小説

恵美子と言う名の女 by Miruba


茜が恵美子と知り合ったのはパリだった。




茜は日本から逃げてきていたので部屋を借りるのにも苦労したが、レストランの厨房のヘルプやベビーシッターをしながら生きながらえていた。
少しの蓄えはあったが、無駄遣いはしたくなかったのだ。
だが、トラヴァイユノワール=「闇で働く」と足元を見られ、過酷な労働を押し付けられもした。


そんなある日、「そうだ、髪を切ろう」と思い立つ。
日本人の経営するヘアーサロンで、少し良い条件で雇ってくれるところがないか、聞いてみようと思った。


腰まである長い髪をショートにすれば気持ちもすっきりする気がしたのだ。
日本語で<カット&パーマ>と入り口に書かれた店に入る。


そこで茜は、運命的で不思議な出会いをした。


鏡の前の席に案内してくれた女性恵美子は茜に姿かたちがそっくりなのだ。




ドッペルゲンガー?


自分自身に出会う不思議な現象、ふと茜はそんなことを思い背筋がすっとした。
いや、違う。ドッペルゲンガーの相手は語りかけはしない、その相手は自分自身なのだから。
だが、目の前の女性は、声も話し方まで似ている。


2人は思わず鏡に映るお互いの顔をまじまじと見つめあった。
いるはずの無い双子の姉か妹に出会った気がする。
話をしてみると驚いたことに、恵美子が二歳年上ではあるが、誕生日は同じだった。






茜は日本語を話すのが久しぶりだったこともあって、堰を切ったように語りかけ、恵美子も笑顔で答えでくれて、髪を切り終わる頃にはすっかり意気投合していた。
_仕事はないだろうか?_と茜が問うと、恵美子は申し訳なさそうに、自分もその店最後の日で、数日後には趣味のスキーに行くことにしていると言うのだった。


「恋人と別れたので、アパートも引っ越したばかりなのよ。そうだ、よかったら部屋をシェアーしない?それからゆっくり仕事を探せばいいじゃない。
とにかくフランス語がもう少し出来ないと働くとしても困るでしょう?語学学校に通うといいわ」


渡りに船とはこのことだ、茜は恵美子のアパートについていった。
こじんまりとした部屋だったが、2DKなので個室はあり当時の茜には十分だった。
公園がアパートの真裏にあり、季節は春になろうとしていて、むせ返るような新緑と花々たちが茜を癒してくれた。
散歩をしているとおかしなことに、2人とも花粉症気味でクスンクスンと鼻を鳴らしながら歩く癖も一緒なので、笑い転げてしまう。
茜は数年ぶりに穏やかな気持ちになれたのだった。




ドッペルゲンガーは見た人を不幸にするというが、茜と恵美子の場合は「縁(えにし)」なのか、幸せを運んでくれたように思えた。




毎晩仕事が終わると2人ワインで乾杯し、尽きることなく話をした。
恵美子は泣き上戸で、「私は天涯孤独よ」といいながら身の上話を聞かせてくれた。
子供の頃は裕福な家庭だったという。
大学生のときに事業に失敗した両親が自殺とも思える自動車事故で死んで沢山の借財が残り恵美子は夜の世界に身を投じて返済するも追いつかず、夜逃げ同然にして日本を後にしたらしい。
長いこと日本人との接触は避けていたが、運良く恋人になった男の会社に勤めさせてもらい、外国人にとって取得の難しいフランスでの滞在許可証を得たのだという。
何度も同じ話を繰り返すので、昔の恋人の話や、死んでしまったという両親の誕生日や命日、住んでいた町の景色まで、茜はそらんじることが出来るほど覚えてしまったものだ。




茜もまた恵美子の前では無防備になる。


茜が嫁いだ先は京都の老舗だった。恵美子と同じで茜の両親も小さいときに無くなっていた。
母方の叔母夫婦に育てられたのだが、叔父の強引な勧めで見合いをさせられてそのまま短期間で結婚という運びになった。


相手の男は線は細いがハンサムなうえ優しそうだし、出入り業者だった叔父の会社の債務を肩代わりしてくれると言う条件を飲んでくれたこともあり、頭を下げる叔母夫婦に恩のある茜は、首を縦に振るしかなかったのだ。


しかし、優しそうに見えた夫の本性が覆るのに時間はかからなかった。朝早くから夜遅くまで店の手伝いをさせられ、家の一切の家事をもしなくてはならず目の回るほど忙しいのだが、その手順が悪いと言っては平手打ちをする夫、料理がまずいといっては足蹴にされた。
茜が嫁ぐ前まで住んでいた町は、兵庫県芦屋にある打出小槌という縁起のよい名前といわれているのだが、
「お名前負けしはってご商売もあんじょうよーしいひんのでっしゃろ」と、ひいては叔父の債務のことや叔母の器量のことまで口汚く罵る夫だった。
そのくせ殴ったすぐ後に打って変わって優しくなり、茜を抱きすくめ、「許してもらえまへんやろか」と男の癖に泣きじゃくるのだ。
優しいときは猫なで声になるその変貌振りに茜はついほだされ、また我慢を重ねるという悪循環をおこしていた。


だがDVは確実にエスカレートした。
それを見ても、仕方がないというようにむしろほっとしている様子で、かばってもくれない舅と姑が、実は息子の家庭内暴力に悩み、その矛先を向ける相手を「嫁」に求めていたのだと古参の従業員が耳打ちしてくれた。
何度か叔母の家に逃げ帰ったり、友達の家に隠れても、その度に連れ戻され、更なる暴力を受けるのだった。


ある時、会計が合わないのは、茜が泥棒したからに違いないと怒鳴られ「白状しぃ!」と馬乗りになって殴る夫に恐怖を覚え、心底愛想が尽き果て、_叔父も叔母も困るだろうな_と心で重荷を感じながらも、夜中にそっと家を出た。




茜は高校の修学旅行で訪れたことのあるフランスのパリに逃げた。
日本を捨てるつもりだった。
ヘビのように陰湿で執拗なDV夫の恐怖から逃げるには日本では駄目だと思ったのだ。
旅費と当座の生活費は自分の蓄えたわずかな貯金のほか、会社の口座から引き落とした。「泥棒」と罵られたのだから、その通りになってやれと、茜は開き直った。
5年間の労働賃と慰謝料だ。舅も姑も世間体があって警察に届ける勇気はないだろう。


だが一度、パリで発行されるミニコミ誌に『尋ね人』として、茜の名前が小さく出ていたことがあって、益々陰に隠れて暮すことになった。
恵美子も茜も、目立つようにふたりで歩くことは無かったし、パリの片隅でなるだけ人との接触を避けた。














2年近くが過ぎようとしていた。


「茜、そろそろ外国に行ってスタンプを押してもらったほうがいいわ。スイスに行こう」


「え〜っまたスキー?私、恵美子のように滑れないもの」


そうは言っても、次の日スキーに行くという強引な恵美子につい、したがってしまう茜だった。


モンブランは雪景色一色だった。
喜んで来た訳ではなかったが、普段、海も山もないパリにいるためか、山の景色を見るだけでどこか郷愁を感じ、ほっとする茜だった。




シャモニーはモンブラン山群のふもとの渓谷の町だ。


スキーのリゾートとして有名なモンブランは、1786年に初登頂されてから、現在の「登山」というスポーツが始まったとされているため、「登山発祥の地」として登山家の聖地と言われ、また、1924年に開催されたシャモニーオリンピックにより「冬季五輪・発祥の地」とも呼ばれている。


標高1035mのシャモニーから、3777mのエギーユ・デュ・ミディ山頂部の駅まで、2800mもの高度差を、ロープウエーで20分程で登ることができる。




今回は、イタリアをまたぐように位置するスキー場に行った。シーズンなので日本人も多く見かける。
急だったので部屋が無く、夜になってキャンセル待ちでどこかに泊まろうと相変わらず呑気な恵美子だった。


自分のスキーを持つ恵美子の荷物は飛び込んでホテルにあずけた。ヨーロッパは荷物だけでも預かってくれるところが多い。
茜はスイス行きが突然だったこともあり、下着や洗面を入れただけのリュックひとつだ。
スキー板も自分は新しい物を履いてみたいからと、恵美子がレンタルのスキーを借り、茜へは恵美子自身のものを貸してくれた。
2時間で遊びからあがってホテルの部屋を探すと予定したのだが、何度か滑っているうちにリフトを間違え、上級者コースに迷い込んでしまった。




先程までなだらかな初級者コースで滑っていた茜はその急斜面に足がすくんだ。
素人には、まるで崖から落ちるような急な角度で、とてもスキーでは滑ることなどできない。
「この急角度が面白いんじゃない」という恵美子だったが、仕方なく茜に付き合ってスキー板を外し、持って歩いて斜面を下ることにしてくれた。
それというのも、運の悪いことに雪が突然激しく降りだして、視界が利かなくなって来ていたのだ。
気がつくと滑っている人は誰もいなかった。




恵美子がスキー板を持ち替えたそのときだった。
深い雪に足を取られ、板を手から離してしまった。
スキー板を回収しようと、「入るな!危険」と言う看板より先に行こうとする。


「そっちに行ったら危ないわ!」と止める茜の言うことを無視し、
「あのスキー板はレンタルだから、弁償させられちゃうもの」と、さらに板を追いかけて急ぎ歩きだした。


茜は走るのに邪魔なリュックをたまたま横にあった木の枝に引っ掛け、恵美子の後をすぐに追いかける。


吹雪で視界が悪かったのが災いした。
細く深いクレバスに恵美子は飲み込まれていったのだ。
追いついていた茜は、恵美子のリュックを思い切りつかんだが恵美子の肩から外れてしまい、恵美子の叫び声が山びことなって何時までも響いた。


「ああぁ!大変だ!助けなくちゃ」


茜が誰かを呼ぼうにも、誰ひとり会わない。
ほとんど転がりながら、山を下りつづけた。
茜は泣き叫び、とうとう右も左もわからなくなっていた。


何時間歩いたのか。
朦朧として倒れこんだ。


_もうだめかもしれない。


しかしそれもいいだろう。夫から逃げるのにも疲れたし、仲良くなった恵美子もおそらく死んだだろう。




やはり、恵美子との出会いはドッペルゲンガーだったのか_茜は遠のく意識の中で思った。




ドッペルゲンガーとは、死に近づいた人が見る自分自身だという。
あまりに似すぎた茜と恵美子は、死も共にする運命だったのかもしれなかった。




モンブラン、まさにその言葉の意味の通り、白い山に倒れた茜の上に、雪はいつまでも降りつづけた。

EMIKOという名のおんな へ続く