池に半身を沈めたワニ。
はしゃぎながら館内を見て歩く内に、Fさんは両親と逸れてしまった。
「地上部分が三階建て。で、地下にもフロアがあるっていう造りの建物だったんですよ。一階の入り口から入って…。三階までは家族と一緒だったって覚えてるんですけど」
気づけば、一緒にいたはずの両親の姿が何処にも見当たらない。
「あ、はぐれちゃったんだな、って。まあ、迷子、ですよね。でも、だからって慌てるような歳でもなかったし…。多分、近くにいるんだろうって」
見つからなかったらエントランスの総合案内に行けばいい。
そう考えたFさんは、両親を探しながら通り過ぎてきたフロアを再度回り、一階のエントランスの総合案内へと向うことにした。
二階から三階へと上り、そこから一階へと向う。
ところが…である。
気づかない内に一階を通り過ぎてしまったのか、何時の間にかFさんは、一階を通り過ぎて、地下のフロアにまで降りてしまっていた。
「階段は確かに2フロア分…。三階から一階までしか降りなかったと思うんですけど。でも、気がついたら、地下のフロアにいて…」


地上部分とは違い、明り取りの窓もない地下フロアは全体的に薄暗かった。
意図してのことか、照明も抑えられている。
狭いまっすぐな廊下沿いに深い青色をした水槽が幾つも並び、「深海の魚」と書かれた案内プレートが立てられていた。
「早く戻んなきゃ、って思ったんですけどね。光るクラゲとか、変な形の魚とかが泳いでるのが面白くて…」
一階に戻るのは、この地下のフロアを一回りしてからでいい、ひょっとしたら家族もこのフロアにいるかもしれない。
そう思ったFさんは、地下のフロアを見て回る事にした。。
地上階と比べると人が少なく、どの水槽もゆっくり見ることができる。
蒼く暗い水槽の中で泳ぐ魚や海の生き物を熱心に観察しながら、フロアの中程まで来たところで、Fさんは、近くに小さな男の子がいることに気がついた。
背格好は幼稚園くらい。半袖に半ズボンで、身長はFさんの腰の辺りまでしかない。
「あれ?って思いました。さっきまでこんな子いなかったのに…って」
男の子とFさんとの距離は、丁度水槽二つ分程。
Fさんに背中を向けているので、顔は見えない。
「魚を見ている訳でもないし…。フロアの奥の方を見てたんですよ。それに、周りにいる人達、誰もその子のこと見てないって感じで…。だから、迷子かなあって思ったんですよね」


迷子なら、一緒に案内所へと連れて行ってあげよう。
そう思ったFさんが、男の子に歩み寄ろうとするも、距離が縮まらない。
Fさんが近付いた分だけ、男の子が先へと歩いていくのである。
歩いた分だけ、男の子が先へと進む。
立ち止まると、男の子も立ち止まる。
そんな事を幾度か繰り返している間に、Fさんは男の子の右手の指から、細く光る銀色の糸が垂れ下がっている事に気づいた。
糸は男の子の指先から床へと落ち、そのまま行く手のフロアの奥にまで続いている。
「最初は見間違いかなあって思いました。暗かったし、光の加減か何かで、そんな風に見えるのかなって」
目を凝らしてみても、やはり糸は男の子の指から垂れ下がっている。
不思議に思ったFさんが、再び男の子に近付こうとした瞬間、やはり男の子がフロアの奥に向って歩き出した。
その時、Fさんは男の右手が小さく動いた事に気づいた。
「なんていうか…その手にから伸びてた糸がぴんって張ったみたいに見えました。で、それに引っ張られるみたいにして、歩き始めた…みたいな」
Fさんが近付こうとすると糸が動く。それにつられるようにして、男の子が歩く。
Fさんが立ち止まると、男の子も止まる。
糸に引かれる男の子を追いかけていく内に、Fさんもフロアの奥へ奥へと進んでいく。
やがて、フロアの廊下の行き止まりが見えた。
幾つも並んでいる水槽が途切れ、正面に黒い壁が見えている。
行き止まりになった廊下はその場所で、左へと直角に曲がっていた
男の子の指から伸びる糸は曲がり角の更に奥へと続いている。
男の子はやはりその糸に引っ張られるようにして角を曲がり、姿が見えなくなった。


後を追いかけて、角を曲がった所で、Fさんは思わず足を止めた。
細い廊下の先にあったのは、円形の広場のようなスペースだった。
「そんなに広い場所じゃなかったです。5mくらいかな。で、周りの…壁に当たる部分が、水槽になってたんですよ。切れ目のない一続きの…。広場をぐるっと囲むみたいに」
水族館には何度か訪れていたが、Fさんはそれまでそんな場所を見たことがなかった。
新しく出来た場所なのだろうか、と周囲を見回した所で、Fさんは、先程まで追いかけていた男の子の姿がどこにも見えないことに気づいた。
円形の広場はどこを見ても水槽があるだけで、他の場所へと続いている様子はない。
振り返っても、先程自分が曲がった細い廊下が薄暗く続いているだけである。


その場所は、それまで通り抜けてきたフロアよりも更に暗かった。照明らしいものが無く、水槽の中が薄青く光っている。
周囲を見回したFさんは、消えた男の子の行方よりも、水槽に気を取られた。
「何にもいないように見えたんですよ。空っぽで、魚も他の生き物もいなくて…」
空っぽの水槽は、奥も底もないように見えた、という。
「でも、まさか魚の泳いでない水槽なんかある訳ないと思いましたから。暗くて見えないだけで、近くで見たら、何か泳いでるんじゃないかなあって」
好奇心に駆られたFさんが水槽のガラスに近付き、中を覗き込んだ。
暗い水の奥に影のようなものが揺らいでいる。
更によく見ようと、目を凝らしたFさんは、次の瞬間、声にならない悲鳴を上げた。


水の中で揺らめく影は、人の姿をしていた。
「裸の人達がいっぱいいたんです。みんな、両手を上げて…水の中で立ったまま揺れてました」
真っ暗な水の中で揺れる白い裸体の人影は、足首をロープのようなもので縛られていた、と言う。
「今思うと、ロープっていうか、荒縄みたいな感じでしたね。水槽のずっと下の方から伸びてて…。水槽の底に繋がれてる、そんな風に見えました」
余りの光景に目をそらす事もできない。悲鳴を上げようにも声が出ない。
恐怖で完全に固まってしまったFさんの耳許で、背後から声が聞こえた。
——おやあ?アンタはまだ此処に来ちゃいけないねえ。まだ生きてるじゃないか。
暗い水槽に写る自分の姿。
その肩の辺りに、美しい女の顔が逆さになって映りこんでいた。
逆さになった女の唇はFさんの丁度耳の後ろにあった。
——子鬼の奴、何を考えているんだか。亡者を連れて来いって言ったのに…。
水槽のガラスに映りこんだ女の唇が動き、白い息が漏れる。
その瞬間、Fさんは首筋から腰の辺りまで、肌が痛くなるほどの冷気を感じた。
——まあ、いいさ。アンタはちゃんと帰してあげるよ。だけど…。
ガラスに映る女の顔がすう、と大きくなった。
女が背後から自分に近付いたのだ、と気づいた時、Fさんは再び声を上げそうになった。
水槽のガラスに、逆さになった女の顔の胴体部分が映りこんだのである。
その身体は人の物ではなく、蜘蛛の形をしていた。
蒼いガラスに映る胴体は黒く、大きさは人の胴の倍ほどもある。胴の脇からやはり人の腕ほどの太さの足が何本も伸びているのが見えた。
丸い胴の先端からは、銀色の糸——Fさんが追いかけていた男の子の手から伸びていた物とそっくりな——が伸び、天井へと続いていた。
——せっかくだから、見ていくといい。地獄に落ちると、どうなるか…ね…。
蜘蛛の身体をした女が、唇をすぼめ、Fさんの眼前の水槽に息を吹きかける。
次の瞬間、乾いた音が聞こえ、水槽の中の水が更に暗い色へと変った。
深い青から黒に近い色へと変っていく水中で、揺れていた無数の人影が真っ白い氷に包まれていった。
無表情だった裸の人間達の顔に苦悶の表情が浮んだ瞬間、氷に包まれた体の彼方此方が裂け、紅い血が吹き出した。水中に吹き出した血はそのまま凍り付き、凍りついた人間の身体の彼方此方に紅い花が咲いたように見えた。
——あれは氷の花だねえ。凍って裂けた亡者の体に咲いた紅い蓮華さ。
くくっと鈴を鳴らすような声で女が笑った瞬間、氷漬けにされた人間達が、次々と粉々に砕け散った。
粉雪のような無数の氷片が暗い水中に舞い、青黒く底も奥も見えない水中に、真紅と真白の雪が散るように見えた。
——此処はそういう場所なんだよ。アンタも悪い事をすると、此処で花に変ることになるよ。
そう呟く女の額に鋭い角が生えているのを見たのを最後に、Fさんの意識は遠のいていった。


目を覚ました時には、Fさんは病院のベッドの上にいた。
水族館の地下フロアの隅で倒れている所を見つかったのだと言う。
医師の診断では、貧血を起したのだろう、と言うことだった。
目覚めたFさんは、家族に自分が見たものを話したが、当然誰も信じてもらえなかった。それどころか、そもそも、水族館の地下フロアに、Fさんが迷い込んだような円形の広場状の場所は存在していなかった。
貧血で倒れている間に、悪い夢でも見たのだろう。
両親はそう片付けようとしたが、Fさんから話を聞いたお婆さんだけが、首を横に振った。
——地獄には寒い場所がある。そこは紅蓮地獄と言って、寒さで罪人の体が裂けて、紅い蓮の花みたいになるんだ。
——アンタが見たのはきっとそれだよ。盆の終わりだったんだろう?こっちに戻ってきてる亡者を連れ戻しに鬼が出たんだよ。
戻って来られて良かった。それにしたって、お盆の時期に、子供から目を離すんじゃない。連れて行かれたらどうするつもりだ、とお婆さんは、Fさんの両親に怖い顔をして咎めた。


「祖母の言った事がホントかどうかはわかんないです。両親の言う通り、夢だったのかも知れないし…」
でも、とFさんは続ける。
「あんな地獄には落ちたくないですね。氷漬けにされて砕かれて…」
こんな風にされちゃうんですよ、とFさんは、私の前にある空になったカキ氷の器を指し示した。
できれば、注文する前に教えて欲しかった、と苦笑いをするしかなかった。