小説(三題話作品: おぼん ライン ほし)

フレグランスな再生 by 勇智真澄

「やっぱり星のかたち。きれい」
 輪切りにしたスターフルーツの断面をひらひらと見せて、リツ子は笑顔で春太に声をかけた。昨日リツ子の夫、春太が勤務先の農業試験場からもってきたものだ。いくつかの実を残し、その残された実に、より良く栄養が行き渡るようにと間引きされ摘み取られた青い果実。
「完熟してないからサラダに使うといい」
 追っていた新聞の活字から目を離さずに春太が言う。
 リツ子の声の調子で彼女の気分がわかる。今日の妻は機嫌が良さそうだ、と思ったのも束の間、リツ子の声が震えだす。
「弥生(みお)も星になった……」
 リツ子が立つ台所の、スマートフォンを横にしたような形の窓から庭が見える。日曜の昼下り、蝉が一斉に声を張り上げる。
 その庭の一角をじっと見つめるリツ子の目に映る景色は、物悲しさのさざ波が押し寄せゆらゆらと歪んでいく。溢れた涙がぽたりと木製のカッティングボードで弾けた。
 春太は気が重くなる。スターフルーツを持ってきたのは失敗だった。極力、感情のアップダウンを促さないよう注意していたのに、しばらく抑えられていたリツ子の心を動揺させてしまった。
 そして、そんな妻の不安定さを不憫に思うこともあり、時には煩わしく感じる時もある。最近では後者の方が大きくなりつつある。明るさを見失った妻との生活に春太は疲れていた。

 春太はスマートフォンの無料アプリ、LINEを人差し指でタップし数少ないトーク画面から一つを選択して短文を打ち送信した。

  弥生の新盆、帰ってこれないか
  
  おとうさん、ごめん! 
  仕事休めないから、お盆は帰れない。
  おかあさん、どう? 少しは立ち直った?
  今回は無理だけど、
  休みがとれたらそのうち帰るから

 続いてLINEスタンプが届き、ペコリの文字と共にパンダの動画がおじぎをする。小川家の一人娘、佳菜から父春太への返信。
 冠婚葬祭を理由にするなら、休めないこともないのだが佳菜は無理にとろうとは思わなかった。どうせ実家に帰っても、母はふさぎ込んでいるだけだろうし、それよりも彼と数日でも会えなくなるのが嫌だった。
 仕事だと言われれば、それは仕方がない。戻ったところでリツ子は、弥生はああだった、こうだった、ああしてやればよかった、こうしてやればよかった、と思い出や後悔ばかりを話すだろう。
 そうだよな……24歳の佳菜はまだまだ遊び盛り。親といるより友人と遊んでいる方が楽しいはずだ。
 春太は自分の疲れを少しとりたくて娘に助けを求めていた。かといって無理強いはしたくない。春太は「分かった」とだけ打ち、送信した。

 生まれたばかりの弥生は、佳菜が小学校に入学する年に小川家に貰われてきた。3月に来たから漢字で弥生。リツ子は、〔やよい〕とは読ませずに〔みお〕と名付けた。
 佳菜が高校生になり部活や遊びに忙しくなるまでは姉妹の様に過ごしたが、佳菜は徐々に弥生に関心を持たなくなり、親とも距離を置くようになった。いわゆる思春期。
 リツ子は、娘が自分を疎んじたと感じ、寂しさが蔓延した。リツ子はそれが機となり弥生を溺愛するようになった。佳菜が就職し都会で1人暮らしを始めると、なお一層弥生をかわいがった。
 春太は仕事に没頭しているし、リツ子の寂しさを慰めてくれるのは弥生だけだった。

 弥生がミニチュアダックスフンドの平均寿命を超え、人間にしたら優に85歳を過ぎ、リツ子の膝の上で亡くなったのは庭の紅葉がきれいな日だった。
 リツ子は弥生を手放したくない、そばに置きたいと春太に哀願した。春太はペット霊園にと希望していたが、リツ子のあまりの悲嘆さに庭に埋葬することにした。自分の所有する土地なら亡骸を埋葬しても法的に問題はない。
 カラス等に掘り返されないように深く掘り、化繊のものは土に還りにくいから木綿100%の自然素材のタオルに弥生をくるんでその穴の底に置いた。リツ子は泣きじゃくり春太のする事をみていた。腐敗することで病原菌の元になる有害物質が発生しないように、殺菌効果のある石灰を土に混ぜた。掘った穴は土が緩くなり次第に沈むので、その分を考慮してコンモリと土を盛り上げ、塚を作った。
 さっきリツ子が見ていたその場所に弥生は眠っている。

 ペットロス。リツ子が陥った精神のバランスを崩す、やっかいな症状。新しいペットを薦めても弥生じゃないと嫌だと子供みたいに駄々をこねる。日常生活も、できる日と、ただ何もせずに虚ろな日もある。そんな行動は時間が経てばいずれは落ち着くだろうと春太は思っていたが、リツ子の心は時間に束縛されずにいた。

 生き物はいずれ土に還る。その土の中の養分を植物が吸い、成長する。その食物を食べて人も動物も生きていく。そしてまた土に還り……と繰り返し連鎖していく。
 品種改良研究者の春太は、別々の性質を持つ品種のかけあわせ、交雑育種法でこれまでに多くの新種を作った。それ以外にも遺伝子配列、抗体、培養細胞等々で品種改良を研究し成功させてきた。
 弥生は土に還った。その養分で弥生のクローンができないか。
 太陽のエネルギーを使う植物細胞、炭素を含む化合物が持っている化学エネルギーを使う動物細胞。これらの細胞膜から情報を貯え命令を出す核を取り出し……。生物体の構造と代謝の基本形である細胞の機能を使えば生命体を作れるのではないか。
 生き物対生き物のかけあわせは、もう片方の性質が混入する可能性がある。やはり生き物対植物が、求める個体に近づく……。
 春太は研究を始めていた。
 スターフルーツで試したのは二匹。果実を大きくし過ぎたせいで老衰が早かったが、老犬の加齢臭はなく、いつまでもジャスミンに似た完熟したスターフルーツの香りがした。
 収穫時を見極めれば、生前の遺伝子を紡ぐ新しい命が生まれるはずだ。そのDNAを凝縮させ、核と共に保存すれば様々のものとかけあわせができる。春太の研究は成果をあげていた。

「お盆は仕事だそうだ」
 盆が近くなった頃、春太は佳菜が来ないことをリツ子に告げた。
「帰ってこないの? 冷たいのね、佳菜は……」
 リツ子は突き放したように呟いた。いまのリツ子にとって大事なのは娘よりも弥生の弔いだ。弥生のいない毎日を、現実として受け入れなければならないのは頭では理解しているのだが、感情が伴わずにいた。
 でも、天国にいる弥生が見ている。お盆にはその弥生の魂が戻って来る。盆飾りやお供え、送り火もたいて、とリツ子は弥生の帰る場所の準備に没頭していた。
 そんな生き生きとしたリツ子を、春太は久しぶりに目にした。

「ここに何か植えないか」
 弥生の眠る塚に手を合わせていたリツ子に、春太はそう問いかけた。年々増加している樹木葬人気にあやかる訳ではないが、故人の遺骨を直接土中に埋葬し墓石の代わりに樹木を墓標とする。その思いは同じだ。ただ一つの思惑を除いては。
 マンゴー、とリツ子がつぶやいた。
「弥生が好きだったマンゴーがいい」
 今度ははっきりと、春太にリツ子の声が届いた。
 マンゴーか。実の大きさと形に問題はない。マンゴーの花の香りは腐敗臭がするから、スターフルーツとかけあわせ、耐寒性を強め結実を早める核を埋め込み……。春太の研究者としての思考回路がひとつの生産ラインを作りあげていた。

 弥生の養分を吸収したマンゴーの木は、半年後に実をつけ、その1か月後に収穫された。
 桜が満開になると、佳菜が婚約者を連れて帰省してきた。
 なんかいい匂いがするね、玄関に入った佳菜の第一声だった。
「あっ! みお~! そっくりぃ」
 婚約者の紹介もそこそこに、小さい頃遊んだように二代目弥生とじゃれ合っている。
 桃から生まれた桃太郎、ならぬ、マンゴーから生まれた二代目弥生。ミックスフルーツのような様々な果物がまじりあった独特の香りを振りまいて走り回っている。
 そのマンゴーの香りは精神安定作用やリラックス作用をもたらすことでも知られている。リツ子はもちろんのこと、二代目弥生は出会う人に安心感と心地よさを与えている。
 マンゴーは、お釈迦さまがマンゴーの木の下で休まれた、とインドの人々から大切にされていた果樹だという。さながら周囲の人を癒してくれるこの子、弥生は弥勒菩薩の生まれ変わりのようだと、春太はそう思った。

 春太は、二代目弥生の寿命がいつまでなのか、試作犬とは違うだろうと経過観察をしている。
 弥生の三代目四代目、いつかはリツ子の、そして佳菜の、二代目三代目が必要になるだろうと、春太は更なる研究に着手していた。