エッセイ(三題話作品: 犬 梅 映え)

たかし と こう と あらう  by  Miruba

東京に行くと、いつも埼玉の叔母の家に一泊はする。
叔父は朝の挨拶をすると「ちょっと行ってくる」と言って、朝食前に必ず出かける。
ラジオ体操へ行くのだ。もう28年間休んだことがないという。
だからというわけでもないだろうが、叔父はいたって元気だ。

「ラジオ体操」は子供のころを思い出す。
パリにいるときも、子供たちと衛星放送で流れる「みんなの体操」の画面を見ながら体を動かしたものだ。
ヴァカンスで一時帰国するたび日本の学校へ体験入学をさせると、夏休みには青空に映える白い雲を仰ぎみながらラジオ体操の朝が始まる。

「♪新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健(すこ)やかな胸をこの香る風に 開けよそれ 一 二 三」という藤山一郎の爽やかな声が耳に響く。

作詞をしたのは藤浦 洸(ふじうら こう)という、平戸出身の詩人だ。


平戸島は長崎県にある多くの島の中の一つだが、古くから外国との貿易が盛んだった観光地でもある。
日本の最西端の駅もある、西のはずれの市だ。
街中に入ると桜や梅の木々がみえる松浦藩(まつらはん)の歴史資料館があるが、その入り口あたりに温泉水をいれた「うで湯あし湯」があり、近くに藤浦 洸生誕100年記念碑がある。その記念碑には、石の間に手を入れるところがある。
イタリアの「真実の口」ならぬサプライズがあるので楽しめるだろう。


藤浦 洸は1898年明治31年オランダ商館近くで生まれ育ったという。生まれてすぐに父親が亡くなり母親は看護師として出稼ぎにでていて、洸は祖母に育てられる。

「どうして生きてゆけたか、考えられないくらい貧しかった」という幼少期、祖母は隣近所のお手伝いや汚れ物を洗って生計をたてていたが、洸が中学の時、80才だった祖母は、洗い場で滑り、胸を強く打って亡くなったという。

洸は後に「らんぷの絵」という自叙伝に「新しい先生が勘違いして<洸>を<たかし>と読まず<あらう>と言ったために、それから<あらう>とからかわれるようになったことが子供心にとても辛かった。
それは他人の洗い物をしていた祖母を馬鹿にされているような気がしたからだったが、祖母が亡くなった時、<あらう>とバカにされても悲しまないことにした」と言っている。

その後姉のいる岡山に行き、 同志社大学神学部に入学するが1年で中退、3年間の放浪の末、上京して慶応大学に入学した。
洸は、家庭教師をしながら詩や小説を書いたり、ピアノ演奏のアルバイトをしたりして、多才さを発揮する。
大学卒業後は、浅草オペラの俳優までやったが、その後コロムビアレコード文芸部のエドワードの私設秘書となる。


洸はおしゃれでハイカラな人だったらしい。
高級犬のテリアを飼ったり、8ミリカメラを回したりしていたという。
ところが、駆け出しの頃で相変わらず貧しく、病気になったテリア犬の入院費が払えずに医師にテリアを取り上げられてしまったり、8ミリカメラは持っていても、フィルムが買えなくて結局売り払ったりしたという。

40にもなろうかという頃、作詞家としてようやく成功をする。

霧島昇&ミスコロンビアの「一杯のコーヒーから」
淡谷のり子の「別れのブルース」
美空ひばりの「東京キッド」「悲しき口笛」などの代表曲がある。
また、NHKの 「二十の扉」「私の秘密」のレギュラーとしてラジオ・テレビで活躍もした。
がりがりに痩せた体躯と眼鏡の姿は印象的であった。 

藤浦 洸は本名の読みを「フジウラタカシ」というのだが、長年「コウさん」と呼ばれていたために、ある時来客に「フジウラタカシさんは御在宅ですか?」と聞かれた藤原洸の妻が、「そんな名前の人はいません」と答えた、というエピソードがあるほど。


「洸」という名前には沢山エピソードがあるが、洸本人にとっても深い思い入れのある名前だったに違いない。

昭和54(1979)年3月13日、満80歳で死去、 奇しくも祖母と同じ年だった。