Mirubaのワルツィングストーリー

奪取III マロンショー by Miruba

♪君呼ぶワルツ <このページの下のyoutubeでお聴きいただけます>

セーヌ河に沿ってひとり歩いている。
ルーブル美術館のあるルーブル宮の壁がどこまでも続く。
向かいの岸辺には、かつての駅舎を改造したオルセー美術館の大きな建物が見える。
観光客がひっきりなしに通り、私は人ごみの中にあり、なお孤独になる。


「いい加減にしろよ」
「いい加減にさせてもらうわ」
言い争いは終わりなく続き、もう心底疲れ果てた。


家庭内にあって挨拶すらしない。
口を開けば、相手を傷つける言葉しか出てこなかった。
共に暮らす意味があるのだろうか。
答えなど決まっているのに、自分から最終決断をするのはごめんだ、とでも言うように、あえてそこを避けて知らん顔をしている私たち。
イポクリットの二人。そう、それは偽善に満ちた空間。


世間体などではないのだ。ここ巴里にあって、世間など気にする環境にない。
日本の家族においても、もう私たちのことにかまっている暇はないだろう。
体制を整えるための偽善ではないのだ。


ただ、自分自身をごまかしているに過ぎない。




10年前に仕事で巴里に来た私は、明にすべてを捨てて共に来てくれるように頼んだ。
彼は、いちからこの巴里で勉強しなおし、今は3箇所のレッスン室で社交ダンスの生徒を持っている。
甘ったれだった彼は強く頼りがいのある男性になってくれていた。


でも、社会情勢の変化もあり、生徒の数は減ってきていて、競技に出るような生徒もめったにいなかった。
生活のために私は仕事をやめるわけにはいかず、それを明には言えずにいた。
彼の希望とは裏腹に、サークルの手伝いはしても、競技に出る時間などなかったのだ。


日本から研修で来た、アマチュア競技選手であるEmikoさんを気に入り、力を入れていた明の気持ちもわからなくはない。一生懸命の生徒は、だれだって可愛いものだ。
だからといって彼女を追って日本に行くなんて、許せることだろうか。




奪った恋は、奪取によって失われるものかもしれない。
私だって、明のパートナーから、彼を奪ってきたと言えるのだから。


だが、愛も同じか?
長い時間をかけて育んで来た『愛』が、こんなに簡単に奪われていいものだろうか?
今までの愛の期間には意味がなかったのだと突きつけられているようで、納得がいかないのだった。




「Marrons chauds! マロンショー!焼き栗はいかが?あったかいよ」


アラブのおじさんが、メトロの駅の入り口で叫んでいる。
秋が遅くてやってきたので栗の出来にも影響したのか、11月も末になって漸くの焼き栗売りの声なのだ。


「一袋頂戴、おまけしてよ」
私がそう言うと、おじさんは新聞を円錐形に折った入れ物へ、
ごつい手で10個ほども掴み入れ、
「美人のマダムにプレゼントだ」
ウインクしながら、更にいくつか栗を足してくれた。
少し「焼き」があまいようだが、栗の香りがぷんとして、懐かしい味がする。


もうしわけ程度に残った枯葉をつけ、マロニエやプラタナスの細い枝たちが、
冷たい風に揺れている。その秋風ですっかり冷たくなった手を焼き栗は温めてもくれた。




観光客相手の土産物屋が立ち並ぶ坂の通りを行き、いくつもの階段を上り、テルトル広場まで足を伸ばす。
罵り合っていたたまれず家を出たときは昼ごろだったはずなのに、今はもう夕暮れ時だ。


巴里の空は燃えていた。
エッフェル塔が茜空を背景に黒い影となってその存在を主張している。


誰が作ったのだろうか、半畳ほどもある大きな緑色の鳩小屋が坂の途中にあり、鳩がオレンジ色に染まりながら、次々にスイートホームに帰ってきている。


私には、もう帰るスイートホームはないのだろうか。
枯れた涙が、また溢れそうになり、思わず栗の皮ごと口に放り込む。
皮が突き刺さって、唇から血が出た。


テルトル広場にいるたくさんの画家たちの作品を見るとはなく眺めながら、ピアノの音の聞こえるBARに入った。


窓際に座る。
格子の窓から日の落ちた空に浮かぶ青白い三日月が見える。
このBARは彼と初めて入った場所だった。
キャンドルを挟んで、何時間もダンスの話をしたっけ。
どんなことも判りあえると思えたあの頃。


何を話しても、どれほど言葉を尽くしても、空しくすれ違う今の私たち。
何でこんなことになったのだろう。




食欲はないのだが、シェフのお勧めというのでムール貝を頼んでしまった。
フランスなのにベルギー料理の代表格ムール貝のワイン蒸しだ。
ポテトフライが山盛りでついてくる。


「馬鹿みたい。食べられるわけもないのに」私は一人ごちて、ワイングラスにはいった先週解禁になったばかりのボージョレーヌーボーを一気に飲み干した。






「なんて飲み方をするんだよ、いくらフルーティーだといったって、ワインが台無しだ。
それに、そんなにムール貝を食べられるのかい?」


キャンドルの炎が大きくゆれて、向かいの席に彼が座った。


「え?!なんで?」


「君の行きそうなところくらいわかるよ。・・なんてね。本当言うと、さっきネットサイトの君のエッセイを見てきたんだよ。
このBARの想い出を書いていただろう?きっとここにいると思ったんだ」




私は喉にこみ上げてくる熱いものを必死に抑えたが、涙が溢れて止まらない。


何か、誤解だったのかもしれない。
何か、勘違いだったのかもしれない。
そう思いたかった。




ピアノがキャバレロの曲を弾いている。
私たちの初めてのデモンストレーションで踊った曲だった。
彼がリクエストしたのに違いない。
優しげな眼差しと、テーブルに置いた私の手の上にそっと添えられた彼の手のぬくもりが、私の冷えた手も心もゆるゆると暖めてくれたのだった。




まるでマロンショーのように。
<了>


写真:TechnophotoTAKAO テクノフォト高尾
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