小説 雪のカルチェラタンにて by Miruba
パリに3ヶ月の予定で滞在することにしたのは、自分発見の旅などということではなく、単に現実逃避だった。
ようやく任せられた仕事に失敗してプロジェクトの担当からはずされた挫折。
その後すぐに10年付き合ってきた恋人に裏切られていることが判ったことで、なんとなく結婚に逃げ込もうとしていた自分が滑稽であり、そんな自分も許せなかった。
高校の時の友達が、パリのカルチェラタンという地区に住んでいて、小さな部屋があるからよかったら使ってというので頼ったのだったが、行ってみると恋人がいて、新婚2人のアパートの一部屋に邪魔しているようで居心地悪いことこの上ない。
そこで、同じ地区にある友達の上司だったと言う人の一軒家に、間借りをさせてもらうことにした。
間借りといっても玄関は別で二世帯住宅のようになっていた。
部屋代を半額にする代わりに、週に三回家のことをする家政婦を募集していたらしい。
三十路もとっくに過ぎるまで仕事オンリーの生活をしていたから料理には自信がなかったが日本人だし掃除や洗濯くらいなら何とかなるだろうと思った。
だが、それが甘かった。
長期間の駐在後日本の会社に戻らずそのままこの地に住み着いたという雇い主はいい年をした独身のムッシューで非常に細かかった。眉間にしわを寄せ、上から目線の命令だ。
『君、無駄に電気はつけないように』などとチェックが厳しく、
『窓から差す光で見えるでしょう』と言い放ち、私が掃除しているというのに、電気を消すのだ。
信じ難い思いがした。
だがそれも一ヶ月もすれば慣れてきた。結局料理は上手く出来ないので途中からムッシューが自分で作るからいいというのでやめた。
あと2週間で日本へ帰るというときに、ムッシューがご馳走をしてくれることになった。
いつもの気難しい顔ではなく意外に穏やかな笑顔で迎えてくれて、私が招待のお礼に買ってきたワインを褒めてくれた。
料理はフルコースですべてムッシューの手作りだというのにも驚きだった。チョコレートケーキもとても美味しい。
ムッシューは世界中を仕事で飛びまわっていたときのことを、面白おかしく話してくれた。
_なんだ優しいんじゃないか_私はムッシューへの印象をすっかり変えていた。
私も仕事の話や身の上話などをする。
アルコールのおかげかも知れなかったが、私達はすっかり打ち解けてお互いの距離が近づいたことを感じていた。
「でも、ムッシューはずっとおひとりだったんですか?」
「いや・・・」ムッシューが言いよどんでいる。
「あ、やっぱり~お家ひろいですもんね。広いから冬は寒いでしょう。風邪ひきそうですね」
「暖炉があるから暖かいよ」
「でも~風邪ひいてもムッシューはケチだから、病院に行っても無駄だ!とかいって、行かせてくれない感じ」
「そんなことは無い!」
突然ムッシューは顔色を変えて怒鳴りだした。
ケチなんて冗談だ、といっても取り合ってくれない。それどころか、とっとと帰ってくれと追い出されてしまった。
私は、ドアの外にいた。確かに失礼だったかもしれないけど、あんなに怒らなくてもいいじゃないか。
涙がでて止まらない。アルコールのせいで、泣き上戸になっているのだろうか。
隣の部屋に帰る気がしないので、私は友人の家へ向かった。雪が降り始めていた。
泣きながら行ったので友人は驚いていたが、後残りの2週間はここにいていいよ、と言ってくれた。
友人と友人の恋人と三人でムッシューの悪口をサカナに飲み明かそうということになった。
ワインを買いに行こうとしたら、友人のアパートの扉をノックする人がいた。
ムッシューだった。
先程の怒りはどこえやら、すっかりしょげ返っていて、私を迎えに来たというのだ。
「先程は大人気なく怒鳴り散らして本当に申し訳ない。一緒に家にもどってはくれないだろうか」
深々と頭を下げられては、戻らないわけには行かなかった。もともと私がいけなかったのだし。
それに、迎えに来てくれたのが、なんだか嬉しかったのかもしれない。
ムッシューは私にコートを着せてくれた。
雪が降っていて、フードを目深にかぶる。
寒いので、ムッシューの腕に腕を絡ませた。暖かい。
「さっき、君が言ったことはあっていたんだ。だから余計に腹を立ててしまった。
いや、君にじゃない。自分自身にだよ」
歩きながらムッシューは、昔の恋人の話しをしてくれた。
仕事でパリに来たムッシューは画学生の女性と知り合って一緒に暮したのだという。
「でも、体の弱い女性でね。よく寝込んだんだ」
ある日具合が悪そうだったが、仕事が上手く行かずむしゃくしゃしていたムッシューは、
病院にいくという彼女に「そんな金は無いよ。病院にはこの間も行ったばかりじゃないか」
と言ったという。
「その夜、肺炎を起こしてね、たった3日で、あっという間に死んでしまったんだ。私が殺したようなものさ」
ムッシューは苦しそうに言葉を吐き出した。
私は言葉を失った。傷口に塩を思い切り擦り付けたことになる。
「ごめんなさい」
私は小さな声であやまった。ムッシューは、私の肩をぎゅっと抱いた。2人で肩を寄せ合って、雪のふるカルチェラタンの町を歩いた。
3ヶ月のタイムリミットが来て私は日本に戻ったが、ムッシューとはずっと手紙のやり取りが続いた。
何時しか私達はお互いを必要とするようになった。
1年後、私は再びパリのシャルルドゴール空港に着いていた。
雪で飛行機が遅れて、ムッシューには迎えに来るなと言ってあった。
カルチェラタンはまた雪だった。
タクシーが路地には入れない、というので、トランクをもち、歩くことにした、歩道はまだ何とかなりそうだ。
サンミッシェルの噴水が凍っている。向かいのジルベールジョンヌの本屋のところでムッシューが立っていた。
私を待っていたのだろう。笑顔でこちらのほうに歩いてくる。
「ムッシュー戻ってきたわ!」
「待っていたよ」
私は道路を渡った。
そのときだった。一方通行の道をスリップした車が飛び込んできた。
トランクを持っていた私は車が襲ってくるのを見ているだけだった。
避けるのが遅かったのに違いない。
ドーーンと全身へ衝撃をうけた。
うう、苦しい。私は全身がしびれるように感じた。
ムッシューが抱いてくれているのか、暖かい感触が私を包む。
遠くでムッシューの声がエコーのように響いた。。
「目を開けてくれ!お願いだ!私をひとり置いていかないでくれ!」
愛おしいムッシューの声が泣き声に聞こえた。