小説(三題話作品: 令和 夏休み コーヒー)

待ち人来たる by 夢野来人

 
今年も来た、この季節。不思議な体験をした、あの暑い夏。
 あれは、夢だったのか、幻だったのか。それとも現実に起こったことだったのだろうか。
 
それは、かれこれ20年ほど前のことだったと思う。俺はまだ、学生だった。
 学生とは言え、学業に勤しむわけでもなく、かと言って政治的な学生運動はとうに下火になっており、部活に熱くなるわけでもなく、恋に夢中になるわけでもなかった。
 時は淡々と流れていき、若いエネルギーを持て余すということもなかった。
 
そんな夏休みのことである。俺はある文系のクラブに所属していた。なぜかといえば、その部が部室をもっていたからという些細な理由であったのだが(授業のない時間に、あるいは授業をサボった時にいる空間が欲しかったというのが大きな理由だ)、その部室で起きた出来事が、今でも説明のつかない不可思議なものだったのである。
 
 その日は夏休みのせいか、学内にはひと気がなかった。いつもは、休みであろうが、いろいな部活動をしている人たちがおり、職員の人も仕事で出てきている。
 特にプールは学生に解放されていて、そこそこの賑わいを見せているものだ。
ところが、その日に限ってプールも閉まっており、部活をしている人も見当たらなかった。
 
俺は部室に入ろうとした。
「まったく不用心なものだ」
部室はいつもカギなどかかっていなかった。もともと盗まれるような高価なものはなく、いつでも部員が入れるようにと、いつの間にやらカギをかけない習慣になっていた。今では、カギがどこにあるのか誰も知らない。きっと、誰かがなくしてしまったのであろう。
 
ところが、である。
「おやっ、サッシが開かないぞ」
 
部室は校舎の一室というわけではなく、構内の外れに倶楽部棟みたいなプレハブの長屋のような小屋があり、その中に複数の部が混在していた。
 
しかし、である。
 
「何か引っかかっているのかな」
 
 入り口はアルミサッシで横に引くタイプのものである。カーテンが閉まっており、中は見えない。
 
「おかしいな」
 
私は何度もガタガタとサッシの引き戸を開けようと試みた。
すると、一瞬、カーテンが揺れた。
 
「なんだ。どうせ誰かが酔いつぶれて、泊まっていったんだろう」
 
 部室の一角は昔の先輩の趣味により、三畳分だけ畳が敷いてあった。そのため、遅くまで飲みすぎたりして終電がなくなってしまったり、帰るところのなくなった部員たちは、部室で泊まることもあった。
 
学内とは言え、夜になると人っ子ひとりいなくなり、あたりは真っ暗闇となる。さすがにカギをかけなくては怖くて寝ていられない。
 
「おーい、開けてくれ。もう、昼近いぞ。いつまでも寝てちゃダメじゃないか」
 
 すると、カーテンがひらりと開いて、サッシの引き戸があいた。
 
「あっ、どうもすみません。散らかっていますけど、あがってください」
「えっ、あっ、はい。では、お邪魔します」
 
中から出てきたのは女性である。しかし、見覚えはない。少なくとも、うち部員ではない。
 
「コーヒー、入れましょうか」
「あっ、はい。お願いいたします」
 
妙なことになってきた。この子、誰なんだ?
 
「ここ、きみのうち?」
 
 バカな質問だ。そんなわけがない。だって、ここは部室なんだから。
 
「いえ、違うんです。でも、まんざら知らないところでもなくて」
「あっ、じゃあ、部活の先輩とか?」
「失礼ですよ。初対面のレディに歳の話をするなんて」
「あ、そりゃどうも」
 
彼女に驚いた様子はない。この子、俺のことを知っているのか?それにしても、なぜ、こんなところにいるんだ。
 しかし、その謎はすぐに解けた。その子の言葉によってである。
 
「私、迷い人なんです」
「なんだい、それ。キミが迷い人なら、俺も迷い人ってことかい」
 
再びバカな質問だ。だって、俺は迷ってここに来たわけじゃない。ところが、彼女はあらぬことを言い始めた。
 
「ここにいるからには、おそらくあなたも迷い人」
「俺は迷ってなんかいないよ。ちゃんと、ここに来ようと思って来たんだから」
「では、昨日の夜、何をしていたか覚えていますか?」
「当たり前じゃないか。昨日は……」
 
 そこまで言って、俺は昨日の記憶がないことに気づいた。
 
「ほら、思い出せないでしょう」
「そんなわけないよ。昨日はいつものように……」
 
やはり、思い出せない。
 
「迷い人になると、人は昔の心地良かった場所へ戻って行くそうよ」
 
そう微笑みながら、彼女は入れたてのコーヒーをひと口飲んだ。
 
「まあ、俺のことはいいとして、キミはなぜ迷い人だと思うんだい。昨日の記憶がないのかい?」
 「昨日というか、あるところからの記憶しかないの。それ以前はわからないわ。でも、どうすれば迷い人から逃れられるかは知ってるの」
「えっ!それはスゴイじゃないか。で、どうするんだい?」
「待つの……」
「何を?」
「次の人」
「どういうことなんだい?」
「ここで、次の人が訪ねてくるのをじっと待つのよ」
 
 この子は何を言っているんだ。ちょっと、頭がイっちゃってるのかもしれないな。
 
「次の人って?」
「次の迷い人が来るのを待つのよ」
「それで、キミにとっての次の人が俺ってわけかい?」
「そう。やっと来てくれて助かったわ」
「そんな迷信みたいな話、誰から聞いたんだい」
「私の前にここにいた迷い人さん」
「何だって!」
 
どういうことだ。この子の前にも迷い人がいたのか。それは本当か。だとしたら、俺はどうなるんだ。
 
「これで、私もやっと帰れるの」
「帰るってどこに?」
「元の世界」
「元の世界?」
「あっ、そうだ。忘れないうちに渡しておくね」
「何を?」
「この部屋のカギ」
「何言ってるんだい。この部屋のカギは、もう何年も前になくなっちゃってるんだよ」
「そんなことないわよ。ほら、これ。しばらくはあなたのものよ。なくさないでね。次の迷い人さんが現れたら、渡さないといけないからね」
 
そう言って、彼女は嬉しそうな笑みを見せ去って行った。
まったく、何を言っているんだ、バカバカしい。あいつの妄想のおかげで、俺まで迷い人にされてしまった。だいたい、昨日の出来事を忘れることぐらい誰にだってあることじゃないか。それを理由に迷い人と断定されてはたまったものじゃない。
 
しかし、俺の記憶をたどってみると、彼女に会った時からの記憶しかないことがわかった。正確には、この部室に入ろうとしたところ、カギがかかっていて入れなくて困っているところあたりだ。
 なんてことだ。昨日どころか、今朝の記憶すらない。落ち着け、落ち着け、落ち着け、俺。
 
しばらく、いろいろなことを思い出そうとしてみたが、何も思い出せなかった。あたりも暗くなってきた。そろそろ帰らなければと思った。
しかし、どこへ帰れば良いのかわからない。どうやら今日はここへ泊まるしかなさそうだ。きっと、明日になればすべてを思い出すだろう。そう思って、その日は三畳の畳の上で眠った。
 
あくる日、記憶が戻っているかと期待したのだが、残念なことに昨日の記憶しかなかった。もっとも、昨日の記憶があるだけマシだ。何しろ、昨日の時点では一昨日の記憶すらなかったのだから。
今日も朝から蝉が鳴いている。真夏のような日差しが部室に差し込んできた。不思議なことに、今日も学内は静かである。皆どこへ行ってしまったのだ。
昨日からの出来事をいろいろと考えているうちに、いつの間にやら夜になった。仕方ない、今日もここに泊まるしかなさそうだ……
 
こんな日が何日も続いた。
それにしても、どうしたことだろう。最近は、誰も部室に来ない。それどころか、学内に誰かいるという気配すらない。いくら夏休みとは言え、こんなに何日も、いや、ひょっとすると何ヶ月も経っているのか。
おい、ウソだろ。俺は待っているのか、次の迷い人が来るのを。
さすがに疲れてきた。流石に、流石に。流石という字は、流れる石と書くんだったなあ。そんな記憶だけは残っている。それでは、石が大きくなるとどうなる。岩だな。つまり、流石の最上級は流岩だ。何と読むんのだろう。ながれいわか?
こんなつまらないことでも考えていないと、毎日が退屈でたまらない。
 
もう、何ヶ月も、いや何年も経っているような気がする。ひょっとすると、20年ほどたってしまっているかもしれない。しかし、なかなか次の迷い人は現れない。ここで待っているのがいけないのかもしれない。
そこで、俺は一計を案じることにした。

俺の体験を文章にして残しておく。その文章を読んだ人が、次の迷い人だ。そうすれば、きっと俺は自由になれる。元の世界に帰ることができるに違いない。
お願いだ。誰か気付いてくれ。そして、俺の体験を読んでくれ!

おや、ついに、自由になれる時が来たようだ。
そう、この文章を読んでいるあなた。あなたが、次の迷い人なのです。
 はい、確かにお渡しいたしましたよ。この部屋のカギ。
 
《了》