小説(三題話作品: いのしし 紅白 どん)

報復の風 by 勇智真澄

 海風に飛ばされ損ねた雪が、束の間の太陽に晒されている。
 妙子は湿っぽい雪を踏みウッドデッキから海を見下ろしていた。波間にサーファーの姿が垣間見える。穏やかなひと時の冬晴れの時間とはいえ、物好きな人たちだ。寒くないのだろうか。
 妙子の家は海沿いの県道脇にある。かつてはドライブインだった建物を夫、快理の転勤を機に購入した。もともと階下は海を見渡せる店舗だった。いずれリフォームして喫茶店を開こうと考えてのことだ。
 転勤族の快理がここを最後の地としようと選んだ場所。今後、転勤命令が下った時には断るつもりでいる。たとえ昇格できなくてもそれで職を失うことになってもいいと思っていた。
 もちろん妙子もこのロケーションは気に入っている。
 隣接する土手には七機の小型風力発電機が建っていて、ブレードと呼ばれる羽がクルクル回っている。それはナセルという装置の中で更に回転を速め、その回転を発電機が電気に交換し自然エネルギーになる、らしい。電力系の会社に勤務する快理の受け売りだ。
 肌寒くなった妙子は、無人のリビングに戻った。今日は休日だというのに昨夜、快理は帰ってこなかった。

 快理は同僚の孝俊に夜通し付き添っていた。
 単身者の孝俊には静岡の実家に両親がいるだけで、すぐに病院に来てくれる人がいない。
「カイリ……助けて……」と悲痛な声で、非番の孝俊から快理の携帯電話に連絡がきたのは昨日の遅い午後だった。
 外回りをしていた快理は電話を受け、仕事どころではなくなり、孝俊のもとへと急いだ。とりあえず会社には直帰の断りを入れた。移動途中から要請した救急車も快理と一足違いで到着した。
 担架に乗せられた後の、孝俊が倒れていた周りには、孝俊から飛び散った血が、雪に不規則な紅白の水玉模様を描いていた。
 孝俊は快理とふたりで耕している家庭菜園程度の畑でイノシシに襲われたのだ。幸い命に別状はなく、左太ももの裂傷と幾ばくかの擦り傷を負っていた。
 孝俊の裂傷は深く、縫合手術が行われた。手術が済み、麻酔からも無事に覚醒した孝俊は病室に移された。快理はベッドに横たわる孝俊の手を握りしめていた。
「タカ、大丈夫か。どうしてこんなことに……」
  麻酔が覚め傷口が痛いのか顔を歪めた孝俊に快理は声をかけた。
 キャベツ……と、まだぼうっとしているのかハッキリしない弱々しい声で孝俊が話を続ける。
「タエコさんがとってきてって……」 
 妙子が? なぜ孝俊に? 快理は孝俊の言葉に腑に落ちないものを感じた。そもそも妙子は孝俊の番号を知らないはずでは?……
 孝俊の容態が落ち着くのを待ち、快理は帰路についた。

「タカトシにキャベツ頼んだ?」
 家に戻った快理は上着を脱ぎ、妙子にそう聞いた。
「キャベツ? タカトシさん……? ああ、太田さんね。してないわよ。どうして?」
 快理から受け取った上着をハンガーにかけ、妙子は事も無げに言う。
 快理は孝俊の言葉を聞き間違えたのか、いやそんなはずがないと、妙子の返答に疑問をもった。
「ところで。きのうはどこでなにしてたんですか?」
 無断外泊をした快理を責めるでもなく、妙子は新垣結衣の車のCM口調を真似て快理に尋ねる。
「病院。タカトシが怪我して」
 快理は妙子の冗談的会話に乗れず、上の空で素っ気なく答えた。
「ふ~ん、そうなの」
 妙子は興味なさげにそれ以上聞こうともしなかった。内心では、いいタイミングで現れてくれたんだとほほ笑んでいたのだが。
 快理は釈然としない気持ちから抜け出せないでいた。

 妙子の両親は教育者で、娘の教育にも熱心だった。
 なにをするでも母が「こうしましょう。いいわね」と問いかけはするが、結局物事を決めるのは母だった。
 言うことを聞いていれば、いい子と褒められるので、妙子は自分の意志はあったけれど、あえて逆らわなかった。場合によっては嘘をつくこともいとわなかった。そうすれば喜ばれることがわかっているから、演技をすることもあった。
 そのせいか妙子は感情をコントロールする事が容易にでき、表面的には人当たりがよく魅力的でもあった。その反面、情が薄く、無表情な人と言われたこともある。何を考えているかわからないとも。
 
 妙子が快理と孝俊の関係を知ったのは朝顔が咲き始めたころ。
 そう、快理と孝俊が今年最後の夏野菜だと、摘み取った野菜を運んできた日だった。夏野菜の収穫を終えた、その跡地を整理し越冬野菜を作る。キャベツや大根、そして人参、じゃがいも、長ネギと雪の下で甘みが増し美味しくなる野菜を植えてきた日。
 野菜の泥を洗い流すために、ふたりは階下にいた。ドライブインの店舗だったから水回りはしっかりしている。
 妙子は土を触るのが苦手だし虫も苦手だから、畑には行かない。本来、野菜はスーパーで買うきれいなものしか使わない。それを知っている快理は、よく洗ってから野菜を台所に持ってくるのだ。
 そろそろ昼どき。買い置きの挽き肉があるからマーボーナス丼にしようと妙子はナスを取りに階段を降りた。
 水の流れる音が妙子の足音を消していた。
 階下まであと一段、というところで妙子は見てしまった。
 快理が孝俊を背後から包み込むように抱きしめているところを。横を向いた孝俊に自ら首を曲げてキスをする快理を。キミを守ってあげたいという証のハグを。
 妙子は踵を返し、今降りてきたばかりの階段を上り始めた。

 妙子がリビングに戻ると、つけっぱなしのテレビからニュースが流れていた。それを横目に、妙子はウッドデッキに向かった。
 夏の海は青い、私の心はブルーだ。などと感傷に浸っていたわけではなく、さっきの階下でのことを思い出していた。
 泡立つ波のようにブクブクと湧きだすものは、快理への愛情ではない。その愛情が奪われたことが腹立たしく思えてくるのだ。
 強い風、夏嵐が妙子に体当たりしてくる。夏嵐は、小型風力発電機にも、八つ当たりするかのように強くぶつかっている。
 所有していたモノが奪われたときに起こる妙子の執着心を煽るように、ブレードに勢いよく吹き付ける風は、どんどん羽の回転を速めている。ナセルという装置のように妙子の思考はさらに回転を速め、そのエネルギーは、とられたから仕返しをするというエネルギーになっていた。
 妙子の内面に起きたそのエネルギーは、快理にではなく孝俊に向けてクルクルと竹とんぼのように飛んでいった。

 孝俊が負傷した畑は、産業用ソーラーパネルを設置するために切り開かれた雑木林にある。野立ての太陽光パネルの着工が遅れ、雑草が蔓延っていた。どうせ管理するのなら畑を作れば一石二鳥ということで、会社にも了解を得て快理と孝俊が草取りがてら耕すことにした。ふたりは思いもよらず野菜作りにはまり、休日は畑仕事を楽しむようになっていた。

 快理は孝俊を見舞い、その足で負傷現場となった畑に行った。
 かつては熊やイノシシなどの獰猛だといわれる動物は人里に出てこなかった。人間が彼らの生息地を宅地にしたり、こんな風に自然エネルギーを作ろうと切り開くから、彼らの行動場所が少なくなったのだ。その理不尽さはわかっているけれど、やはり彼らに遭遇するのは怖い。
 畑には、雪によるパネルへの影響や架台の高さ、日射角度等を計測するために小さなソーラーパネルを設置していた。その装置を利用し、熱線を畑の周りに張り巡らし動物除けをしていた。出入り口となる部分には、動物が嫌がるというオオカミの尿を容器に入れて引っかけていた。
 イノシシが壊したのか出入り口の留め金が外れていた。中身が半分こぼれた容器が落ちていた。拾い上げると、臭いがしない?……
 畑に足を踏み入れた快理は孝俊が倒れていた場所を見た。
 紅白の水玉模様は、その上に降った雪を淡いピンク色に染めていた。そして掘り起こされたキャベツが半分雪に埋もれていた。
 快理が畑をひと回りすると、熱線に電気を流す配電盤のふたが開いていて電流供給のスイッチがオフになっていた。風でふたがあいたのか、いや違う。このふたは何かでこじ開けられた跡だ。誰が? 
 快理は孝俊の言葉を思い出していた。

 イノシシが人家近くに降りてきているので注意してください、とニュースが流れていた。それを聞いた妙子は、餌付けできないかと考えた。イノシシの通り道はほぼ同じだというから、うまくいくかもしれない。
 その日から妙子は、定期的に野菜くずを畑の出入り口からは死角になる場所に置いていた。自らが襲われる恐怖など露ほども覚えなかった。
 数日すると、V字のような足跡と野菜の食べ残しがあった。うまくいきそうだ。この餌付けはもうしばらく続けることにした。
 いつだったか、快理が臭い液体を買ってきたことがある。なにこれ、と聞いてみるとオオカミの尿で動物除けのものだという。
 妙子は快理と孝俊の休みが重ならない日を、ロックのかかっていない快理の携帯のカレンダー機能でこっそりチェックしていた。自分の休みと「タカ出」「タカ休」「タカ誕」とかが無防備に打ち込まれていた。妙子は電話帳も覗き、孝俊の携帯番号も控えておいた。

 快理が出かけ、孝俊が休日の、機が熟した今日の日。
 妙子は孝俊に「車が故障して買い物に行けないの」と理屈をつけて、キャベツをとってきてもらうよう依頼の電話をした。
 電話を受けた孝俊は、快理の妻の妙子さんからの頼みだからと、喜んで畑に行き雪の下からキャベツを掘り返していた。
 定期的に与えられていた餌の供給が途絶えたために、餌に飢えたイノシシがくるかもしれないとは思わずに……。

  その5日前、妙子は畑には行ったけれどイノシシへの餌はわざと持っていかなかった。その代わり中身のないカラのものと、水の入ったものと二本のペットボトルを持った。
 この日の目的は別にあった。
 妙子はドライバーで配電盤のふたをこじ開け、熱線のスイッチを切った。そして出入り口に引っかけてある容器の中身を、持参したカラのペットボトルに移し、もう一本のペットボトルの水を容器に注ぎこんだ。出入り口の留め金のねじを緩ませることも忘れなかった。

 妙子専用の車のドライブレコーダーは、最近多発しているあおり運転を懸念し、最も長い録画時間のものを取り付けてある。
 妙子の車で遠出をすることはなく、せいぜい買い物やちょっとした用事でしか運転しないから1か月弱の記録があるはずだ。
 快理は掃除をしてくる、と断り、妙子の車に乗り込みドラレコを操作した。快理が再生ボタンを押すと、カーナビの画面に見覚えのある映像が現れた。エンジンを冷やさないためにアイドリングさせていたのだろう。エンジンがかかっていれば録画される事を忘れていたのか、ドラレコには妙子の一連の行動が映っていた。
 それは孝俊が負傷した5日前の出来事だった。
 遡って日付を確認していくと、等間隔に畑のある場所に行っている。そうではないと思いたい。それでも快理の予感は当たってしまった。妙子はまだ治っていなかったのか?……

 新居の元ドライブイン購入は、民家の集中していないところを探していて見つけた。それは近隣住民との交流がうまくできずにいた妙子を思ってのことだ。
 幼少の頃の反動か、妙子の心は時々情動的になる。些細なことでも、意に添わなければ、一過性ではあるが強く反応し、周囲を攪乱し攻撃する。そのため、周囲とのいざこざが多くなりトラブルを起こすようになった。そして落ち込む。その繰り返しだった。快理は近隣への謝罪に、妙子は自身の心と戦うことに疲れていた。
 一過性の諍いが起きなければ、妙子はとてもいい妻なのだが……
 快理は、景色がよく、人と接することが少ない場所なら、妙子にとってもいいのではないかとこの新居購入を決めた。いずれ孝俊も含め、喫茶店をすることも考慮の上で。

 快理は当初、妙子はうつではないかと思った。
 だが、どうもそうではない。
 パーソナル障害、もしくはサイコパスに近い気がした。
 ただ、サイコパスなら、ほかの人間と絆を結べないだけでなく、自分自身との関係も希薄なのだということになる。
 そして、今回の行動のように、計画性のあることができるのだろうか。時に、妙子は虚構の世界を生きているのではないか。
 妙子の心の機微は謎めいていた。
 
 奪われたと感じるのなら、奪われたと思わせなければいい。
 そんなことができるのか。できないわけがない。いやできるはずだ……。
 何の根拠もない途方に暮れた道を、快理は歩み始めた。妙子と孝俊の3人で暮らすことができないかと思いあぐねながら……。