パリの街の門のお話・サン-ドニ門 by Miruba

★サン・ドニ門 (Porte Saint-Denis)
メトロ4,8,9号線 ストラスブール サン-ドニ(Strasbourg Saint-Denis) 
 

サン・ドニ門はルイ14世のライン河での戦勝を祝って1672年に造られました。パリ10区にあります。ツアーではなかなか見る機会がない移民の多い地区です。メインストリートであるサン・ドニ通りに見える巨大な門、それがサン・ドニ門です。もっとも最初の門は角々に4つの塔を持つ立派なものだったようですが戦争や老朽化のたびに壊されて、現在のものは5代目。ナポレオンが再建したもののようです。

サン・ドニは 「聖ドニ」と言う意味で、3世紀のパリの初代司教で殉教者なのです。教会で自分の首を持っている司祭風の像を見かけたら、それはサン・ドニの像ですね。
 

モンマルトルで処刑された後、自分の首をもって歩き、力尽きて倒れ、葬られた地に築かれたのが、パリ郊外にあるサン・ドニ大聖堂です。そしてサン・ドニ大聖堂に通じるパリの門_ということからサン・ドニ門と呼ばれるようになりました。

因みにサン・ドニ大聖堂はフランス王の公式の墓所となっています。7世紀メロヴィング朝・ダゴベール王から18世紀ルイ18世まで、あのギロチンにかけられたルイ16世もマリーアントワネットも、歴代フランス王43人と王妃32人が埋葬されているのです。ステンドグラスの美しい教会です。

パリは元々城壁に囲まれた町でした。街と外界との出入りにあった関所の役目をした門があちこちに造られましたが、その中で一番古く造られた門なのです。今はパリの街が広がっていますから道路中央にポコンとそびえ立っていますが、昔はこの門までがパリだったのか、と歴史を体感できます。一度は観たいパリ観光の一つといえるでしょう。

この関所である門を出入するときに通行手形のようなものが必要でしたがそれを エ・チケット(一枚のチケット)といい、お決まりを守る、礼儀作法などの意味のある「エチケット」の語源といわれています。

かつては郊外のサン・ドニ大聖堂から王のパレードが行われた由緒あるサン・ドニ通り。数世紀前まではパリで最も栄光のある場所だったのですが・・・

ワインやお酒の酒関税を取るところでもあり、門の廻りは安くお酒が飲めるので賑わったそうで、それに比例し売春婦や売春夫の多いところではありました。とはいえプロの人たちが多かったのでそれなりに、統制は取れていたのですが、近年は東欧やアジアからの決まりなどクソクラエ、という移民売春が横行しているとか。残念ながら近年は治安に多くの不安があり、注意が必要の場所となってしまいました。


「悲しみは星影と共に Andremo in Citta」
 

小説「ふるさとサン・ドニ」

リンダの祖父母はイタリアからの移民だったらしい。
ママンから聞いたことがあるが詳しくは知らない。
リンダが8才のとき赤んぼだった弟のジーノと共に、二人を残してママンは男といなくなった。
二人は施設にあずけられた。

施設に預けられたおかげで学校に行くことが出来るようになった。
フランスで生まれた子供は誰もがフランス人になる権利を得られるのに、ママンはノワール(不法滞在者)で、自分が国外退去になるのを恐れ子供たちの出生届を出していなかった。
サン・ドニのうらびれた安宿で売春婦をしていたのだ。
知らない男の人が来ると、リンダはいつも扉の外に追い出され、父親違いのジーノが生まれてからはジーノを乳母車に乗せて宿の外に1時間も2時間も立っていたのだった。

それでも、ママンの売春婦仲間はみんなリンダをかわいがってくれた。
ママンがいなくなった時も、「どこにも行かなくていいよ、一緒に暮らせばいいさ」そう言ってくれたけれど、民生委員の「子供たちの将来を考えてやってほしい」との言葉に結局引き下がった。

リンダはジーノの面倒をよく見て二人は常に一緒だったが、ジーノが5つになった時、養子の話が持ち上がり、二人は離れ離れになった。
お金持ちそうな新しいパパとママンに連れられて行くジーノ。
リンダは寂しかったが少しホッとしてその後姿を見ていた。
これでジーノがいつもほしがっていたおもちゃを買ってもらえるだろうから。

ジーノにはひと月に一回は会えたのだが、ジーノのパパの仕事の都合で南仏のマルセイユに行ってからは全く会えなくなっていた。
それでもリンダはジーノに手紙を書いたが、ジーノの返事はクリスマスカードくらいで、それも数年前からは音沙汰がなかった。
幸せにやってくれているかな、いつも心にひっかかっていたが、生きていくのが精いっぱいだったリンダはマルセイユに行くこともなかった。


高校を出たリンダは成績が良く施設の手伝いをしながらソルボンヌ大学を出て、イギリスの外資系の会社に就職が出来た。
香水の会社だったので、ブルガリアのバラや南米ペルーのヘリオトロープ、ヤマユリを求めて日本にも行った。
そこで知り合ったのが香水のバイヤーをしている礼二だった。

レイジはリンダが見たことも聞いたこともないようなアジアのエキゾチックな話をたくさん聞かせてくれた。
高級なレストランやリゾート地にも連れて行ってくれたが、決して節度を失わず、常に紳士だった。

最初はただの仕事上の付き合いにしか思わなかったリンダだが、レイジの誠実さにひかれていった。
またレイジは出張先から頻繁に絵葉書をくれたが、リンダへの愛を感じさせる言葉が必ず入っていた。
知り合ってから3年目そろそろ将来を意識する頃だった。

その日、礼二の予約したレストランは、サン・ドニ門の近くにあるジュリアンという店だった。

     
いつも連れて行ってくれる高級レストランではなかったが、アール・ヌーヴォのアルフォンス・ミュシャの絵が飾られ、当時のデザイン帽子などもインテリアとして配置され、
ステンドグラスと鏡のベルエポックを彷彿とさせる雰囲気が素敵なのだ。

1786年フランス革命の2年前に出来た居酒屋、現代のカフェスタイルからのスタートだったこの店は、1901年、あのノーベル賞が設立された年、また日本では八幡製鉄所が出来た年に、当時のオーナー、エドワード・フーシェが店内をアールヌーボーで飾り、現在に至っている。
「ジュリアン」は今も有名人などが気楽に通う歴史ある庶民派レストランなのだ。


レイジがこのレストランを選んだのは、リンダが生まれ育った土地だからという理由からだ。
リンダにもその気持ちは伝わっていて、この夜はおそらく求婚をしてくるだろうという予感があった。
テーブルは小さくその間隔も狭く、壁のソファーにラヴチェアのように隣同士で座るので、つい顔を寄せ合うように話をしてしまう。
レイジがポケットに手をやっては何時出そうか出すまいかといつになくソワソワしている。
_指輪でも出すつもりだろうか_そう思うとリンダも落ち着かなかった。

ギャルソンが注文を聞きに来た。
「へ〜いお二人さん、恋人同士は夜のベットのために何を食べるんだい?」

いくら庶民的なレストランとはいえ、客に対する態度ではない。
レイジは顔色を変えたが、リンダのさらに驚く顔を見て言葉を飲み込んだ。

「ジーノ!? ジーノじゃないの? あなたいつパリに来ていたの?」
「あれ?捨てた弟の顔をよく覚えてるね、リンダ姉さん」睨みつけるような挑戦的な言い方だった。

レイジは面食らった。弟がいるなどと聞いたことがなかったからだ。
いや、そもそもリンダは家族の話をしたことがなかった。
聞こうとすると話をはぐらかすのでレイジは意識的に触れないようにしていたのだ。

「リンダ、紹介してくれないか? こちら君の弟さんなの?」

リンダが消え入りそうな小さい声で「今日あなたにすべてを話そうと思っていたのよ」

「おやおや、恋人なのにリンダ姉さんのこと何にも知らないんだね、旦那は。そりゃそうだよね、移民で母親が娼婦で父親の違う弟がいて、学校もまともに行けず施設育ちって言えるわけないや」

レイジは言葉を失ったかに見えた。
リンダとジーノを交互に見ていたが、黙って席を立った。
「なんだなんだ、逃げ出すのか?旦那」
「やめて、ジーノ!」
リンダはテーブルに顔を伏せた。

ジーノは立ち去っていくレイジを見つめて、寂しそうに言った。
「リンダ、これでいいのかい? 本当にいいのかい?」
リンダはテーブルに顔を伏せたまま、
「いいのよ。レイジはいい人だから、あとで知って苦悩させるのは嫌なの。今の内ならまだ傷は浅いわ。それに、最高の恋だと思ったのは幻で、レイジの好きだったのは私の容姿だけ、私がレイジを好きだったのも、レイジの高級感だけだったのかもしれないもの。結局私はサン・ドニの娘よ」とつぶやいた。
それでも静かに泣いていることをジーノは判っていた。
リンダが飲みつぶれるのをジーノはそっと見守った。

ジーノは、貰われた親に子供が出来てからなんとなく家庭の中に居所を失い、中学を卒業すると家を出てしまっていた。
転々としたが、結局リンダと過ごした想い出のふるさと、サン・ドニに流れ着いた。
専門学校に入りなおし、ギャルソンとしてのキャリアを積んでいるところだった。
リンダに連絡をしたのは、生活に自信が付いたほんの数か月前だ。

酔いつぶれたリンダを抱きかかえるようにしてアパートに連れてきたジーノは、既に朝方だったので自分のアパートには帰らずソファで横になっていた。

ふと気が付くと玄関のベルが鳴っている。

思い頭を抱えて、扉を開けた。

そこには、朝日を浴びた照れくさそうなレイジが、大きな花束を抱えて立っていた。

「姉さん、リンダ姉さん!早く起きて!洒落た春が来たよ!」
ジーノは部屋の奥に向かって叫んだ。