その1 秀吉の朝鮮出兵に挑んだイ・スンシン
「豊臣秀吉って知ってる?」
韓国に暮らし始めて間もなく、初対面の小中学生によく尋ねられた。
「戦国時代の出世頭ってイメージだけど、それがどうかした?」なんて答えようなものなら、途端にガッカリした顔をされたものだ。
何回か同様の質問をされるうちに気づいたのだが、彼らが期待していたのは、秀吉が朝鮮半島を侵略しようと軍隊を派遣したことを知っているかということと、そのリアクションを日本人から引き出そうということらしかった。
1592年からの文祿・慶長の役、いわゆる朝鮮出兵の頃の朝鮮半島は1392年に始まった李氏朝鮮時代(~1910)前期だった。建国以来、大きな戦争が無かったため、軍事力が低下していたところに、日本で天下統一を遂げた豊臣秀吉が明(中国)を征服すべく、中間に位置するという朝鮮王国を日本の属国にしようと考えたり、それを断ったからという理由で朝鮮王国に遠征してくるなど、迷惑な話だというのが今なら理解できる。
さて、豊臣秀吉とセットで覚えておいてもらいたいのが、文禄慶長の役の頃、朝鮮水軍の将軍になっていた韓国の国民的英雄、イ・スンシンだ。
32歳で科挙に合格し、士官として各地を転戦したイ・スンシンだが、赴任先で上官とそりが合わずに罷免されたこともあった。幼馴染みで政府高官だったユ・ソンヨンに助けられたり、逆に他の武官達から反感を買ったりと、身分の浮き沈みが激しかったが、1591年の文禄の役1年前の時点では朝鮮半島南西部の水軍を率いる立場に大抜擢されていた。
当時の朝鮮朝廷は、日本からの侵略があるかないかの二派に分かれていたが、イ・スンシンは侵略ある派で日本が戦争を仕掛けてくることを想定していた為、戦闘開始までに1年の準備期間を設けることが出来た。その間に日本船を研究して弱点を見つけ、防備を強化した亀甲船という船を作らせていたと言われている。
予想通り日本軍が来ると、地元の利点を活かして、潮流の激しい海峡に日本軍の船を誘い込み、仕掛けを駆使して日本軍を上陸させない作戦等が、成功したことも一時的にはあった。
慶長の役の直前、朝鮮朝廷が出陣命令を出したところ、日本軍の罠と考えたイ・スンシンが独断で出陣しなかったことから、命令に従わなかった罪で拷問された上、死罪を宣告されたこともあったが、何とか一兵卒として軍に留まることは許された。
1597年、慶長の役が始まってみると、イ・スンシンの後任で、かつて宿敵であったウォン・ギュンを始め将軍級武官達が次々と戦死してしまい、朝鮮水軍は殆んど壊滅してしまった為、イ・スンシンが更に広範囲の将軍として返り咲いたものの、使える船は12隻しか残っていなかった。そんな絶望的な状況にも関わらず、「12隻もあります」と発言をしたことが未だに新聞などで取り上げられる。勝算のないことはするなという戒めとしてではなく、見習うべき模範としてだ。イ・スンシンが不可能を可能にすると言われる韓国人魂の象徴として、今も尊敬されている所以だ。
1598年、秀吉の死後、退却命令の出た小西行長軍の退路を塞いだ為、援軍である島津義弘軍と戦うことになり、イ・スンシンは混戦の最中流れ弾に当たって亡くなったという説もあるが、彼の最期について確かなことは分かっていない。
韓国大統領官邸が見える光化門広場には威風堂々としたイ・スンシンの銅像が建てられている。その他所縁の地にも数多くの銅像が立っているという。
李舜臣