小説(三題話作品: 犬 梅 映え)


10人目の社員 by  勇智真澄

「社長、ワントリーのアポとれました」
 外回りから戻った大館賢太郎は、在席していた金澤のデスクに駆け寄りそう報告した。
 その様子を目にした和歌子は、やっぱり大館は拾い物だったと思った。
 和歌子が取締役を務める株式会社トルクはテレビ番組を制作している。と言っても、レギュラー番組はスポンサー1社提供の1番組のみで、以外は単発ものやカメラマンと音声等によるENGの撮影チームを他社に派遣したり、番組に付随したスポンサーのCMを制作していたりが収入源だった。
 その安定した収入源である広告主の広報部に内紛が起こり、担当者が変更されトルクが手掛ける番組の終了が危惧される事態となっていた。
 営業できる人間が社長の金澤しかおらず、社員10名の壁にもぶち当たっていた。トルクのような弱小企業は、抱える社員が10名を超えると安定するとどこかで聞きかじった金澤は、社員募集をすることにした。案外、信じやすい性格で、それが金澤の人付き合いの良さだったりする。
 経理も兼ねている和歌子は経費が嵩むのを懸念し、この案に反対したが、金澤は勝負にでることにした。
 
「坂田さん、いい人いないねえ……」
 すぐに使えるディレクター件営業ができる人材など、こんな小さな会社に応募してくるわけがないとわかっていた。
わかっていたのだが、あまりにも箸にも棒にも掛からぬ人物だけで、その予測が当たっていたことに金澤も和歌子も失望を受けていた。どこかで、もしかしたら掘り出し物の人材が現れる、と淡いながらも期待していたのだ。
 面接終了の履歴書を見て金澤はため息をつき、和歌子に次の人を呼ぶよう促した。
「どうぞ、お入りください」
 いつもは会議室として使用している部屋のドアを開け、和歌子は待機していた大館に声をかけた。
 最後の面接者、大館賢太郎はこれまでの応募者とは違っていた。制作会社だからとラフすぎる格好や受け答えのしっかりしない人の多かった中、大館はがっしりとした幅広体格に細身のスーツだった。
 身のこなしや歩き方、そして全身が醸し出す雰囲気。できる男のオーラ。
 男映えのするその着こなしは、大館によく似合っていて、面接のためだけに借り着してきた人たちとは一味違い板についていた。
 和歌子は大館の、そのスーツの下に隠された背中と胸にかけての前後の厚みに、男のセクシュアルな匂いを感じた。
 
 大館がアポイントメントを取り付けてきたワントリーは、清涼飲料水で有名な大手企業。広告の取引先はそれこそ大手代理店で、トルク規模の会社など強力なつてでもない限り鼻もひっかけてもらえない。
 それを入社2ヶ月目の大館が成し遂げてきた。そもそも大館の履歴書によると、彼はトルクより大きな中堅の代理店に勤務していたのだ。
「なぜ、会社を辞めたのですか」
 面談時の和歌子の問いに
「独立をするため退社をしたのですが、思うように仕事ができず、フリーではどうにもならない。自分は会社という後ろ盾があってこそ働けるのだと気づき応募しました」
 大館はそう返答していた。
 年齢的に和歌子より4つ上の42歳と新入社員としては高めだったが、大館の即戦力を見込みトルクの10人目の社員として採用を決めたのだが、まさかこんなにとんとんと話が進むとは思ってもいなかった。それはトルクにとって快挙だった。
 
「社長、明日の打合わせですが、先方の都合で来月に延ばして欲しいそうです」
 受話器を置いた大館が、申し訳なさそうに金澤に言った。
「そうか……。じゃ、次の日程を取り付けておいてくれ」
 ワントリーを研究し企画書を作りあげていた金澤は、出ばなをくじかれたが、吠える犬にけしかけるように、勢いづいている大館に、いっそう勢いをつける言葉を吐いた。
 大館は、それにこたえる様に数日のうち他社のアポを取ってきた。
 そしてまたそのアポは、先方の都合による先延ばしとなった、と大館の口から告げられた。そんなことが数回繰り返された。
 度重なる事態に、和歌子も金澤も大館を訝しく思い始めていた。
 和歌子が大館に抱いていた好意は、面接のときに感じたあの胸に抱かれてみたいという密かな想いは、徐々に不信感にかき消され夢まぼろしとなりつつあった。
 
「かつての同僚が、局の担当者を紹介してくれそうなので行ってきます」と、電話をかけ終えた大館が、打ち合わせに行くと出かけた。
 和歌子はそれを待って大館のデスクに行き、さっきまで大館が使用していた電話のリダイヤルボタンを押した。
 辛い恋をしている時の疑り深い女になったようで気が引けたが、和歌子の性格上、疑念を確認しないではいられなかった。
「はい、おおだてでございます」 
 耳に当てた受話器から女性の声が聞こえた。あれ? おおだて、って、自宅なの? 奥さん? 和歌子の思考は回転していた。確か面接ではバツイチ子どもなしだったはず……。なら誰? 和歌子は動揺したが、そのまま切るわけにもいかず社名を名乗っていた。
「いつもお世話になっております。息子はまだ戻ってきておりませんのですが……」
 おっとりした声の主が答えた。
 息子? えっ? ……。
 思いがけない言葉が、和歌子の耳の右から左へと、白いちくわの穴を流れる様に真っ直ぐ通り過ぎて行った。
 
 面接をした時と同じ会議室で、大館は金澤と和歌子の前で話し始めた。
「母が発症したのは5年前からで、それを機に同居したのですが……。妻が耐え切れず、元々うまくいってなかったのですが、諍いが多くなりまして……。結局、離婚することになりました。母は物忘れが目立ってきましたが、判断力や理解力は多少あるものの、同じことをしてもできる時とできない時が交互におこり……。いわゆるまだら認知です」
 脳血管性認知症。大館の母、トシ子の病名だった。
「いままで、電話をかけていたのは家だったの? かかってきたのも? 外出先は家?」
 和歌子は腑に落ちない疑問を矢継ぎ早に大館にぶつけた。
「はい……すみません。かけてきたのはヘルパーさんからで……。母は施設に行くことを嫌がっていたので僕はなんとかしてやりたかった。母はひとりで僕を育ててくれたんです……」
 だからって、騙して働いていいのか。その理屈が今回の出来事の一理だというのなら誰でもしたいことだ。
 和歌子は憤慨したが、淡々と話す大館の、堪えきれずに流れた男の涙に、不謹慎に立場を忘れて胸がきゅんとした。とんでもないことをしでかした人だというのに……。
 
 大館は妻と別れ、母を一人にしたくないと会社を辞めたのだが、身体的にも金銭的にも負担が増え、自身も体調、それに精神面も崩れたという。
 この状態は長く続かない、共倒れになってしまうと大館は意を決し、施設を探したのだが空き待ちの現状だという。
電話に出た母トシ子は、大館が話す内容に意味など分からずただ返事をしていたそうだ。
 
「罪悪感はなかったのか?」
 これまで黙って聞いていた金澤が口を開いた。
「それは、もちろんありました……」と、大館は深く頭を垂れた。
 金澤は、大館が開き直った態度に出たなら即解雇するつもりだったが、かつての会社での、大館が制作してきたものを評価していた。
「欺いてきたのは許しがたいことだが、お母さんの施設が空くまで、会社に来られない日は家で企画書を作ったらどうだ」
 金澤の、思いもよらぬ提案に大館は声を無くした。
 給料泥棒と罵ってもおかしくないと思っていた和歌子もまた、驚きのあまり無言になった。
 金澤は話を続けた。
「時節の梅花春風を待たず、という諺がある。梅の花は、暖かい春の風が吹くのを待ったりしないで開花の時期がくれば自然に咲く。自然の流れは、人間の力ではどうすることもできないということだ。お母さんの病気も、自然の流れの中で起きたことだ。生きていくということは、ある意味自然の流れにのることだからその時々の成りゆきを精いっぱい受け止めていけばいいと思うんだよ」
 金澤は、自身の母も病に伏せている期間が長く、他人事と片づけたくはなかった。医療は進化を続けている。時期が来れば今よりも治る病は増えてくるだろう。
 根っからの悪人などいない。そうなるには何かの要因があり、それを克服できるかできないかだ。気持ちの弱い人間はそのまま流されるが、立ち直れる人間は強い意志で自らその流れを遡る。大館は後者だと、金澤の審美眼は物語っていた。
 
 大館は制作の仕事が好きだった。それ故に会社を辞めて仕事の全てを断ち切ることに未練はあった。その思いはトカゲのしっぽのように切っても切ってもしつこく生え出していた。
 金澤の、ありがたい申し出を断る理由など大館にはどこにもなかった。
 
 ――数か月後。
 大館の母トシ子は自宅から比較的近い施設に入居が決まった。
 大館は調べ物や打ち合わせがあるときには会社に出向いたが、ほぼ自宅で数本の企画書を作り上げた。その間に、本来の自分を取り戻すことができた。
 その大館が書いた企画書のひとつが局の会議を通り、単発ながら放送されることになった。撮影チームも自社で請け負う。たぶん付随して仕事は増えてくるだろう。仕事は仕事を呼ぶ。幸先のいい出来事だった。
 懸念されていたレギュラー番組は、これまで通りトルクで制作していくことが決まった。金澤が足蹴くスポンサーに通い、新担当者と顔つなぎをし、仕事の依頼を懇願するでもなく、そのひょうひょうとした特異な付き合い方で信頼を得た結果だった。
 和歌子は、金澤の優しさと営業手腕を尊敬し、この会社にかかわれて良かったと思った。そして、大館と仕事ができることの楽しみも増えた。この先に夢まぼろしで終わらない何かが始まるかもしれない。
 気づけば、公園の梅の木の、自由に伸びた枝々にぽってりと膨らんだ蕾がめばえ始めていた。それは徐々に花ひらき、いずれ実をつけることだろう。