小説(三題話作品: ひつじ 雪 ◆流行語◆)

シュガーロード by 御美子

1945年8月9日。日本がポツダム宣言を受諾したことに伴い、ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して満州(現在の中国東北部)に侵攻してきた。早々に日本に引き揚げ、難を免れたのは軍の上層部とその家族だけで、その他の兵士、満州鉄道の職員とその家族、満州開拓団と呼ばれる一般市民は置き去りになっていた。




「弥平さん、羊羹を10本ばかりくれんね」
「あっ、野中のおばちゃん。そげにたくさんどぎゃんすっとですか?」
「明日、日本に引き揚げよう思うちょると。羊羹ば道中の食料にすっとばい」
「えっ、おばちゃん達も引き揚げっとですか?寂しくなるとですたい」
「そんなのんきなこと言うちょっていいと?」
「うちの若奥さん『神風が吹いて日本が勝つ』言うとりますけん」


弥平の父は、教師で佐賀の商船高校の教頭まで勤め学生達からも慕われていたが病に倒れ母も後を追うようにして亡くなった。小学校1年生だった弥平は、佐賀県小城の和菓子問屋に奉公に出されていた。創業者の息子が行商から羊羹の販路拡大に成功し、兵士の携行食料として軍に納品したり満州でも販売されることとなり、弥平も他の奉公人達と満州に来ていた。


野中綾子は、満州鉄道の技師であった夫、弘と満州で生まれた二人の娘達と静かに暮らしていたが、戦況が怪しくなって不穏な空気を感じた夫から娘達を連れて帰国するように勧められていた。
ソ連が侵攻してくる直前、綾子は娘達が好物の羊羹が売っている弥平の居る和菓子屋を訪れたのだった。


翌日綾子は4歳と3歳になる娘達の手を引いて汽車で釜山港に向かった。列車は引揚者で溢れていたが何とか席を確保し、母子3人抱き合って身を縮めてトイレにも行かず、途中で列車が止められては恐怖におののきながら、ようやく釜山港に到着した。博多港までの船内も引揚者でごったがえし、綾子と同様の幼い子連れの母子達も珍しくなかった。子だくさんの家族の中には泣く泣く子供を中国人に託してきた人達も少なくなかった。幼い子供達は一様に「お腹が空いた」と泣くのだが、殆んどが着の身着のまま出てきていたので「日本に着くまで我慢してね」と言うより他なかった。博多港では引揚者達におにぎりと味噌汁が振舞われ、引揚者達がそれぞれの目的地に到着するまでの一時的なエネルギー補給になった。綾子は実家である久留米の寺に身を寄せ、夫の帰りを待つことになった。


一方、満州に残った一般市民の中には徒歩で延々と歩いてハルピンにある難民避難所に行き着いた人々もおり、弥平もその中の一人だった。避難所での楽しみは粗末でも食事をする時と、皆で郷土の自慢話をする時だけだった。


「おい弥平、お前のお国自慢は何だ」
「そりゃもう一言で言えば小城羊羹ですたい」
「小城って、何処じゃ」
「佐賀県にあっとですばい」
「何で佐賀で羊羹なんじゃ」
「長崎から江戸にかけて砂糖を献上する道があって、小城は2番目の宿場町で砂糖が手に入りやすかったとです」
「前から気になってたんだが、羊羹って漢字変じゃねえか」
「元々は羊の肉を使った鍋料理だったそうですたい」
「お前も羊羹が作れるんか」
「まだ下働きばってん、小城に戻ったら菓子職人になっとです」
「何だまだ作れねえのか、ま、ここには材料もないけどな」
「いつも思うとですたい。この雪が全部砂糖だったらなあって」
「ほんとやなあ、早く日本に帰って砂糖のたっぷり入った菓子が食いてえな」


綾子の夫、弘は、鉄道設備をそっくりソ連に移動させる重労働を課されていた。苦労して建設した設備を解体して列車に載せ、技師達も貨車で零下30度にもなろうかという酷寒のシベリアに送られた。設備を復元して列車を問題なく走らせることが現地での弘達の仕事だった。お国のためと誇らしい思いで仕事をしていたのに、今では粗末な食事で長時間奴隷のようにこき使われ手元には何も残らなかった。同じ技師の中には栄養失調と不衛生な環境だけでなく、この先何年続くか分からない収容所生活に落胆して病に倒れる者も出た。弘の同僚の一人も「こんな劣悪な環境で虫けらみたいに扱われ、働き蟻のままで死ぬのは無念だ」と言って息を引き取った。彼らは共同墓地に投げ込まれるか凍土が硬くて浅くしか掘れない土地に墓標も無しに葬られた。弘は「生きて必ず日本に帰るんだ」という希望を棄てず9年の歳月を生き延びた。


1954年、弘は舞鶴港に降り立った。私物は収容所で配給された食事を入れるための空き缶一つだけだったが、迎えに来ていた綾子の「日本は豊かになったのよ」という言葉に心が躍った。しかし、長年ソ連に居た弘に官憲は思いも寄らない言葉を浴びせた。「むこうで変な教育は受けてないだろうな」帰還したシベリア抑留者を待ち受けていたものは、謂れの無い偏見だった。


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