ショートショート

穴  by 夢野来人

その穴は天を向いていた。閑静な住宅街の一角に一つだけ空き地があり、その空き地の片隅にセルロイド製の筒状の物体が刺さっているというか突き出しているというか、それは天に向かってそびえ立っていた。
「何の穴だ」
 この地を初めて訪れた者は、一様にして首をかしげる。一見して、何が目的でそこに設置されているのやら、どんな効果があるのやら、皆目見当がつかない代物なのだ。
「フタはない。ということは、雨が入る。垂直に立っているところを見るとケモノの巣でもなさそうだ」
 その穴に興味を示した何人目の男であろう。その男もまた、穴の存在目的がわからなかった。今までに何人もの人が興味を示し、その場に立ち止まり、しばし考え、あきらめて去っていった。
「のぞいてみるか」
 男はおそるおそる中をのぞいてみた。しかし、穴は相当深いところまで続いているようである。陽光は穴の深みに比例して徐々に暗くなっていき、やがて闇に包まれているのであった。
「小石を落としてみようか」
 男は小石を手に取り、そっと穴の中に落とした。が、音がしない。
「底は水ではないようだ。ということは井戸らしきものではないな。コンクリートのようなものなら乾いた音が聞こえるはずだし、ってことは、底は柔らかいコケ状のもので覆われているのか」
 男は推測した。しかし、いくら柔らかい物でも、まったく音がしないというのは不可思議だ。
「聞き逃したか。もう一度やってみよう。それ」
 今一度、小石を入れてみた。
*** ポチャン *****
「なんだ。やはり、聞き逃していたのか。底には水が溜まっているようだな」
 少し安心した。何の穴かは未だにわからないが、とにかく底があることがわかり安堵感を覚えた。
「帰るか」
 何の穴かはわからないが、このままここで考えていても結論が出ないと思い、男はこの場を立ち去ろうとした。
*** ポチャン *****
「なんだ、なんだ!」
 音は先ほど聞こえたはずである。
「どういうことだ」
 男の頭は混乱した。
「ここで、もう一度小石を落としたらどうなる?」
 男がもう一度小石を投げ入れようとしたときである。
*** ポチャン *****
「なんだって!!」
 3度めの音である。しかも、男の手には小石が残ったままである。
「俺は小石を落とした。1回目は音がしなかった。2度目を投げ入れたら水の音がした。しばらくして、もう一度水の音がした。3度目の小石は投げる前に音がした」
 男は今起こった出来事を振り返った。
「冷静に、冷静に考えれば答えが出るはずだ」
 男は、何度も何度も振り返った。
「状況から判断するには、考えられる結論は一つしかないな」
 男はある結論に達したようだ。
「小石を投げ入れたのは2回、水の音が聞こえたのは3回。つまり、小石の数と水の音は対応していないことがわかる。どういうことかと言えば、私の投げた小石の音ではないということだ。では、何の音か。音は確かに水面に小石などが落ちた時の音である。だとすれば、私が投げた小石以外の小石の音であろう。しかし、穴のまわりには私しかいない。誰が投げたんだ。いつ投げたんだ。これだ、いつというところがポイントだ。私より未来の人は、さすがに投げてはいないだろう。現在は私だけである。過去はどうだ。私より前に小石を投げた奴がいるんじゃないか。それなら説明がつく。そして、その音が今聞こえたのではないか。そういえば、先ほどこのあたりをウロウロしている子どもがいたじゃないか。あの子も、きっと石を投げ入れたに違いない。その音が今頃聞こえるとは、この穴は相当深いぞ。恐ろしく深い穴だ。そして、もうしばらくすれば、私の投げた小石の音が2回聞こえるはずだ。そろそろ聞こえるはずだが」
 男は筒状の穴に耳を傾けた。
*** ポチャン *****
「ほうら聞こえた。もう一回聞こえるぞ」
*** ポチャン *****
「どうだ。予想どおりだ。なんとか底の方が見えないかなあ」
 もう一度、男は穴を覗き込んだ。その時、遠くから声が聞こえた。
「気をつけなされー」
「何のことだ。こんな小さな穴に落ちるわけでもあるまいし」
 そう思った瞬間の出来事である。
*** ポタッ *****
「そうか。そういうことだったのか」
「覗いてはいかんぞー」
 男は納得して歩き始めた。
「くそっ。運が悪いな」
 遠くの声は、まだ聞こえている。
「そこは、あの鳥のトイレじゃからなー。空中から糞を穴に入れる名人鳥じゃ。穴をふさがれると必ずふさいでいるものの上に糞を落とすから気をつけなされー」