小説(三題話作品:海 花びら スローモーション)

くちびるペタル  by  勇智真澄

凪子は剛志の左腕を枕代わりに借りて、砂浜に寝転んでいた。
人気のない入り江の海風は、Tシャツとハーフパンツの二人の肌を無造作に撫で通り過ぎていく。打ち寄せる波に洗われたさくら貝が、恋人同士のように砂と戯れ、花びらみたいに波打ち際で踊っている。
「行ってしまうんだ……」
凪子は空と海が繋がる一本のラインに視線を移し、ため息をついた。






凪子はクリニックで働いていた。と言っても、医師でも看護師でもなく受付業務。
病院と違いクリニックは、余程のことがない限り定時に終わるので、何か集まりにさそわれれば出かけるようにしていた。
三十も半ばを過ぎたら、職場では後輩に疎まれ肩身が狭く、国家試験を受けて資格を持つ優越感あふれた看護師には鼻であしらわれ、ストレスが溜まる一方だった。
だから、たまには職場の煩わしさを忘れてモヤモヤした塊を発散したくなる。
美子のホームパーティーに顔を出すようになったのは、あと一年で四十路になろうとしていたころ。偶然デパートで美子と鉢合わせし、お茶したときに誘われた。ちっとも変っていないからすぐに気づいた、とお互い口にし、懐かしさに話が弾んだ。


剛志に会ったのはそのパーティーで、だった。美子の夫、剛志は商社マン。出張も多く、海外の時差に合わせた仕事上の連絡などで帰宅が遅い日も数あり留守がちだったので、ホームパーティーといっても、客は美子の友人がほとんどだった。夫の留守が寂しいからというわけではなく、美子は学生時代から賑やかなことが好きだった。同居している姑も子供もいないから気楽だったのだろう。
たまに居合わせる剛志は、いつもソファーの端で静かにグラスを傾けていた。凪子たちより五つ年上だと美子が言っていた。
凪子は口元の緩い人が好きではない。食べ物の油や汁等で唇をヌルヌルギトギトさせていたりしたら、もうそれだけで嫌になる。だって、キスなんかできない、と思ってしまう。
ワイングラスを傾ける細い指先、食事を口にする仕草、剛志の動作1つ1つが凪子好みに洗練されていた。自ら選ぶという衣服のセンスも凪子の好みだった。
気が付くと凪子は剛志を、剛志は凪子を見ている。好感の視線が絡み合う。


凪子は自分には男を見極める目、甘えるすべを持っていないと思っていた。
美人とまではいかないけれど、そこそこの顔と、モデルまでには満たないけれど、まあまあのスタイル、それなりにモテていた。だがそれは若いという時期のことで、二十代を過ぎたころから誘われる度合いは徐々に減った。いつまでも引く手あまた、ではなかった。
凪子はいい恋愛をしていなかった。凪子が恋だと思っていても付き合った誰しも、凪子に求めていたものはアバンチュール。そんな男たちが別れ際に決まって言うセリフは「ほかにいい人がいるよ」だった。軽くあしらわれてしまう凪子には、自分を主張するという芯がなかった。
そんなことを何度も繰り返しているうちに、凪子は自分に自信を持てなくなっていた。
人を見る目がない、と。どうせ男なんて新しいものが好き。もう恋なんてしない、と。自分の内面の魅力のなさをそれらに置き換えていた。
そう思い始めてからの数年、意識的に異性との付き合いを避けていた。剛志に会うまでは。


何度目かのパーティーも剛志は不在だった。凪子は、なんとなく楽しめなくてつまらなくなり途中でフェイドアウトした。
エントランスホールに出たところで、帰宅してきた剛志に出くわした。胸がきゅんとした。
「もう帰るの?」
剛志は立ち止まり、凪子に声をかける。
「ええ……」
あなたがいないから、とこそばゆい言葉を続けて言う勇気が出なかった。
二人は無言で立ち止まったまま数秒が過ぎた。触れたい、この人に触りたい。他人の、それも友人の夫なのに、そんな事を考えてしまう……。凪子は剛志の胸元を、剛志は凪子のその顔を見つめていた。剛志も同じ思いを持ち合わせていた。
その無言、もしくは突き動かす感情に耐え切れず、剛志が凪子を抱きしめた。
TUMIのビジネスバックが凪子の背中を覆う。一瞬の出来事。
不意をつかれ、凪子の心臓はドクンと高鳴り身体が硬直した。
「ごめん……」
剛志は抱きしめた腕を解き、そのまま凪子から離れた。
凪子はその先までを期待していたのに拍子抜けした。意気地なし。
「なぜ謝るの?」
「いや、悪いことしたなと思って……」
凪子は、このチャンスを生かさない剛志をからかいたくなり、わざと意地悪に聞いた。
「したことに対して? それとも何もしなかったことに?」
「……」
困った顔の剛志を見て、凪子は微笑んだ。
「悪いことなんてしてないよ」
「……」
持ち手を離されたビジネスバックが地面に落ちる。意を決した真顔の剛志が近づき、再び凪子を抱きしめ唇をふさいだ。


「ローズ・ペタル」
剛志がぽってりした凪子の唇に人差し指をあてて、そう比喩した。
「なあに?」
「ナギのここは、バラの花びらみたいだから」
口紅を塗らなくても、凪子の唇はほんのり色づいている。ローズ・ペタルとはバラの花びらという意味だと、凪子は剛志から教えてもらった。
「ナギの笑顔が好き。ナギの笑顔を見るとホッとする」
いつも剛志は言ってくれる。凪子には笑顔が一番似合うと。
交換した凪子の携帯電話番号の登録名を、剛志はペタルにした。誰に見られてもわからないように。


凪子は、結婚しなくても家族を作ることができなくても、そういうものに縛られたくはなかった。それが幸せというものだと言われても構わない。既婚者を好きになってしまったのだから後悔はしない。剛志がいなければダメ……。
会うたびに二人の思いは強くなる。長期旅行は出来ないけれど、一泊で温泉に行ったり、日帰りで海に出かけたりもした。セルフタイマーで撮った二人の写真は、三年分たまった。
「たぶんナギが思っているより、ナギのこと好きだよ」
剛志にそう言われると、幸せの中にときおり訪れる凪子の一抹の不安は消える。別々の人生を生きていく日が来るのではないかという不安。


その不安な予感が現実になった。
一つため息をついた凪子は、剛志の腕枕をずらして寝返りを打ち、剛志の頬に口づけた。
「泣かないよ。これも運命の過程だから……」
泣くまいと必死でこらえた涙が、ツーッとひとすじの透明な線を作り剛志の腕にポタリと落ちた。
「ごめんな……。ナギを泣かせることになってしまって……」
剛志は凪子との狭間にある家庭を取り除き、自分の意志で自由に暮らしたかった。だが凪子への愛と世間のしがらみを、剛志は共存することができなかった。
美子の父、つまり剛志にとっては義父が倒れ、義父の経営する貿易会社を引き継がなければならなくなり、それも会社は国外にあるという。凪子が住む場所からは海を越えた、程遠い場所。
追いかけて行きたい。
ついておいで。
唇を開いたら、そう言いたい気持ちが花びらのように無数に舞い散りそうで、二人はその言葉を胸の内に秘めたままだった。


凪子はひとりになり、涙が枯れて落ち着くまで泣いて泣いて泣きじゃくった。
剛志との出会いが運命なら、思い出なんかいらない。運命という見えない糸がほどけなければ、その糸が繋がってさえいれば、また会える日が来るから。
思い出に縛りつけられて、涙する日々はやめよう。だって愛が終わったわけじゃない。
運命の糸は繋がっている。
開いたままのパソコン画面を、スライドショーにした画像がスローモーションみたいに流れていく。凪子は、その写真を一枚ずつマウスの左クリックで削除していった。