この作品は「ゆれながらいく」のスピンオフ作品です。
最初に「ゆれながらいくby 勇智真澄」をお読みください。


小説(三題話作品: ○活 TRY ねずみ)

ゆれながらいく  ~ママ 紀代子の場合~    by 勇智真澄

 無垢の欅でL字型に作られたカウンターには、Lの長い方に6脚、短い方に2脚の椅子が置かれている。
 六本木の路地裏に構えた、カウンター席だけの小料理屋。
 それがママ、紀代子の小さな城。一国一城の主になるまでには、長い月日を要したと厨房に立った紀代子は感慨深い気持ちになっていた。

 紀代子が会社勤めを辞めてから、かれこれ30年になる。ここまで来るのに何人の男に惑わされてきたことだろうか。そもそもOL時代に関わりを持った男性との結末がよくなかった。彼は紀代子が働く会社に出入りする業者のひとり。入社したての紀代子にとっては初恋とも呼べるものだった。
 彼は家庭があることをあえて言わずに紀代子を誘った。羽振りがよく、高卒で社会人になったばかりの紀代子が行けないような高級レストランに連れていってくれたり、とても自分では手が出ないブランド物の洋服やバックなどを買ってくれたりもした。    
 そして紀代子の知らない、いかがわしい場所や事を教えてくれた。若い娘を相手にするということに、彼は世間並みの興味を覚えていたのだろう。それは、金銭的に余裕があり自由にできる環境にある一部の人たちの楽しみ方だったのかもしれない。
 自分は彼にとってのアクササリー的な存在だったのだと思い知るまで、とにかく紀代子は彼に夢中だった。
 付き合いだして3年目を超えようとした頃、紀代子はそろそろ結婚したいと彼に想いを伝えた。だが彼は、紀代子の目に煮え切らない表情を残しただけだった。
 今にして思えば、彼は既婚者だったのだから困惑するのは当たり前だ。そして、そのこと以上に彼には危機が迫っていたのだった。
 その紀代子の告白の後、彼からの誘いは途絶えた。紀代子は、あんなことを言ってしまったから重荷になったのだ、と自分を責めていた。
 覇気のない顔で仕事をしていた紀代子を見ながら、同僚たちが交わすひそひそ話が聞こえてきた。
「あの出入りの人、会社のお金使いこんでたんだって」
「若いのによくやるよね。どうりで良いものを持っていると思った」
「彼女がそそのかしたに違いない」
 噂に尾ひれがつき勝手に泳ぎ出し、いたたまれなくなった紀代子は辞職せざるを得なかった。
 この件は事件としてニュースになり、悪意のある解釈で、紀代子が「貢がせた女」と取り扱われることもあった。
 田舎の母からは、近所に顔向けできないから帰ってこないで、と言われ更に傷ついた。身内でもそんなものなのかと。
 狭い地域のことだ。どこにいても、どのみち色眼鏡で見られることからは逃れられない。

 信じていたものが、足元から崩れていく。彼の嘘を見ぬけなかった自分。親に恥ずかしい思いをさせた娘。私はなんてバカなんだ。どこにも頼る場所がない……。
 紀代子は途方に暮れた。
 寝食を維持しなければ生きていけない。
 ワケありの紀代子が、すぐに働けるのは夜の仕事だけだった。このまま流されるようにその仕事に飛び込んだら、世間的には、あの娘は転落したと言われるのだろうか。
 いやそれは違う。転落したとみるのは偏見だ。
 夜働こうが昼働こうが、誰しもが何らかの希望や目標を持っているのではないか。
 夜ならば、この世界で一番になるという野望を持つ、やりたいことがあるために貯金するなどということは立派な生き方ではないか。
 水商売への不安、本当にこの仕事でいいのか。繰り返す葛
藤を、紀代子は自分の店を持つという夢で決着をつけた。
 雇われの身ではなく、この先の人生は自力で稼いで好きに生きていくのだと、紀代子は未来を見据えた。
 あの当時、彼と二人で過ごしたのは恋愛のまねごとという虚構の世界だった。22歳になろうとしていた紀代子は意を決し、今度は夜の虚構の世界に足を踏み入れた。

 紀代子が初めて務めたのは銀座の小さなクラブだった。
 夜の世界には、表舞台に立てない女が多くいる。紀代子もその中のひとりとなった。
 そんな女たちに慣れている客は、新人が入ったとなると、物見遊山でクラブに足を運ぶ。
 夜の女たちにとって、同性はすべてライバルだ。まだ客あしらいが上手くいかない紀代子を横目で見ているだけで、手助けはしてくれない。
 唯一、バーテンダーが優しく声をかけねぎらってくれた。もう男はこりごり。そう思っていたはずなのに、誰かに寂しさを埋めて欲しくてねんごろな関係になった。
 紀代子の部屋に、バーテンダーが出入りするようになるまで時間はかからなかった。
 1年もたつと、紀代子は店の売り上げを伸ばすようになっていた。程なくして、バーテンダーが紀代子の部屋から金目の物を持ち出して姿を消した。

 店を変わるたびに紀代子の稼ぎは多くなり、暮らしぶりも良くなっていった。
 もう男なんて……。そう言っているそばから、稼ぎに乗じたストレスが溜まり、誰かに体や心をゆだねたくなる。
 そして、つい油断しては、また痛い目に合う。
 二股をかけられた。お金をだまし取られた。店を出してやるから俺の女になれ、と寝れるか寝れないかで女を分類して口説く奴……。理由は様々だが、巷によくある話の結末。
 なので、ここではその詳細は省略しておくことにしよう。
 つまらない男に振り回される。そんな事を紀代子は繰り返していた。
 自分はずいぶん見くびられてきたものだ。見くびられるのは自分に隙があるからで、自分に自信がないからで、どこかに甘えが残っていた……。
 男の人に自分の人生なんか預けたらだめなのだ、と紀代子は改めて思い直した。

 もう騙されるのは嫌だ。
 紀代子は読む新聞の種類を増やし、話術を磨き、用心深く人間観察をした。それは、気の抜けない生活だったが、紀代子を毅然とした銀座の女に成長させた。
 紀代子の夢に協力してくれるダンナができた。
 自力で生きていく。紀代子は、そう決めてきた。
 でも、男に傷つけられてきた自分には、少しばかり男を利用してもいい権利があるはずだ。紀代子は自分に都合のいい解釈をした。
 利用して傷つけてもいいと思ったのに、ダンナはめっぽう情に篤く紀代子と対等に話をする紳士的な人だった。対等な付き合いは対等なもの同士ができる。つまらない男に騙されたと思っていた頃の自分は、つまらない女だったということなのだ。
 紀代子は過去の教訓から、のめりこむことなく、つかず離れずの適度な距離を保ちながら付き合った。それはダンナも同じで、粋な二人の関係を作っていた。
 銀座に足を運ぶくらいの人だ。顔の広いダンナから物件情報を聞き、業者を紹介してもらい、家賃交渉をしてもらい、紀代子は銀座の地に別れを告げることにした。
27年働いたのだ。開店資金は誰に頼らなくても準備できる。遅い独立だが、これからが夢にトライできるチャンスだと紀代子はワクワクした。
 
 きょうは、紀代子が六本木に店を開いて3周年の記念日。 
 料理の下ごしらえを終え、厨房を片づけた紀代子は、いつにもまして丁寧にカウンターを拭き、床を掃き上げた。 
 紺無地の中の一布だけ白無地にして、そこに「小料理や きよ」と店名を染めた暖簾。客が手を触れて入ってくる部分の汚れが、店の繁盛を物語っている。
その暖簾を出そうと引き戸を開けて外に出た紀代子は、日の暮れかけた3月の空を見上げた。
 二本の線のような雲が「きよ」を、もっと高い軌道に乗せるかのように揺れていた。

 そういえば最近、あの子の姿が見えないな。紀代子は、あの子のことを思い出していた。察しの通り、あの子、とは僕のこと。
 いつもなら踏み台を使うのに、その日に限って紀代子は片足立ちで暖簾棒をフックに掛けようとしていた。つま先に力を入れて伸びあがっていたら、へそ下から足の付け根、鼠径部に痛みが走り、その場に蹲った。
「大丈夫ですか」と、あの子は落ちた暖簾をフックに掛けてくれた。それが、あの子との出会いだった。
 もし紀代子に子供がいたなら、このくらいの年代であろう好青年だった。紀代子はお礼にと、食事を御馳走した。
 それから、あの子は頻繁に店に顔を出すようになり、簡単な大工仕事や力仕事を手伝ってくれるようになった。
 同じ時期、紀代子より10歳上の、ゴルフ好きなダンナが事業から身を引き、余生をハワイで過ごす、と機上の人になった。困った時にはいつでも連絡してこいよ、と温かい言葉が身に染みた。
 紀代子は、自分は人と比べて性欲が強い方ではないと思うのだが、あと何年生きられるかわからない。51歳になって、このまま誰とも体を交わさずに生きていくのはあまりにも寂しいことなのではないか、と思った。
 あの子を誘ってみることに、虚無感がなかったと言えば嘘になる。それでも、いつもの会話の中で、紀代子は同じ匂いを感じていた。それは恋愛に発展しないという関係の存在。
 紀代子に子供はいなかった。もしいたなら、自分の子供と重ね合わせてしまい、しり込みしたことだろう。

「オススメ! 初物春独活」
 気を取り直し、紀代子はメニュー板に短冊を張り付け店内に戻った。
 
 隆史は、防衛庁本庁檜町庁舎跡地に建った東京ミッドタウン六本木に来ていた。防衛庁があった頃の、ごちゃごちゃとした、賑やかで怪しげで猥雑な街並みは、どこにでもある大型複合施設の高層ビルに変わっていた。
 防衛大学校を卒業し、自衛隊に入った隆史はあと数か月で定年を迎える。自衛隊の定年年齢は階級により違うが、一般企業よりは早い。
 56歳で定年を迎える隆史は幹部だったため、この年齢でも遅い方だ。隆史は一等空佐で退任するのだが、定年後数年は同じ仕事に就くことが決まっていた。もちろん収入は減るけれど。
 全く隊を辞めてしまうわけではないのだが、定年、という言葉が感慨深く、なぜか元の防衛庁があった場所に足を運んだ次第だ。職務内容や昇進試験の大変さは、今ここでは必要ないので省くことにしよう。

 買い物が目的ではなかった隆史は、適当にビル内を歩き回ったが人波に疲れてしまい早々にビルを出た。
 せっかくだから軽く飲んで食事をして帰ろう。肩の張る洒落た店が苦手な隆史は、昔ながらの店がありそうな裏通りの小路に入った。
 あてもなくキョロキョロと歩いていると、メニュー板に貼ってある文字が隆史の目に入った。
 初物? 春? 
 まさか、若い生娘のことか? 
 それに、独活?
 まさか、まさか……。隆史とて、男だ。その方向に考えが及んでも仕方ない。
 それとも、何かのマッチングサービスなのかもしれない、と隆史は考えたりもした。
 だけど、独身から脱皮するためなら婚活だし、再び独身に戻るためなら離活というだろう。独活は、独身主義者のおひとりさま、のことか? そんな人たちが集まる場所?
 店構えは普通の小料理屋に見えるのに……。
 隆史は疑問をそのままやり過ごすのが嫌いなたちで、本当は何なのかだけ知りたかった。決して自分が想像した集まりに参加したいのではないことだけは、此処に記しておく。

「ひとりなんですけど、いいですか」
 隆史は、紺色の一布だけ白い暖簾を割り、引き戸を開けた隙間から顔を覗かせて聞いた。
「いらっしゃい。どうぞ」
 薄いねずみ色に菖蒲が描かれた着物を、着慣れた着こなしで身にまとった紀代子が笑顔で答えた。
 まだ時間が早いせいか、ほかに客はいない。
 隆史はカウンターの角の椅子に遠慮がちに座った。
「とりあえず、ビールを」
「生でいいですか」
「はい」
「お客さん、初めてですよね」
 紀代子は、常連ではない客との会話の始まりを求めて尋ねた。
 隆史は、紀代子に「初めて」と問われ、やっぱり何かの集まりがあるのだと思った。
「はい……。あの、身分証明とかいりますか」
 隆史の返答に、どこからどう見ても未成年には見えないのに変な冗談を言う人だと紀代子は思った。
「未成年、なんですか」
「いえ……」
「なら、飲んでも大丈夫ですね」
 紀代子は笑いながら、隆史の前にビールジョッキを置いた。
 歩き疲れたせいもあり、冷えたビールが渇いた喉からどっと隆史の胃に流れ落ちていった。
「ハ~うま」とつぶやいた声が聞こえた紀代子は、突き出しの準備の手を止めて振り返った。そこには満足げに幸せな表情の隆史がいた。

 隆史が二杯目のビールを頼んでも、まだ誰も来ない。
「何時からですか?」
「はい? お店は5時からですけど?」
 集まりがあると思っている隆史と受けて立つ紀代子は、どうも話が噛み合わない。
「いや……。あの、外に書いてあるオススメ――」
 隆史が疑問を解きたくて発した言葉を最後まで言い終わらないうちに
「はるうどになさいますか」と紀代子が問い返してきた。
「ハルウド?」
 隆史は紀代子の言葉を繰り返した。
「香り豊かな春の山菜です。この時期に採れるものをそう呼ぶんです。漢字で書くと、春(はる)、独(どく)、活(かつ)で、はる、う、ど、です。酢味噌和えとか天ぷら、美味しいですよ」
 紀代子の説明で自分の間違いを知り、隆史は苦笑した。
「自分は“独”を独身の事と思い、すっかり何かの集まりなのかと気になって……。ただ何なのか知りたくなって――」 
 紀代子は思わず笑いが噴出した。
「だからなんですね。どうりで話がずれてると思いました」
 変な客でなくてよかったと、紀代子は納得した。物事の解釈も、自分のことを自分というし、面白い人。
 この人にきつく抱きしめてもらいたい、と唐突に思った紀代子は自分の中に沸き起こった情動に驚いていた。
 これまでのような、誰かに、ではなく、この人に、なのだ。
 もう恋はしない。
 長い間、恋愛逃避をしてきた紀代子の心が突然ゆらいだ瞬間だった。

 隆史は長い独身生活を続けてきたが、別に男色の気があったわけではない。それなりに女と関わってはきたが精神を肉体に支配されたことはなかった。
 女性との関わりは、時には深みにはまり、つまらないことで文句を言われるようになる。そんな事なら一人で自由に生きていくのが望ましいと考えてきた。
 それが、紀代子の破顔一笑を目にしたら、この笑顔をずっと見て暮らしていきたいと心が揺れた。

 この日、紀代子と隆史は同じ思いを共有した。いつか、近いうちに、きっとそうなる、と。
 根拠のない希望はただの妄想に過ぎないが、二人の思いは深い根拠の先にある希望だ。喜びに満ちてゆらゆらゆれる鼓動のその道の先に、叶うはずの人生の形が見えていた。まだ遅くはない。

 次の十字路をまっすぐ行くとママの店だ。
 ママとは恋愛感情はないけれど、連れを連れて、それもママの娘だとしたらそうとうばつが悪い。
 もしかしたら、のハラハラが消え去らず混乱したままの僕と、母に彼を紹介するという緊張感をもったままの彼女。
 僕たちは黙々と歩いていた。街灯の下を通る二人の影が揺れている。
 僕の無言を、彼女は自分と同じく緊張しているのだと思っているのかもしれない。
「こっちよ」
 僕は彼女に腕を引っ張られ、十字路をまっすぐに行かず、左に曲がった。

 心の中の道にはいくつもの曲がり角がある。曲がる方向を選ぶのはもちろん自分なのだが、時には他人の力による場合もあるだろう。
 ただ、その心の道を持っているのは自分なのだ。どちらに向かうにしろ、歩くのは自分なのだ。