小説家バルザックの家 by Miruba
モネの作品があるマルモッタン美術館に向かったのだが、観光客で長い行列が出来ていた。急ぐ旅というわけではないが、時間がもったいない、観光客の少なそうな日に改めて来ることにして、美術館の周りを散歩することにした。
直ぐそばには Jardins de Ranelagh ラヌラグ庭園があり、La Fontaine ラ・フォンテーヌの像を見ることが出来る。
イソップ物語をもとにした「北風と太陽」や「金のタマゴを産むめんどり」などの寓話で知られる17世紀フランスの詩人だ。この像は「からすときつね」を表しているが、前回見たときはあったはずの狐の尻尾が無くなっていた。悪いことをする人がいたものだ。
ラ・フォンテーヌの格言に、あの有名な「すべての道はローマへ通ず」がある。街並みを眺めながらセーヌ河に向かって歩いていくことにした。
オスマン調と言われる建物。
一階は商店やカフェなど商業施設になるよう天井が高く造られている。2階は一階の店舗の商品などを収納する倉庫や事務所などで天井は低目に造られている。3階はこのアパートの持ち主が住むことが多く、バルコニーが張り出し花が飾られる。4階から6階(または7階)まではアパートだが、最上階はお金持ちが住む為に他の階より立派な長いベランダが必ずしつらえられている。その上には屋根裏部屋(女中部屋)といわれるサーバントの部屋が並ぶ。天井は極端に低く6畳くらいの小さな部屋ばかりだが、現代では二部屋つなげて普通のアパートに改装されているところも多い。オスマン調の名前の由来は1800年代当時のセーヌ県知事だったという「ジョルジュ・オスマン」からきていて、現在のパリの姿の礎を作った主要人物だ。
『ゴリオ爺さん』『人間喜劇』など19世紀のフランス社交界絵巻を描いた小説家オノレ・ド・バルザック(1799-1850)が暮らした家は記念館となってパリ16区、メトロパッシーの近くにある。社交界に憧れたバルザックが好んだ閑静な高級住宅地で、オスマン調と呼ばれるシックなアパルトマンが立ち並ぶ。
セーヌ河沿いに近く、Rue Bertonベルトン通りという高い壁がツタに覆われた細い路があり、そこにはバルザックの家の裏口があった。
表通りのRaynouardレイノール通りにまわると、高い建物の中に突然崖のように落ち込んだ庭園が見えるのだが、そこにバルザックが1840年から47年まで債権者の目から逃れる為に、ブルニョル夫人という家政婦の名をかたって住んでいた。借金返済のため常に物書き作業に追われていたようで、この家でも傑作を生み続ける。
母親に疎んじられ見捨てられたと思い苦しんだバルザックは、母の愛を求めてか、常に年上の女性に頼る。暴飲暴食と同じように恋に溺れ、その贅沢や事業の失敗などで常に多くの借金を抱えていたという。
1832年、バルザックにウクライナから「異邦人」とサインの入った手紙が届く。それがポーランドの伯爵夫人エヴェリーナ・ハンスカとの18年に及ぶ情熱的な文通のはじまりだった。後にハンスカ伯爵が亡くなった後、バルザックが強く望んでハンスカ伯爵未人と結婚をするが、そのわずか数カ月後、重い病気を患い、パリに戻ってきたバルザックは、51歳で永眠をしてしまう。
アンリ2世様式の机。この机から、「従妹ベット」や「浮れ女盛衰記」などがうまれた。
彼の莫大な借金は、その死後、ハンスカ夫人がすべて支払ったと言う。愛に飢え、愛を求め続けたバルザックが、やっと愛を手に入れたと思う間もなく他界してしまう。結局真の愛に癒されることは無かったのだろうか。
資料:ミシュラングリーンガイド・バルザック記念館