「てえへんだ、てえへんだ」
「どうしたんだい、よたろう。そんなにあわてて」
「これがあわてずにいられますかって。今、そこの公園でマジシャンがマジックをしていたんですよ」
「ほほう。で、何が大変なんだい。マジシャンがマジックをするのは当たりめえじゃねえか。マジシャンが盆踊りを踊ってるとか、政治家が街頭マジックでもしているんなら驚くけどな」
「ところが、だんな様。このマジシャンが尋常じゃねえ」
「よほど珍しいマジックでもしてるんかい」
「珍しいもなにも、消えちまったんですよ」
「おめえは言葉が足りねえな。消えた消えたじゃ、何が消えたかわからねえじゃねえか。いってえ、何が消えたんだい」
「それが、よくわかんねえ」
「おめえの言ってることの方がわかんねえや。消えたのは、物かい、人かい、それとも大きな動物だったのかい」
「いや、それがそのう、言葉なんですよ。言葉が消えちまった」
「おい、よたろう。言葉なんてものは、目に見えるものじゃねえんだ。もともと見えねえものはなあ、消えたなんて言わねえんだよ。わかったかい」
「…」
「何黙ってるんだい。何か、お言いよ」
「ってな具合に消えちまったんです」
「なるほど。確かに消えちまってるな。ひょっとすると、そいつぁ催眠術ってやつかもしれねえな」
「何ですって?」
「だから、催眠術じゃねえかって」
「そうそう、きっとそいつです。そいつに違いねえ」
「よたろう。おめえ、催眠術知ってるのかい」
「やだなあ、だんな様。からかっちゃいけませんよ。もちろん、知る由もございません」
「そんなことだろうと思ったよ。いいかい、驚くんじゃねえよ。催眠術ってのは、人の心を自由自在に操ることのできる言わば妖術みてえなものだ」
「こいつぁ、たまげた」
「だろう」
「で、妖術ってなんです?」
「ったく、おめえにはこっちがたまげるよ」
「妖術か催眠術か知りませんが、消えちまった言葉は元に戻るんですかい」
「もちろんさ。術なんて一時(いっとき)のもの。かける術があれば解く術も必ずある。おめえが心配するこたぁないよ」
「そいつぁ良かった。あたいは、あの人が一生しゃべれなくなっちまうんじゃないかって心配してたんですよ」
「なんだい。よたろうは、そんなことを心配していたのかい。それにしても、そんな術にかかってみようなんて物好きがよくいたもんだ。それとも、マジシャンの仲間だったのかい」
「とんでもありません。普通のどこにでもいそうな、気の強そうなオカメ顔をちょっとくずしたような女の人でした」
「やけに詳しいじゃねえか。そういう気の強い女ほど、術にはかかりやすいってもんだ」
「で、その術はどれぐらいで解けるもんですかい」
「そんなもの、解く術をかければ瞬時に解けるさ」
「ところがこの女、あんまり生意気な口を聞いていたんで、マジシャンは術をかけたまま帰っちまった」
「そいつぁ、てえへんだ。ヘタすると、その女は一生口が聞けなくなっちまうかもしれねえな」
「でしょう。だから、てえへんだ、てえへんだって言ってるんですよ」
「まったく、意地悪なマジシャンがいたもんだな。しかし、その女も女だ。どうせインチキに違いないとかなんとか言って、マジシャンを怒らせちまったんだろう」
「さすが、だんな様。よくご存知で」
「いるんだよ。どこにでも気のつええ女ってのが。あたしも家に帰ると」
「だんな様。うしろ、うしろ」
「何だい、うしろって」
「…」
「おやおや。おめえ、いつからそこにいたんだ。よたろう、おめえはカミさんがいるの知っていたのかい。まったく、人が悪いな。大丈夫、大丈夫。あたしは、おまえの悪口を言っていたんじゃねえよ。公園のバカ女の話をしていただけなんだ」
「…」
「おい。何怒った顔してるんだよ。本当だったら。よたろう、何とか言っておくれ。このままじゃ、家に帰ってから何を言われるか」
「その心配はありません。消えちまった言葉の主は、おカミさんなんで」
おあとがよろしいようで。