その3 日韓朝で解釈が違う「好太王碑文」

韓国人である夫が歴代の王中で最も好きなのが高句麗19代王である広開土(カンケド)大王とも呼ばれる好太王(374~421)だ。聞きもしないのに、その理由を話してくれたのだが、広開土の名が示す通り、朝鮮の領土を最も広げた王様だからとのこと。その領土が北は中国吉林省(旧満州)から朝鮮半島全体まであったことから、南北統一のあかつきに、あわよくば中国東北地方まで韓国の領土にしたいと密かに願っているのは、夫だけではなさそうだ。
ちなみに韓国では、朝鮮半島のことを韓半島と呼び、北朝鮮のことは北韓と呼んでいる。
 
1880年、中国吉林省で好太王碑文が発見され、1884年(明治17年)現地調査をしていた情報将校酒匂景信が碑文の写しを日本に持ち帰った。これが後に倭の五王以前の古代日本を知る重要資料と分かり、1888年宮内庁に献上されている。
 
の碑文でよく議論されるのは、一部消えているのだが、以下の部分。
「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」
日本での解釈は
「そもそも百残(百済の蔑称)・新羅は属民であり朝貢していた。しかし、倭が辛卯年に海を渡って来て百残・加羅・新羅を破り臣民となした」
とシンプル。
同じ碑文を1955年時点の韓国では
「(前半省略)しかし、倭が辛卯年に来たので海を渡って倭を破った。百残は倭と連合して新羅に攻め入った。好太王は百残がどうしてこんなことをしたのかと思った」
と、ちょっとセンチメンタルな解釈となり
「(前半省略)しかし、倭が辛卯年に来たので海を渡って百残を破り、新羅を救って臣民とした」
と、英雄気分が混じるのが現在の韓国学会での定説らしい。
ちなみに北朝鮮では
「(前半省略)しかし、倭が辛卯年に来たので海を渡って倭を破った。百残が倭を連れ込み新羅に攻め入って臣民とした」
と解釈されたことがあり「連れ込み」という表現が個人的にはツボなのだが、それぞれの解釈に国民性や思想が反映されているようで興味深い。
 
高句麗は5世紀ころから自称高麗と言っていたという記述を見かけた。「高麗」を朝鮮語発音で読むと「コリョ」に近く、これがKoreaの語源と考えられている。936年から始まる高麗王朝時代は、高句麗の後継者を自任する王建が初代王なので、両国は名前が似ているだけではなく、関係があると考えてもいいだろう。
 
好太王が主人公の韓国ドラマ「大王四神記」はヨン様が主演だったこともあり、日本や台湾では高視聴率だったそうだが、韓国では「日帝残滓」と非難されたり、中国からは「大朝鮮史観」を含んでいると反発が起こったり、撮影中に事故が多かったりと曰くつきの作品だったようだ。史実をかなり書き換えた歴史ファンタジードラマと評価されていたので、当時は興味が無かったが、韓国や中国から批判されたと聞くと、逆に視聴してみたくなったりする。
 
 


広開土王碑文拓本:東京国立博物館蔵