小説(三題話作品: ○活 TRY ねずみ)

ノートルダムの再生 by Miruba

日本の彼からメールが入った。
フランスの写真団体が主催するコンテストで入賞したという。
「ランスで展示会があるんだ、そこで会えないかな」お祝いの電話をすると、彼に誘われた。その後パリには入らずイギリスの展示会場へ移動するという。
「わかったわ、最終日には行けると思う」早速列車の予約をした。

ランスか……同じフランスに住んでいるのにもう10年以上も訪れていない。
パリから北東へ約140キロ、ランスReimsはフランス北東部のシャンパーニュ地方の中でも特にワイン醸造で知られた都市だ。
車窓からは延々と続く畑が見える。ブドウ畑が見え始めると、突然という感じで町が現れる。
パリでもそうだが、街中は賑やかで高い建物もあるが、ほんの2,30分も車を郊外へ走らせると田畑や雑木林に囲まれ、田舎の風景が広がるのだ。
列車を下りて少し歩く。
3世紀のマルス門がローマ帝国の支配下にあった町の歴史を感じさせる。
世界遺産の一つとなっている「ランスのノートルダム大聖堂」では、千年以上にわたってフランス国王の戴冠式が行われていた。
「パリのノートルダム大聖堂」が2019年4月に火災で大きな被害を受けたことは記憶に新しいが、ランスのノートルダム大聖堂もまた、1914年9月第一次世界大戦時、ドイツからの空襲により火災で焼け落ちたのだ。だが今では再建されその荘厳な姿を復活させているし、有名なファサードの「微笑みの天使の彫像」も美しく修復され、青の鮮やかなシャガールのステンドグラスも見事である。パリのノートルダム大聖堂も今まさに再建が始まっている。
「ああ、本当に見えるようになったんだな」つくづく思った。

人の体はおよそ60兆個の細胞で構成されているというが、2006年、人工多機能幹細胞(induced pluripotent stem cells)iPS細胞がマウスの段階で成功。マウス(ハツカネズミ属)とヒト(ヒト属)は遺伝子レベルで多くの類似はあるがまた異なる点も多々ある。だがマウスiPS細胞の成功を受けて同様の手法が人への応用も可能ではないかと世界中から、特に再生医療を待つ多くの患者たちからも大きな関心が集まっているのだ。もちろん全盲の私もその中の一人だ。

その後、目の分野でiPS細胞を角膜の細胞に育ててシート状に加工したうえで患者に移植し1年後角膜が透明になり視力が回復するとの臨床が行われ、経過観察が行われたが、その患者はほとんど失明状態だったにもかかわらず、今では本も読めるほどに回復したと聞いている。
フランスでも臨床が行われた。
若いころ見えていた景色をもう一度見てみたい。その欲求は常にあったし、そして大きかったのは彼の顔をこの目で見てみたいという思いだったかもしれない。
とはいえ見えても見えなくても、どう転んでもかまわないと覚悟を決め、再生医療にトライしてみることにした。幸いなことに結果は良好だ。私の場合は、事故によって網膜のほうが傷ついていた。
角膜が眼球の前にあるのに対し、網膜は眼球の奥にあり厚さが0.1ミリ〜0.4ミリと薄いのに、ハイテク並みの機能が満載されていて光に反応する視細胞は片目だけで一億個以上もあり、光の刺激を信号に変えて脳に映像を伝える役目をしている。
網膜色素上皮細胞の再建は昔から試されていて、私も今は亡き夫のムッシューから網膜を受けようとしたが、当時は強力な拒絶反応が起きると言われ断念したのだ。
それに比べ、私自身の細胞から作製するiPS細胞を使う事で拒絶反応からは解放されたわけだ。今では少し薄く色の入ったサングラスをすれば、太陽の下でも問題なく見えるし、夜も電気の灯りがあれば不自由はしない。
真っ暗闇だった18年間を思えばその感動は言葉に現せないほどだ。世界中の盲目の人たちに目に映る景色を見せてあげたい。再生医療の更なる発展を望むばかりだ。
マルス門の近くにWGalleryという展示場がある。前衛的な作品や写真展などの展示をしている小さな美術館と言ったところだ。会場の前はすでに行列ができていた。展示品を見ているとき、彼を見かけたが、取材を受けているようなので顔を合わせずに会場を後にした。
ランスの街は風が冷たくどんよりとした曇りだった。今にも雨が降りそうだ。
最後にこの町に来たのはいつだったろうか。
そうそう、ムッシューと来たのだった。
ムッシューは私の大切な旦那さんだった。事故で目が見えなくなってから、ずっと付きっ切りで私の点字の勉強やエステやマッサージの勉強の手助けをしてくれた。18歳も年上だったムッシューは、自分にもしものことがあっても私が一人で生きていけるようにと私の自立に全精力を注いでくれたのだ、ムッシューが亡くなってすでに6年になる。さんざん世話をかけたのに、ムッシューは脳溢血であっという間に亡くなって、私にろくな看病すらさせてくれなかったのだ。

「何を考えているの?」ふと、肩に手を置く彼の声が聞こえた。
「あら、会場を出てきちゃっていいの?」
「さっき見かけたのに居なくなっちゃったから、ホテルだろうと思って来たんだ。黙って居なくなるなんて酷いな。作品の感想を聞かせてよ」
「どれも素晴らしかったわ、特に中東で撮った写真がよかった。忙しそうだったから声をかけなかっただけよ」
「ね、もう一度会場にきてくれない? おふくろを紹介したいんだ。もう80に近いんだけれど、元気で気さくな人だから」
「え……でも……」
「いい年して生活感のない男じゃ頼りにならないとかいうんじゃないよね?」
「違うわ、でも、私……」言いよどむ私に彼は微笑みながら言った。
「ん~、もしかして……ムッシューのことじゃないの? あのね、忘れろだなんていうつもりはないよ」
私は心を見透かされたように感じて驚いた顔をしたに違いない。
「君の顔見ていればわかるよ、でも俺との思い出だってもう4年目に入るよ。俺の母親のように長生きをして、ムッシューとの思い出以上にもっと二人の想い出を重ねていければ、俺はそれでいいんだ。やっとフォトグラファーとしても自信が付いた。これからはパリにずっといるからさ」
私は目の手術の時ずっとそばに付き添ってくれた彼の優しさを思い出していた。
彼の顔を初めて見たときの心が震えたこともよみがえる。
目と同じように、私の心身も再生されていくかのようでそれはまさに新しい発見でもある。
彼のお母さんに会いに行こう。
椅子から立ち上がる私のために手を差し出した彼の温かい手をしっかり握った。

天国のムッシュ、私、また幸せになります。